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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第37話 「いつから」

「鍵が欲しいなら、理由を言いなさい」


 カミラは薬草を刻む手を止めなかった。


「ボリス殿下は、明日の朝、あの人を帝都へ運びます。敵国の王子の首を、手柄として陛下に差し出すためです。第一皇子殿下には、たいへん面白くないことでしょう」


「ずいぶん口がうまくなったわね」


「よい先生がおりましたので」


 カミラは包丁を置いて、棚の奥から鉄の鍵を一本出した。


「尋問棟の医者は私よ。合い鍵を持っていて、何がおかしいの」


「ありがとうございます」


「礼はいらないわ。これであなたへの貸しが一つ。味方の顔をした人間から順に疑うこと」


 地下の牢へ下りる階段は、二十二段あった。カミラの助手の大男が車椅子ごと私を運び、牢番に薬の瓶を飲ませて、上へ戻っていった。牢番は床でいびきをかいている。あの瓶には何が入っていたのか、聞かないことにした。


 鉄格子の向こうの床に、ラズが背中を壁につけて座っていた。


 きれいな腕が、縄の下にあった。


「なぜ来た」


「あとで聞くと、言いました」


 琥珀《こはく》色の目が、私を見た。それから、車椅子の車輪を見た。


「階段があったはずだ」


「ありました」


 ろうそくを床に置いた。


「知っていたのか」


 先に口を開いたのは、ラズだった。


「何をですか」


「紋を。水が落ちたとき、校庭じゅうが俺の腕を見ていた。お前だけ、目を開けるのが一拍遅かった」


「練習が足りませんでしたね」


「いつからだ」


 札を一枚、首から外して、膝の上に置いた。


「井戸の裏で、すり傷を拭いた朝です。布に灰色の線がつきました」


 ラズの呼吸が止まった。


「あの朝」


「はい」


「お前は、手が冷たいと言った」


「冷たかったので」


「俺の任務は、いつ知った」


「その前の日です。ザラが教えてくれました」


「ザラが、どうやって」


 私は指で、自分の耳を二度叩いた。


「聞こえるのです。私には。全部の魔獣の声が、十年前から」


 ろうそくの火が揺れた。


 ラズはしばらく動かなかった。それから、ゆっくり天井を見上げた。


「おい」


 牢の高い窓の外で、翼のたたまれる音がした。


《お前の耳のことは、黙っていてやると言った》


 低い声が言った。


《あの男には言っていない。今、この娘が自分で言った》


「ずっとか」


《ずっとだ》


「最初の、裏山から」


《足の分だ》


 ラズの喉の奥で、変な音がした。井戸の裏で初めて聞いた音に、少し似ていた。今は、ちっとも楽しそうではない。


「全部聞いて、俺の粥《かゆ》を食っていたのか」


「おいしかったので」


「なぜ告発しなかった」


「理屈は、指の数だけ出ました。地下の人たちが死ぬからです。ボリス殿下の刃を止める者がいなくなるからです。そばにいれば、殺す気かどうかが一番早くわかるからです」


「最後の指は」


「それは、理屈に入れていません」


 ラズの目が、わずかに揺れた。


「今日は、あとの話を聞きに来ました」


「ああ」


「校庭で、私は聞きました。何か言いますか、と」


「ああ」


 縄のかかった手が、膝の上で動いた。指が頬《ほお》へ上がりかけて、途中で止まって、そのまま下りた。今日は触らないと決めたようだった。


「言う」


 低い声だった。熱の夜に聞いたものとは違う、はっきりした声だった。


「お前が二十歩歩いてくるのを、俺は数えていた。お前が名乗り、学長が名簿を開いて、ようやく何者なのかがわかった。お前が血まみれの手を上げたとき、俺は一言で止められた。この紋は絵だ、と言えばよかった」


「はい」


「数えた。闘技場で身につけた頭だ。言えば俺は死ぬ。地下の連中も死ぬ。十年が消える。王妃の首も消える。母のかたきも消える。それを全部数えて、お前の足と命の半分と、並べた」


