第32話 「同じ匂い」
「傷口を切ります。押さえてください」
「切るんですか! 先輩を!」
「切らないと、毒が心臓へ上がります。ヨハンさん、肩を。ティモさん、灯りを持って、目をつぶらないでください」
「無理です! 目が勝手に!」
「では、薄目で」
避難所の寝台に、ラズを寝かせた。ここまで運ぶのに四人がかりだった。私は車椅子を寝台にぴったりつけて、小刀を炎であぶった。鶏は四羽縫ったが、切るのは初めてである。
紫の縁の外側に、刃を入れた。ラズの体が一度跳ねて、ヨハンの腕に押さえられた。
「銀葉草をありったけ。カーヤさん、噛んでもらえますか」
奥の暗がりで矢を削っていた手が止まった。
「あたしに、皇女様の手伝いをしろって?」
「ラズの手伝いです。噛むと舌がしびれますが」
カーヤは舌打ちをして、銀葉草の束を奪い取った。
黒い筋の混じった血が、桶へ落ちる。その匂いが、かまどの煙を押しのけて上がってきた。
手が止まった。
甘かった。腐った果物の甘さである。十年前の朝、目を覚まして最初に吐いたときの、自分の喉の匂いだ。十年間で、何度となく夢に出た。
「どうした」
カーヤが口を緑にして言った。
「いえ。傷口に詰めてください」
毒学の教室の瓶のどれとも違う。兄の持ってきた本のどれにも載っていなかった。あの毒の名を、私は知らない。
知らない毒が、桶の中にある。
《くさい!》
ピピンがポケットから飛び出して、毛を全部逆立てた。
《これ、くさいぞ! おれ様の一番嫌いなやつだ!》
「あなたは何でもくさいと言うでしょう」
《これは本当にくさいんだ! 暗くて、狭いとこの匂いだ!》
「暗くて狭いところに、行ったことがあるの?」
《わかんねえ! でも、くさい!》
私は桶を足で遠くへ押した。足は動かないので、車輪で押した。
傷を縫い終えたときには、夜が白みはじめていた。カミラを呼びにやったヨハンが戻ってきた。カミラは傷を一度のぞき、色を見て、私を見た。
「あなたがやったの」
「はい」
「縫い目が鶏みたいね。でも、これでいいわ。熱が三日続いて、それで死ななければ助かる」
「この毒の名を、ご存じですか」
「知らないわ。去年の夏、第一皇子殿下の密偵の死体が同じ色をしていた。誰も名前を知らない毒なのよ」
カミラは袖を下ろして、階段を上がっていった。
昼前に一度、外の空気を吸いに連れ出してもらった。
ヨハンが黙って車椅子を押す。この人は押すのがうまい。段差の前で、声をかけずに速さを落としてくれる。
「ヨハンさん。ありがとう。朝から一度も休んでいないでしょう」
「はい。今日は、手紙が来る日なので」
「手紙」
「妹からです。ケーテといいます。分院の洗濯場にいて、月に一度、字の下手な手紙をくれます」
初めて聞く話だった。この人が真顔で言うのは冗談ばかりだと思っていた。
「いくつですか」
「十三です。先月の手紙に、足もとの札が替わったと書いてありました」
車椅子の速さは変わらなかった。
「読めなかったそうです。字を習ったばかりなので。札の字を、そのまま書き写してありました」
「何と」
「肺、と」
かける言葉を探した。何も見つからなかった。ヨハンは飼育場の角を静かに曲がった。
「ティモの靴下の話をしてもいいですか」
「お願いします」
ヨハンの話が終わるころ、飼育場の裏に出た。人だかりができていた。
「おい、こいつ、まだ動いてるぞ」
「寄るな! 噛まれるぞ!」
牙犬を連れた飼育係たちが、輪を作っている。輪の真ん中で、大きな黒いものが翼を引きずっていた。鴉の形をしているが、馬ほどもある。砦の空を埋めた魔物だ。昨夜の刺客は、これに乗ってきたらしい。喉に矢が刺さっている。
寄せてもらえますか、と言いかけたとき、聞こえた。
《たすけて》
指が車輪の上で止まった。
《たすけて、たすけて、さむい、とうさん、おなかがいたい》
子どものような声だった。砦で、あれほど聞いた声だ。誰にも言っていない。
飼育係が槍を構えた。
「やれ!」
槍が入った。黒い翼が地面を二度叩いて、声が途切れた。
風が吹いた。匂いが流れてきた。
甘かった。腐った果物の甘さだ。
老いた鱗馬が、柵の向こうで顔をそむけていた。
《今年の森と、同じ匂いだ》
「ええ」
考えるのは得意だ。私は車椅子の上で、指を折った。
刺客の刃。魔物の血。十年前の私の喉。
同じ匂いが、三つある。
そこへ、同じ紫の縁が一つ。ラズの頬の傷だ。
和議の夜の毒は、ザハリアが正妃を殺すために使ったものだと、帝国の子どもは全員習う。ならば、ザハリアの刺客があの毒を持っているのは筋が通る。ここまではいい。
おかしいのは、頬の傷だ。
ザハリアの人間の頬の傷が、どうしてザハリアの毒でできているのだろう。
「戻りましょう、ヨハンさん」
「はい」
その夜、ラズの熱が上がった。
避難所の灯りを落としたあと、私は寝台のそばに車椅子を寄せて、水で絞った布を替えていた。汗で額が光っている。右腕の袖は、私がまくらなかった。
《小さな人間。寝ろ》
どこか遠くから、低い声がした。
「寝ません。札の仕事です」
ラズの唇が動いた。うわごとだった。南の言葉だった。
「母上」
十一歳の声ではない。二十一の男の声なのに、聞いたことのないほど細かった。
「母上。そっちへ行くな」
私は布を替えた。
手が伸びてきて、私の手首をつかんだ。熱かった。振りほどけない力だった。琥珀色の目が半分開いて、私のいないどこかを見ている。
「ダフネ」
今度は、帝国の言葉だった。
「はい」
もういない娘の名前で、私は返事をした。
「言う」
「はい」
「言うから。歩いて帰れ。歩いて」
手首の骨が、きしんだ。
この手は、私を殺す手のはずだった。振りほどこうとは、思わなかった。
「言う。言うから」
何を、と聞かなかった。
あとで聞くと、私は言った。熱のある人から聞くことではない。
「はい。聞こえています」
つかまれた手首の下で、脈が速くなっていた。私のものか、この人のものか、わからなかった。
うわごとは、明け方まで続いた。熱が少し下がって、ラズが初めて目を開けたとき、隣の寝台の毛布が畳まれていた。
ヨハンの寝台だった。
枕の上に、字の下手な手紙が一通、きちんと置いてある。




