第36話 「洗い流された紋」
「皇族どうしの争いは、代理の剣で決着をつけることができます」
学長室の棚から借りた古い法典は、私の膝には重すぎた。私はそれを、リシャールの前の机にどさりと置いた。
「剣を持つ者の身分は問いません。勝った側は、負けた側に一つだけ要求できます。私が勝てば、ボリス殿下は地下の者に二度と手を出せません。ヨハンさんの妹さんも返していただきます」
「殺さなくてよいのですね」
「はい。ですが、立会人が要ります。どちらの派閥にも属さない方で、皇族に準ずる身分の方が」
「なるほど」
リシャールは穏やかにうなずいて、それから首をかしげた。
「その方は、どちらにいらっしゃるのでしょう」
「殿下です」
「ああ、私ですか!」
リシャールは立ち上がり、椅子の足につまずいた。
ボリスは断らなかった。
全校の前で一度、泥に落ちている。銅貨も粥に沈められた。奴隷の刀など折ってやると言って、大きなあごで笑った。出てくる代理の剣はゴルドである。指は治っているし、この半年でまた太くなった。
「ねえ、聞いて」
前の晩、ヴィヴィアンが私の部屋に来て、寝台に腰かけた。蜜星の箱が、ひざの上で開いている。
「お兄様が立会人なんて、心配で眠れないの。あの人、絶対どこかで転ぶでしょ」
「私も少し心配です」
「作法なら、わたしが教えておいたから。リュミエールの立会人は、すごくきれいな作法をするのよ。見ててね」
「ありがとうございます」
「勝つといいね」
星が一つ、私の口へ入れられた。今夜は取らないらしい。
「あの人、肩は治ったの? 護衛さん」
「三日もあれば、あの人には十分です」
「そっか。よかった」
ヴィヴィアンは、ひどくうれしそうに笑った。
当日の校庭は、晴れていた。
千人の真ん中に、白い線で丸が描かれている。ゴルドが牛のように息を吐き、向かいにラズが立っていた。上着を脱いで、両腕を出している。代理の剣は、武器を隠していないことを見せる決まりだ。
右腕の三重の輪が、日の光の下で黒かった。
札は二枚とも、私の首にかけてある。
「ええと。では、始める前に」
リシャールが白い手袋をして、丸の中へ進み出た。手に銀の水差しを持っている。段差のない校庭で、一度だけよろけた。
「我が国の立会いでは、決闘の前に、両者の腕を清めます。偽りを洗い流す、という古い作法でして。妹に教わったのですが。少し、冷たいですよ」
壁際から、やわらかな笑いが起きた。ピエトロまで鼻で笑っている。
「おい、早くしろ。小国の作法など、誰も見ておらん」
ボリスが椅子の上から言った。
リシャールはゴルドの太い腕に、水差しを傾けた。透明な水が、紋のない腕を流れて地面に落ちた。薬草のような、少し鼻につく匂いがした。ゴルドが牛のように笑った。
次に、ラズの前へ歩いた。
「失礼します」
私は車椅子の上で、そちらを見ていた。
あの人は毎朝、井戸で顔も腕も洗う。雨にも濡れる。水で落ちるものではない。井戸の裏で布についたのは、汗でにじんだ端の、ほんの少しだけだ。知っている。それでも、止めたかった。止める理由を、口にできなかった。
水差しが傾いた。
水が、右の二の腕に落ちた。
三重の輪の、一番外側の線が、ゆがんだ。
ラズの目が、腕へ動いた。
黒い筋が、肘に向かって流れ出した。
指が肘かけをつかんだ。息を吸うのを忘れた。
リシャールは水差しを傾けたまま、不思議そうにそれを見ている。
「おや?」
輪が崩れていく。鎖の模様がほどけて、墨の川になって手首へ下り、指の先から、ぽたぽたと地面に落ちた。ラズが腕を引いた。もう遅かった。
校庭から、音が消えた。
白い線の丸の中で、男が一人、きれいな腕をして立っていた。
傷あと一つない。紋のあるべき場所に、肌がある。
「あの、すみません」
リシャールの声が、静かな校庭によく通った。
