第31話 「刺客」
三日後の夜、ラズは扉の外にいなかった。
「地下の火の番だ。半刻で戻る」
「半刻で戻れるのですか」
「戻る」
そう言って、夕食のあとに出ていった。ピピンが枕の上で跳ねた。
《嘘だぞ! あいつ、裏門のほうへ行った!》
「知っているわ」
ロザーン寮の私の部屋の窓は、飼育場に向いている。私は車椅子を窓のそばへ寄せて、灯りを消した。屋根の上で、爪が瓦をかく音がした。
《聞きたいか》
「聞かせてくれるのですか」
《私はあの男と話しているだけだ。お前の耳のことは知らん》
しばらく、何も聞こえなかった。月が雲に入り、飼育場で老いた鱗馬が鼻を鳴らした。
《行商人が聞いた。「まだか」とな》
ザラは低い声で、誰にともなく言った。
《あの男は黙っている。おい、答えろ。私は退屈だ》
指先が冷たい。
《ほう》
「ザラ。なんと」
《「断る」だそうだ》
私は膝の毛布をつかんだ。
札市で全校の前で、あの人に断られた。こんなふうに聞くことがあるとは思わなかった。
「あの人は、国へ帰りたかったのではないのですか」
《十年、そればかり言っていた》
「それを、断ったのですか」
《帰国の許しも、王の印も、いらんと言っている。馬鹿な男だ》
「それで、行商人は何と」
《笑ったぞ》
金色の目が、窓の上からのぞいた。
《「王妃様は、最初からお前などあてにしていない」と。小さな人間、窓から離れろ》
「え」
《もう来ている》
ガラスが割れた。
黒い布を巻いた男が、窓枠ごと部屋へ転がりこんできた。もう一人が続く。手に持った刀が、月の光で曲がって見えた。
私は車輪を回した。一回で手が滑った。
《おれ様に任せろ!》
白い毛玉が飛んで、先頭の男の鼻に噛みついた。男がうめいて、ピピンを壁へ払い飛ばす。その隙に私は机の上の水差しをつかんで投げた。力がないので、男の足元に落ちた。
「第七皇女だな」
帝国の言葉だった。少しなまりがある。
「はい。お間違いありません。お名前をうかがっても」
「名乗る必要はない」
「では、せめて教えてください。誰に頼まれたのですか」
男の足が一瞬止まった。時間を稼ぐつもりだと、気づかれたらしい。
「時間稼ぎか。誰の名も、教える気はない」
刀が上がった。車椅子の背が、壁に当たった。もう下がれない。
扉が、蝶番ごと飛んだ。
赤い髪が部屋を横切ったのは、見えなかった。見えたのは、刀を振り上げていた男の腕が止まって、そのあごが上を向いたところだった。大きな手が男の頭をつかんでいた。
「どけ」
低い声がして、ごきりと音がした。
男は床に落ちて、動かなくなった。首が、おかしな方を向いている。
もう一人が曲刀で斬りかかる。ラズは丸腰だった。軍刀は証拠品としてゲルトに取られたままだ。死体の手から刀をもぎ取り、振り向きざまに相手の胸へ突き入れた。
抜かなかった。男はそのまま、壁に縫いとめられた。
今夜は、手首でも、膝でも、肘でもなく、首と胸だった。
医務棟の裏で、三人の男を転がしたあの人は、喉にも心臓にも触れなかった。私はそれを見て、この人は人殺しではないと決めた。
「アマリア! 怪我は!」
「ありません。窓を!」
三人目が割れた窓枠に足をかけていた。ラズが私の前へ踏みこんだ。車椅子の真正面だ。
男の手から、短い刃が飛んだ。
避けられたはずだった。この人の足なら、半歩で避けられた。半歩動けば、それは私の胸へ来る。
鈍い音がした。
刃は、ラズの左の肩に立っていた。
ラズは表情を変えなかった。肩から刃を抜いて、そのまま投げ返した。窓枠の男が、喉を押さえて外へ落ちていった。遠くで、地面に重いものが落ちる音がした。
急に、静かになった。
壁の男が、まだ息をしていた。血の泡を吹きながら、ラズを見て笑っている。南の言葉で何か言った。私は十年、兄の持ってきた本を全部読んだ。ザハリアの言葉は、読めるし、ゆっくりなら聞き取れる。
「母親と、同じところへ行け」
そう聞こえた。
ラズの右手が動いて、男は笑うのをやめた。
血の匂いがした。部屋に二人、窓の下に一人、男が死んでいた。ノルンが寝ていた寝台の上に、ガラスの破片が散っている。
「見るな」
「見ました」
「ザラが呼んだ。どこの手の者かは、知らん。ボリスが雇ったんだろう」
「今の人は、最後に何と言ったのですか」
「知らん。あいつらの言葉はわからん」
「闘技場で、覚えなかったのですか」
「覚えるのは、殴り方だけだ」
私がザハリアの言葉を読めることを、ラズは知らない。私は札の主の顔で、うなずいた。
「ボリス殿下は、ずいぶん遠くから人を雇うのですね」
「金があるからな」
廊下を走る音が近づいてくる。
「ダフネさん! じゃなかった、アマリアさん! 今の音なんですか!」
ティモが、壊れた戸口に飛びこんできた。手に杓子を持っている。
「ティモさん。それで何をするつもりですか」
「え。いや、一番近くにあったんで。うわあ、死んでる! 先輩、これ先輩が? うわあ、壁に! 掃除、僕ですよね!」
「お前だ」
「ですよね!」
「ティモさん、杓子は置いてください」
「あ、はい! でも、どこに置けば!」
ティモが悲鳴を上げながら、杓子を握りしめて死体をのぞきこむ。その後ろから、ヨハンが静かに入ってきて、私の車椅子を割れたガラスの外へ引いた。
壁の隅で、ピピンがよろよろと起き上がった。
《見たか。おれ様の活躍》
「見たわ」
《あいつの鼻、うまくなかった》
「噛むからよ」
《次は尻にする》
私はピピンを拾い上げて、ポケットに入れた。それから顔を上げて、ラズの肩を見た。
「手当をします。そこに座ってください」
「いらん。かすり傷だ」
「座ってください」
「指図するな。俺は」
ラズの声が途中で切れた。
大きな体が、ゆっくりと傾いた。膝が床につき、片手で寝台の縁をつかむ。寝台の木がみしりと鳴った。
「先輩?」
ティモの笑い顔が固まった。
肩の傷から流れる血の色が、おかしかった。赤の中に、黒い筋が混じっている。
傷の周りが、見ているうちに紫色に変わっていった。
どこかで見た色だった。私はその色の縁を、毎日見ている。
同じ人の、左の頬で。




