第29話 「ザラの声」
「裏山へ連れていってください」
朝の粥を受け取りながら言うと、ラズの杓子が止まった。
「その足でか」
「足はあなたのものを借ります。ザラに、お礼を言っていないので」
「礼だと」
「校庭の縄が切れたとき、空に影が見えました。あのとき、来ていたのでしょう」
ラズは少し黙ってから、杓子を鍋に戻した。
「背中に乗れ。車輪は山を登らん」
背負われるのは初めてではない。森でも砦でも、私はこの背中で運ばれた。ただ、前はもっと文句を言われた。今日のラズは、岩場で一度も文句を言わなかった。
《おい、赤毛の尻が目の前にあるぞ》
「噛まないで」
「何か言ったか」
「ピピンが、お腹がすいたと」
「こいつはそれしか言わんな」
岩の裂け目の前で、ラズは私を平らな岩に下ろし、毛布を膝にかけた。それから背負い袋の肉を、奥の暗がりへ放った。
《少ない》
低い声が、暗がりから聞こえた。金色の目が二つ開く。ザラは肉をくわえて、のそりと日の当たるところへ出てきた。右の後ろ足は、もうきれいに治っている。
「文句を言うな。冬の間も俺の分を半分やったぞ」
ラズは声に出して答える。この人の癖だ。私はいつものように、岩の上で何も聞こえないふりをした。この半年で、ずいぶんうまくなった。
《小さな人間の首は、まだつながっているようだな》
「当たり前だ」
ザラが骨を噛む音がした。金色の目が、ちらりと私を見て、それからラズへ戻った。
《任務は、その皇女を殺すことではなかったのか》
鳥が一羽、頭の上を飛んでいった。
膝の上の毛布を、私は見ていた。毛布の織り目が、よく見えた。
ラズの背中が、固くなっていた。
「黙れ」
息だけの声だった。ラズは振り向いて、私を見た。琥珀色の目が、私の顔を確かめている。私は首をかしげた。
「ザラは何と言っているのですか」
「腹が減ったと言っている」
どこかで聞いた答えだった。
「あなたが今、肉をあげたばかりです」
「こいつは、それしか言わん」
《帰国の許しはどうした。王の印のついた紙は燃やしたな。十日もあの部屋の前で寝て、まだ指一本動かさないのか》
「少し黙っていろ」
「ラズ?」
「お前に言ったんじゃない」
《喉が渇いた。沢の水を汲んでこい》
「お前は自分で飲めるだろう」
《この足でか。お前のせいで傷んだ足だ》
治っている足を、ザラはわざとらしく舐めた。ラズは長く息を吐き、革袋をつかんだ。
「すぐ戻る。そこを動くな」
「この足で、どこへ動くのですか」
言ってから、自分の声がふだんと同じだったことに驚いた。
足音が岩の下へ消えていく。風が吹いた。ピピンがポケットの中で黙っている。この毛玉が黙るのは、珍しいことだった。
《聞こえたな》
ザラが、私を見ていた。
「今の話は、私に聞かせたのですね」
《そうだ。お前の耳のことを黙っていてやると言った。だから、あの男には言っていない。ただ、私があの男に何を言おうと、私の勝手だ》
「任務とは、何ですか」
《あの男はザハリアの人間だ。私もだ。お前は最初に見たときに、南の砂漠の魔獣だと気づいただろう》
「気づきました。深く考えないようにしていました」
《考えろ。あの男は十一で国を出され、帝国の内情を探って、占領地の民をまとめてきた。今年の冬に命令が一つ増えた。第七皇女を探して殺せ。果たせば帰国を許す》
「今年の冬」
《そうだ》
井戸の裏で枯れ葉をつままれた朝を、思い出した。金貨百枚だと、あの人は言った。
「私は名簿に線を引くのを手伝いました」
《知っている》
「手紙の出し方が怪しいと言いました。よく見ているなと、ほめられました」
《馬鹿な男だ。お前もだ》
「あの人は、私を殺すのですか」
《知らん》
ザラは骨を前足で押さえた。
《十日あった。首を絞める時間はいくらでもあった。あの男は扉の外で寝て、お前の毛布の端を結んでいる。それが答えかどうか、私にはわからん。あの男にもわかっていない》
「どうして、私に教えるのですか。あなたはあの人の魔獣でしょう」
《あの男を売る気はない。死ぬときは一緒だ。魂の契約とはそういうものだ》
「では、なぜ」
《足の借りだ。お前は札の口添えを頼まなかった。私は借りを、札一枚で返したつもりでいた》
金色の目が細くなった。
《だが、お前はあの校庭で、もっと大きなものを払った。話が違ってきた》
「あれは私が勝手に払ったものです」
《そうか。では、何を買ったのかも、お前が自分で確かめろ》
「どういう意味ですか」
《あの男の右腕を、もう一度よく見ることだ。お前は札の主だ。傷の手当ても、お前の仕事だろう》
岩の下で、小石の鳴る音がした。
ザラは何事もなかったように骨をくわえ、暗がりへ戻っていった。赤い髪が岩場を上がってくる。革袋の水が、肩で揺れていた。
「待たせた。何か変わったことは」
私はすぐに答えられなかった。この人の前で、嘘をつくのは慣れている。ダフネのときから、ずっとだ。
「ありません。ザラは、ずっとお腹がすいたと言っていましたか」
「ああ。うるさかった」
ラズは私に背を向けてしゃがんだ。
「乗れ。冷えてきた」
広い背中だった。この背中は、私を殺しに来た人のものだ。怖いと思おうとして、思えなかった。炎茸と、木の煙の匂いがする。腕を回すと、大きな手が私の腿の下を支えた。今日の朝もこの手で粥をよそった。この手で、毛布の端を結んだ。
「アマリア」
「はい」
「軽い。もっと食え」
「はい」
岩場を下りながら、私はその肩に頬を乗せていた。すぐ目の前に、まくった右の袖がある。
黒い紋が、昼の光の中で揺れていた。
《あの男の右腕を、もう一度よく見ることだ》
私はそれを見ていた。山を下りるまで、ずっと見ていた。