「これは、何か、私が間違えましたでしょうか」
「ゲルト!」
ボリスが椅子を蹴って立ち上がった。ゲルトはもう丸の中へ歩いていた。帳面を脇に挟んだまま、ラズの腕をのぞきこむ。細い目が、さらに細くなった。
「殿下。腕の内側をご覧ください」
紋に隠れていた場所に、小さな印があった。砂色の、親指の爪ほどの三つの輪だった。
「ザハリア王家の印です」
ゲルトは授業のときの声で言った。
「王の子は、生まれてすぐ、これを腕の内側に刺すのです。帝室の資料にございます。十年前に和議の城で、王の庶子が一人、行方知れずになっております。踊り子の子で、年は十一。名は、イスマエル」
「奴隷の子では、なかったのですね」
ゲルトはほほえんだ。
「敵国の王子殿下でいらっしゃる」
千人の声が、一度に上がった。
ボリスは大きなあごを開けたまま、しばらく動かなかった。それから、喉の奥から音がした。
笑い声だった。
腹を抱えて、涙を流して、丸の中へ入ってきた。
「はは! あはははは! おい! おい、聞いたか! 奴隷ですらなかったのか!」
太い指がラズの胸を突いた。ラズは動かなかった。
「ということはだ! 待て、待て! 裁きの呪いは、紋にしか来ない! こいつの紋は絵だ! おい、死にぞこない!」
大きな顔がこちらを向いた。
「お前、何を買った!」
校庭じゅうの目が、私の足に集まった。
「命の半分だと? 足を二本だと? 全校の前で、血まみれで、名乗って! お前はな、絵に金を払ったんだ! 落書きに! 自分の国の敵の、落書きに! これほどの馬鹿が、俺の妹か!」
私は顔の筋肉を、そのままにしていた。驚く練習は、十年している。目を見開いて、唇を少し開けた。
ラズが、私を見ていた。
丸の中から、まっすぐ私を見ていた。
カーヤが、人垣から出てきた。
短い髪が、風で揺れている。誰も止めなかった。丸の線をまたいで、ラズの前に立ち、そのきれいな右腕を見た。カーヤの左腕には、本物の紋がある。皮膚の下に沈んだ、盛り上がった傷だ。
「お前は」
声が低かった。
「お前は、自分で描いたのか」
「そうだ」
「毎月」
「ああ」
「あたしの母さんは、これを刻まれて、医療局で腹を裂かれたのよ。トビアスの足には札が下がってる。お前は、自分で描いて、あたしたちに粥をよそってた」
「そうだ」
「ティモはお前に惚れましたって言ってたわよ。あの子の腕のは、本物だった」
「そうだ」
乾いた音がした。カーヤの手のひらが、傷のある頬を打っていた。ラズの顔は少しも動かなかった。
地下の十一人が、人垣の後ろで立ちつくしていた。誰も、近寄らなかった。
空の高いところで、低い声がした。
《行くぞ》
「来るな」
ラズは上を見ないで言った。
「お前が来れば、ここの連中が全員、一味になる」
それから、ゲルトのほうへ両手を差し出した。
「こいつらは何も知らん。全部、俺が騙した。腕も、飯もだ」
「存じております」
縄がかけられた。今度は、誰の手も震えなかった。ボリスは、私の前に戻ってきて、車椅子の肘かけに両手をついた。生ぬるい息がかかった。
「心配するな。お前の分も、ちゃんと調べてやる。敵国の王子に命を捧げた皇女殿下だ。エルネストの奴も、さぞ喜ぶだろうなあ」
「殿下」
「なんだ」
「殿下。代理の剣は、立会人が勝敗を告げて終わる決まりです。ゴルド先輩の不戦敗でしょうか。それとも、私の負けでしょうか」
ボリスは一瞬きょとんとして、また腹を抱えて笑った。
リシャールが丸の真ん中で、空の水差しを持ったまま、青ざめて立っていた。その後ろで、蜂蜜色の髪の少女が両手で口を押さえている。
引かれていくラズは、振り向かなかった。
あの人を丸の中に立たせたのは、私の案だった。
あとで聞くと、私は言った。
今夜が、その「あと」だ。




