第35話 「ティモ」
「約束は、札の間の話だ」
大食堂の一番奥の机に、ボリスは腰かけていた。長靴の金の飾りが、粥の鍋の縁に触れている。
「俺は札市の夜に、狙うのはその奴隷だけにすると約束した。その奴隷が札を置いて逃げた。つまり約束も今朝でおしまいだ。おしまいになるまで、俺は一度も手を出さなかった。なあ、ピエトロ」
「はい! 殿下は誠実なお方です!」
「聞いたか、死にぞこない」
地下の十五人が、ガルムント寮の男たちに囲まれて、長机の間に並ばされていた。十二人になっていた。ヨハンとラズのほかに、札なしの新入生が一人、昨日逃げた。全校の者が壁際に押しこまれ、串を売る屋台の主まで呼ばれている。
私の車椅子はティモが押してきた。ガルムントの男が、ティモの襟をつかんで引き離した。
「さて、どいつからにするか。一番よくしゃべる鼠はどれだ」
「僕です!」
ティモが、自分から手を挙げた。
「そばかすの、よくしゃべる鼠です。殿下、ちなみに今日の朝ごはんは何でしたか」
男に頬を殴られ、ティモは床に転がった。血の混じった唾を吐いて、へらへら笑った。
「右でお願いしますって言うの、忘れてました」
「おもしろい奴だな」
ボリスが手を叩いた。
「よし。遊んでやろう。ヨハン、押さえろ」
「はい、殿下」
壁際から背の高い男が歩いてきた。顔の半分の猛禽が、まだ赤い。ヨハンの腕がティモの両腕を後ろから抱えて、持ち上げた。ティモの足が、床から少し浮いた。
「あ、ヨハンさん。靴下まだ返してもらってないんですけど」
ヨハンは答えない。
「おい、鼠。俺を笑わせてみろ。笑ったら、お前も地下の連中も、今日は帰してやる」
「殿下」
声が出た。私は車輪をつかんで、一回だけ回した。
「殿下がお探しなのは、私の首です。金貨二百枚でしたね。ここにございます。今なら札もありません。そちらの者には何の値打ちもないはずです」
「お前は最後だ。わかってないな、死にぞこない。こういうのは、順番が大事なんだ」
ボリスは振り向きもしなかった。
「やれ、鼠」
ティモは、ヨハンの腕の中で首をかしげた。
「じゃあ、今日の死にかけ自慢からいきますね」
声は震えていなかった。壁際がしんとしている。
「僕は今朝、殿下のあごに轢かれかけました」
「いや、ほんとです。中庭の角を曲がったら、まずあごが来たんです。そのあと少しして、殿下が来ました」
壁際の奥で、誰かが吹き出して、あわてて手で口をふさいだ。
ボリスは、にこにこしている。
「続けろ」
「はい。あと、ピエトロ先輩の尻の話もしていいですか。七針縫ったじゃないですか。あれ、鱗馬の間では一番の自慢話なんですよ。鱗馬の子どもに、寝る前に聞かせるんです」
二人、三人と肩が揺れだした。ピエトロが金切り声を上げた。
「き、貴様!」
「黙れ、ピエトロ。おい鼠、悪くないぞ。もう一つだ」
ティモは少し考えた。ヨハンの腕の中で、背中の位置を直すように動いた。
それから、私を見た。へらっと笑った。
「あれですよ、殿下。殿下は半年かけて第七皇女を探して、毎日その皇女の粥に指を突っこんでたじゃないですか」
大食堂の空気が動いた。
「僕、あれ、すごいと思うんですよ。普通は気づきますよ。僕らなんて、靴下だけで三日で犯人わかりましたからね。帝国の皇子様より、うちの靴下係のほうが優秀ってことで」
堰が切れた。
笑い声が、壁際のあちこちから上がった。抑えようとして抑えきれない声が、天井に当たって返ってきた。千人の中の何十人かが、はっきり笑っていた。ピエトロの顔が青くなり、ロザーン寮の連中が肩を叩き合っている。
ボリスも笑っていた。
大きな口を開けて、机から降りた。腹を揺らしながら、ゆっくり歩いてきた。腰の剣を抜く手つきは、串でも取るようだった。
「いい。実にいい。俺は笑ったぞ」
