第33話 「顔の半分」
「ヨハンさん、靴下を持っていったみたいです」
ティモは空の寝台の下をのぞきこんで言った。
「僕のです。だから、すぐ帰ってきますよ。あの人、人のものは返す人ですから」
「また靴下ですか」
「はい。これで三度目の事件です」
誰も笑わなかった。ティモ本人も、言いながら笑っていなかった。
手紙の字は、大きくて斜めだった。『にいさん、げんきですか。きょうはいいてんきです。せんたくがはやくかわきます』。それから、札の字がそのまま写してある。『肺 予約 次の満月』。
「次の満月は、六日後です」
私が言うと、カーヤが矢を握りしめた。
「買い戻すお金なんて、ここにはないわよ」
「ありません」
「じゃあ、あの人はどこへ行ったの」
ラズが寝台から身を起こそうとした。まだ肩に毒が残っていて、唇が白い。
「探す。手を貸せ」
「寝ていてください」
「ヨハンは」
階段の上から足音がした。ロザーン寮の一年生が、息を切らして顔を出した。
「校庭に、全校集合だそうです! ボリス殿下の、お披露目があるって!」
雪はもう残っていなかった。校庭の泥が乾いて、固くなりかけている。
壇の上に、ボリスが立っていた。足を開いて、大きなあごを上げている。頬のこけたのは、もう戻っていた。
「よく来たな、諸君! 今日はめでたい日だ! 俺の忠実な家来が増えた!」
後ろに、背の高い男が二人、控えていた。
一人は痩せていて、顔の左半分が赤く腫れている。真新しい紋だ。エゴンだった。沢にいた男で、焼却炉の前でラズを見たと言った男である。何か言いたそうに口を開けたが、ボリスに頭をはたかれると、すぐに閉じた。
「こいつは先日、大変いい働きをした。だから褒美に紋をやった! これでこいつは、何があってもしゃべらない!」
笑い声が起きた。私は笑えなかった。デトレフを刺したのは誰なのか、これで聞く相手がいなくなった。
もう一人が、前へ出た。
顔の左半分に、猛禽の模様がある。血がにじんで、まだ乾いていない。
右半分は、静かな顔だった。段差の前で速さを落とす、あの顔だった。
「ヨハンさん」
声が出たのかどうか、わからない。
ティモが、車椅子の取っ手を握ったまま動かなくなった。
「紹介しよう! 元奴隷のヨハンだ!」
ボリスは太い腕をヨハンの首に回した。
「片腕の鼠が、今朝早く俺の部屋へ来た。泣かせるじゃないか。妹の札を外してくれ、そのためなら何でもする、とな。俺は優しいから聞いてやった! 妹はもう分院を出たぞ! 俺の屋敷の洗濯場で、肺を二つとも持ったまま働いている!」
ヨハンの目は、まっすぐ前を見ていた。
「おい、奴隷」
ボリスは、壇の下の私の後ろを見た。ラズは来ていた。カーヤの肩につかまって、それでも一人で立っていた。
「俺は札市の夜に約束したな。お前の仲間に手を出さないと。出したか? こいつは自分の足で来たんだ。俺は、約束を守る男だ!」
ラズは答えなかった。右手が、頬の傷へ上がりかけて、途中で止まった。
「さて」
ボリスが私を見た。
「死にぞこない。お前の車椅子を押していた男だそうだな。寂しいだろう。今日からも押させてやろう。おい、ヨハン」
「はい、殿下」
静かな声だった。
知っている声だ。座ってくださいと言った声だ。そこは水がしみないので、と言った声だ。
「皇女殿下にごあいさつしろ」
ヨハンは壇を降りた。人垣が割れる。迷いのない足取りで、まっすぐ歩いてきて、車椅子の前に膝をついた。
すぐ近くで見ると、紋の縁から、血が一筋あごへ流れていた。
「皇女殿下」
頭が下がった。
何か言おうとして、喉のどこかがひどく狭くなっていた。
ヨハンの右半分の目が、一瞬だけ私を見た。それだけだった。
「いい声だな! 次だ! 押して差し上げろ! 校庭の真ん中の、柱の跡までな!」
ヨハンが立ち上がって、後ろへ回った。ティモの手の上に、大きな手が重なった。
「どいてください」
「いやです」
「どいてください、ティモ」
「靴下、返してから言ってください」
ティモの声が、裏返っていた。
ヨハンの手が、ティモの指を一本ずつ外した。優しい手つきだった。
車椅子が動き出した。
段差があった。泥が乾いて、固まった轍である。いつもなら、声をかけずに速さを落とす場所だ。
速さは落ちなかった。
車輪が跳ねて、私の体が浮いた。肘かけをつかむ。また次の轍が来る。だんだん速くなる。
「いいぞ! もっと速くだ!」
ボリスの笑い声が、背中から追ってきた。
「ひっくり返せ! 泥を食わせろ! 銅貨を噛むのが好きな女だ!」
視界が揺れた。椅子が傾いた。私の頭のすぐ後ろで、ヨハンの息が、一度だけ、大きく乱れた。
「そこです」
小さな声だった。私にしか聞こえない声だった。
傾いた車椅子が、地面に叩きつけられた。
私の体は泥の上に転がった。右の肩から落ちて、息が止まった。
落ち方は、覚えている。井戸の裏で、最初に教わったことだ。
頭は打っていなかった。
起き上がれないまま、泥の中で笑い声を聞いた。ボリスがいちばん大きな声で笑っていた。
ヨハンは、倒れた車椅子の横に立っていた。命令された通りに、まっすぐ立っている。
轍の深いほうへ倒せば、私は頭から落ちた。ヨハンは浅いほうへ押した。
顔の半分が血まみれで、どちらの半分も、何も言わなかった。
「よくやった! 戻れ!」
「はい、殿下」
「ヨハンさん」
足音は止まらなかった。遠ざかっていった。
大きな手が、私の脇に入った。熱のある手だった。ラズは肩の縫い目が開くのもかまわず、片腕で私を持ち上げた。
「息を吐け」
「はい」
「吸え」
「はい」
車輪が一つ、外れていた。それを拾ってきたのはティモだった。泣いていなかった。へらっと笑おうとして、その形のまま、口が止まっている。
「直しますよ、これ」
ティモは言った。
「靴下の分も、あとで請求しないと」
「ええ。私も一緒に請求します」
「お願いします。利子もつけましょう」
その夜、壊れた車椅子を直す音が、地下に響いていた。
私の部屋の戸が叩かれたのは、消灯の鐘のあとだった。
開けると、廊下に背の高い影が立っていた。半分の猛禽が、ろうそくで揺れている。
「皇女殿下。ボリス殿下のご命令で、お伝えします」
静かな声だった。
「明日、ゲルト教官から、殿下の札についてお話があります。札が無効になる、とのことです」
ヨハンは一礼して、背を向けた。廊下を戻る足音が、三歩で止まった。
「廊下は冷えます。毛布を、お忘れなく」
振り向かないまま、小さな声で言った。足音はそれきり、遠ざかっていった。




