第30話 「黙る」
《告発しろ》
その夜、ピピンは私の枕の上で跳ねていた。
《あいつ敵だぞ! お前を殺しに来た敵だぞ! おれ様が尻を噛むから、お前は学長に言え! 今すぐ言え!》
「静かにして。扉の外に本人がいるのよ」
《知ってるよ! だから言ってるんだろ!》
「言えば、どうなると思う」
《あいつが死ぬ!》
「地下の十五人も死ぬわ。間者の一味として」
毛玉の動きが止まった。地下でティモが串を一本余分にくれたことを、ピピンは覚えている。
《じゃあ、赤毛だけ死ぬように言え》
「考えておくわ」
考えるのは得意だ。十年、ほかにすることがなかった。告発すれば、ラズは死ぬ。黙っていれば、私がいつか死ぬかもしれない。そこまでは簡単な話である。
まだ確かめていないことが、一つ残っている。
次の朝、井戸の裏で腰の鍛え方を終えると、ラズの背中に汗が光っていた。車椅子を押して坂を上り下りするので、春が近づくと汗をかく。私は水桶の横の布を取った。
「腕を出してください」
「なんだ」
「昨日の岩場で、すりむいていました。札の主の仕事です」
「この程度は傷と言わん」
「四羽目の鶏は、言うことを聞いてくれましたよ」
ラズは舌打ちをして、井戸の縁に腰かけ、右の袖をまくった。
すり傷は肘の内側にあった。本当に小さな傷だ。私は布を水で湿らせて、傷の周りを拭いた。拭きながら、紋を見た。
三重の輪と、鎖の模様。半年余り、毎日見てきた模様である。
避難所の灯りの下で、一度だけ、汗でにじんだのを見たことがある。あのときは灯りのせいにした。
指で、輪の端に触れた。
「くすぐったい」
「すみません」
カーヤの腕の紋を、私は医療局の帰りに間近で見た。皮膚の下に沈んでいて、指でなぞると、わずかに盛り上がっていた。傷あとと同じだ。刻むというのは、そういうことである。
ラズの紋は、平らだった。
汗で濡れた輪の外側に、髪の毛一本ぶんのにじみがある。布の端をそこに当てて、軽くこすった。
布に、薄い灰色の線がついた。
指先から、血が引いていった。
「終わったか」
「はい」
布を折りたたんで、握った。灰色の線を内側にして。
私の頭は、ここから先を一息に進んだ。
紋が描いたものなら、術は入っていない。術が入っていなければ、裁きの呪いは届かない。あの黒い根は何だったのか。肘まで、肩まで、胸まで伸びた線は、誰が描いたのか。
あの日、私は小刀で手を切った。
あの人の胸の、指二本のところに、血を押し当てた。
残りの命の半分と、この足で、私は何も買わなかった。
何もないものを買ったのだ。
「おい」
ラズが私の顔をのぞきこんでいた。
「顔色が悪い。息を吐け」
「いつもです」
「いつもより悪い。吐いてから吸え」
吐いた。吸った。井戸の水の匂いがした。
「ラズ」
「なんだ」
何か言いますか。
あの校庭で、私はそう聞いた。この人の唇は動かなかった。今なら、わかる。あのとき、この人はどちらの答えも知っていた。一言で止められることを、知っていた。
「手が冷たいのです」
「知っている」
大きな手が伸びて、私の両手を包んだ。固い指の腹が、私の冷たい指を一本ずつこすった。布を握ったままの右手も、一緒に包まれた。
この人の手は、熱い。それは本当だ。
《おい! おい、顔が死んでるぞ! 言え! 今言え!》
「ピピンが、うるさいのです」
「また腹が減ったのか」
「ええ」
その日の午後、私はカミラの部屋へ、一人で車輪を回していった。腕がすぐに上がらなくなった。部屋に入るまでに、三度休んだ。
「あら。遺言でも書きに来たの」
「お聞きしたいことがあります。血の誓約は、呪いのない者に使ったら、どうなりますか」
カミラの手が、薬草を刻むのをやめた。
「面白いことを聞くわね。誰か使ったの?」
「本で読みました」
「その本は、もう手に入らないわよ。答えは簡単。誓約は払う者から取るだけ。相手に何があろうと関係ない。呪いがなければ、払い損ね」
「取り消せますか」
「死人を起こすようなものね」
「そうですか」
「皇女殿下」
カミラが包丁の先を私に向けた。
「私は一度教えたわね。味方の顔をした人間から順に疑いなさいと」
「はい。覚えています」
「それで、今、誰の顔が浮かんでいるの」
「その本の著者です」
カミラは片方の眉を上げて、また薬草を刻み始めた。私は車椅子を回した。
部屋へ戻ると、布を水で洗った。灰色の線はすぐに消えた。
告発はしない。
これは、あの人のためではない。
地下の十五人が死ぬ。あの人が死ねば、私はボリスの前に一人で置かれる。扉の外にいる敵は、ボリスの刃も止める。それに、殺す気があるかどうかは、そばにいれば一番早くわかる。理屈はいくらでも並ぶ。
指を折って数えて、最後の指が残った。
毎朝、この人は粥を味見して、一番大きな肉を私の椀に入れる。
あの肉の話は、理屈に入れていない。
夜になると、扉の外で床のきしむ音がした。ラズが腰を下ろしたのだ。
「ラズ」
扉越しに言った。
「なんだ」
「中で寝てもかまいません。春とはいえ、廊下は冷えます」
しばらく、何の音もしなかった。
「札の仕事だ。ここでいい」
「そうですか」
《馬鹿! 馬鹿! お前ら二人とも大馬鹿だ!》
毛玉が毛布の上で転がった。私はそれを手のひらに乗せて、鼻の先をつついた。
「怒っていていいのよ。あなたの声は、私にしか聞こえないのだから」
《おれ様は怒ってるんだ!》
「ええ。ありがとう」
《……おれ様、今晩だけ、お前の薬の匂いをがまんしてやる》
小さな毛玉が、私の首の横に潜りこんだ。
何か言いますか、と私はもう聞かない。
あとで聞くと、言ったのだから。
扉の向こうで、低く長い息が聞こえた。私は同じ速さで、息を吐いて、吸った。
うとうとしかけたころ、窓の外の屋根で、翼のたたまれる音がした。
《小さな人間。起きているか》
低い声が、窓の隙間から落ちてきた。
《裏門の市に、行商人が来た。あの男に釣り銭を渡す男だ。三日後の夜、答えを聞きに来る》