「ですよね!」
「だが、俺の笑いじゃないな。あいつらが笑った」
そう言って、ボリスは剣をティモの腹に入れた。
音はほとんどしなかった。
笑い声が、端から順に止まっていった。
ティモの体が、ヨハンの腕の中で一度揺れた。ヨハンは命令通り、押さえていた。腕の位置が少しも動かない。動かせないのだ。顔の半分の模様のまわりで、皮膚が白くなっている。残りの半分は、口を開けていた。声は出ていない。
「さて、笑わせてくれた礼だ」
ボリスは剣をゆっくり引いて、ティモの軍服で血を拭いた。
「地下の連中は今日は帰していいぞ。俺は約束を守る男だからな」
指先が冷たかった。動けなかった。息を吐いて、吸うことができなかった。
「あ」
ティモが自分の腹を見下ろした。
「左じゃないですか。右でお願いしますって言ったのに」
「離せ、ヨハン」
「はい、殿下」
腕がほどけた。ティモは床にずり落ちた。ヨハンがまっすぐ立ったまま、見下ろしている。
「ヨハンさん」
ティモは床から、背の高い男を見上げた。
「靴下、あげます」
右半分の顔が、びくりと動いた。
そのときだった。
天窓が割れた。
ガラスと一緒に、赤い髪が降ってきた。長机を踏み割って、人垣の真ん中に立つ。肩の縫い目が開いて、血が流れている。息が荒かった。山の向こうから、ザラで飛んできたのだ。
床を見た。
琥珀色の目が、ボリスでもなく、私でもなく、ティモを見た。
ガルムントの男たちが、一歩下がった。ボリスも、剣を持ったまま半歩下がった。
ラズは床に膝をついた。
血だまりの中に手を入れて、ティモの頭の後ろを支えた。
「おい」
「あ、先輩。今日も最高に、かっこいいです。惚れました」
「黙れ。立てるか」
ティモの目が、少し細くなった。
口の端が、へらっと上がった。
「無理です。おんぶしてください」
医務棟の裏で、私はその続きを聞いたことがある。立てるな、とこの人は言った。
ラズは何も言わなかった。
ティモの腕を取って、自分の首に回した。縫い目の開いた肩で背負い上げ、ゆっくり立ち上がる。血が床に落ちた。ティモの足がぶらぶら揺れている。
「わあ」
小さな声がした。
「荷物じゃ、なくなった」
頭が、赤い髪の横へことんと落ちた。
それきりだった。
ティモさん、と呼んだつもりだった。声は出なかった。
誰も動かなかった。ラズは人垣のほうへ歩き出した。ガルムントの男たちが道を空けた。ボリスの横を通るとき、足は止まらなかった。目も向けなかった。
「奴隷! 札がないなら、お前はもうただの」
声が途中で消えた。ボリスは二歩目を踏み出せずに立っていた。
その夜、地下のかまどの火は小さかった。
ティモを寝かせた床のそばに、椀を置いた。グンナルの椀の隣だった。十一人が床に座って、誰も粥に手をつけなかった。
「今日の死にかけ自慢を、始めます」
自分の声がひどくかすれていた。
カーヤが顔を上げた。
「あんた、もう来ないでって言ったわよね」
「言われました。来ました。優勝は、ティモさんです」
しばらくして、カーヤが立ち上がった。鍋から一番大きな肉を取って、ティモの椀に入れた。
「靴下の分も足しておくわ」
それだけ言って、自分の場所に戻った。
部屋の隅で、ラズが石で刀を研いでいた。ガルムントの男が落とした刀だ。音が、一定の速さで続いている。一度だけ、研ぐ手が止まった。右手が頬の傷に触れて、ためらいなく刀へ戻った。
「ボリスを殺すのですね」
「ああ」
「殺せば、ヨハンさんが死にます」
石の音が止まった。
主が死ねば、紋の者も死ぬ。この人が一番よく知っていることだ。
「だったら、どうしろと言う」
「殺さずに負かす方法が、一つあります」
私は札を二枚、膝の上に並べた。
「ゲルト教官が教えてくれました。古い法は、調べると、いくらでも出てくるのです」