 牢の中が静かだった。牢番のいびきだけが、遠くで続いている。


「お前の足のほうが、軽いと決めた」


「はい」


「それで、黙っていた」


「はい」


「あれは、俺がやったことだ」


 琥珀色の目は、逸れなかった。


 私も逸らさなかった。


 聞きたかったのは、これだった。毛布の端を結ばれながら、ずっとこれを待っていた。


「あなたは、止めなかった」


「止めなかった」


「はい。聞きました」


 言ってしまうと、それで終わりだった。


「殺せ」


 ラズが言った。


「お前には権利がある。その鍵で入ってくればいい。動かないでいてやる」


「いいえ」


「なぜだ」


「あなたを殺しても、半分は戻ってきませんから」


 私は鍵を持ち上げた。カミラの鉄の鍵は、私の手には重かった。


「明日の朝まで、あなたの首は帝都行きの荷物です。ボリス殿下の手柄になります。あの人の手柄になるものは、何一つ増やしたくありません」


「お前、それで俺を逃がすのか」


「鍵穴まで、手が届きません。そちらから取ってください」


 格子の隙間から、鍵を差し入れた。腕がすぐに震えた。大きな手が伸びてきて、鍵と一緒に、私の指をつかんだ。


 熱かった。


「一緒に来い」


 低い声が、すぐ近くで言った。


「ザラは二人乗せられる。国へ連れていく。王の城でなくていい。砂漠の端でも、お前の足で歩ける場所は俺が作る。薬も、医者も、全部」


「ラズ」


「イスマエルだ」


「知っています。ゲルト教官が授業のように言っていました」


「アマリア。来い」


 初めてだった。この人が、誰かに何かを頼むところを、私は初めて見た。


 息を吐くのに、ずいぶん時間がかかった。


「私は、帝国の第七皇女です。兄がいて、兄は明日も戦っています。あなたの国は、私の国の敵です。あなたは私を殺すように命じられた人です」


「知っている」


「地下の人たちを守る手も、もう私にしか残っていません。飼育場の鱗馬《うろこうま》たちには、今夜また、尻を噛《か》んでもらう約束をしました。カーヤさんに逃げ道を伝える時間も要ります」


「知っている」


「それに、あなたの粥を食べていた娘は、もう死にました」


 指を引いた。


 大きな手は、少しの間、そのままだった。それから、ゆっくりほどけた。


 鍵だけが、あちら側に残った。


 膝の上の札を一枚取って、格子の間に差し入れた。手垢で黒くなった紐の札だ。


「返します。あなたの分です。結んだ札は、七日で切れても割れません。割れ目がぴったり合うだけです」


「お前の分は」


「持っています。銅貨を返したら、懐が寂しくなりましたので」


 ラズはそれを受け取った。


 また何か言いかけて、口を閉じた。この人に言いかけるのは似合わない。


「もう、行ってください。鐘が鳴れば、鱗馬が放れます」


「アマリア」


「はい」


「次に会ったら、俺はお前の敵だ」


「はい。そうなりますね」


 車椅子の上で、背を伸ばした。背は、まっすぐになった。腰の鍛え方を手伝ってくれた人が、目の前にいる。


「死ぬなら、端で死になさい」


 ラズの目が開いた。


「真ん中で死なれると、私が通れません」


 ろうそくが、じりっと鳴った。


 長い沈黙のあとで、傷のある頬が、ほんの少し動いた。井戸の裏で見た、あの笑い方の、ずっと小さいものだった。


「ああ」


「冷やさないようにします。あなたがいなくても」


「ああ。そうしろ」


 遠くで、最初のいななきが聞こえた。


《行くぞお! 尻だ、尻を探せ!》


 鐘が乱打される。男たちの怒鳴り声が、地上を東へ流れていく。鍵の回る音がして、鉄格子が開いた。ラズは私の前を通り抜けて、階段へ向かった。


 足音が、途中で一度止まった。


 振り向かなかった。


 そして、消えた。


 しばらくして、高いところで、大きな翼が風をつかむ音がした。


《小さな人間》


「はい」


《借りは、返したぞ》


「はい。お大事に」


 声はもう聞こえなかった。


 牢番のいびきが続いている。ろうそくが、半分になっていた。


 私は車椅子を回した。一回で手が滑って、二回目で向きが変わった。階段の下まで来て、上を見た。


 二十二段あった。


 カミラの助手は、もう来ない。来るとは、言っていなかった。そういえば、帰りのことを考えていなかった。


「考えるのは、得意なのだけれど」


《お前、馬鹿だな!》


 ポケットの中で、毛玉が言った。


 階段の一番上で、誰かの影が動いた。短い髪が見えた。腕を組んで、ひどく不機嫌そうに、こちらを見下ろしている。


「いつまで、そこにいるつもり」

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