第28話 「車椅子」
「はい、こちらが新しいお車です、皇女殿下!」
ティモが、ひどくかしこまった声で木の椅子を押してきた。
椅子の脚に、荷車の車輪が四つついている。札市の木箱を割った板でできていて、釘の頭がきれいに叩いてあった。座面には、ヨハンが藁を詰めた布を敷いたらしい。
「作ったのはあなたたちですか」
「作ったのは先輩です。夜中に。僕は応援しました。皇女殿下、お尻は痛くございませんか。殿下、靴下の件につきましては、深く深くお詫び申し上げ」
「ティモさん。やめてください」
「はい! やめます!」
ティモはすぐにいつもの顔に戻って、車輪を蹴った。
目を覚ましてから、十日が過ぎた。
カミラの見立ては簡単だった。足は感覚が半分戻ったが、もう歩けない。立てても数歩だ。肺も心臓も前より悪い。薬は、これまで通り飲むように。
「馬鹿な子ね」
カミラはそれだけ言って、袖をまくった腕で私を起こし、腰の鍛え方を一つ教えて帰っていった。
車椅子で、初めて避難所へ下りた。階段はラズが椅子ごと担いだ。
地下の空気が、変わっていた。十五人が立ち上がったのだ。寝ていた者まで起きている。誰も笑わない。誰も「今日の死にかけ自慢」と言わない。
「座ってください。お願いします。座らないと、私が立てなくて困ります」
何人かが、おどおどと腰を下ろした。一人だけ、最初から座ったまま矢を削っている者がいた。
カーヤは顔を上げなかった。
「おめでとう、皇女様」
「カーヤさん」
「ずいぶん楽しかったでしょうね。うちの粥を食べて、片腕の子たちの中で、貧乏のふりをして」
「はい。楽しかったです」
カーヤの小刀が止まった。周りの者が、息を止めた。
「嘘をついていて、すみませんでした。謝っても、何も変わりませんが」
「医療局を一緒に歩いたわよね。あたしの隣で」
「はい」
「皇女様の国の持ち物が、並んでたわね」
「はい。そうです」
「ラズの命を助けてもらったから、礼は言うわ。ありがとうございました。で、もう来ないで」
カーヤは矢を床に置くと、奥へ歩いていった。
かまどの前で、ラズが背中を向けて鍋をかき回している。何も言わない。杓子を置いて、椀に粥をよそい、私のところへ来て手に持たせた。
一番大きな肉が入っていた。
「今日の死にかけ自慢は、やらなくていいです。今日は、私の優勝ですから」
しばらくして、ティモが小さく吹き出した。ヨハンの肩が少し揺れた。それで、地下の空気がほんの少し動いた。
カーヤの言ったことは、全部正しかった。
校内はもっと騒がしかった。
ロザーン寮の連中は、宴会の日より大きな声で「うちの神は皇女だったぞ!」と叫んでいた。タチアナは私を見るなり、扇を折った。
「ねえ、聞いて! ひどいじゃない、なんで言ってくれなかったの?」
ヴィヴィアンが車椅子の前にしゃがみこんで、頬をふくらませた。銀の小箱が差し出される。
「皇女様だって知ってたら、もっといいお菓子を取ったのに。はい、蜜星。お見舞い」
手を伸ばすと、先に白い指がつまんで、私の口へ入れてくれた。
「今日だけ、取らないであげる。ごめんね」
「ありがとうございます、ヴィヴィアン」
「ダフネでもアマリアでも、友達でしょ?」
甘い味が舌の上で溶けた。何も変わらないのは、この人だけだった。
リシャールは、毎日のように見舞いに来た。
「あの礼は、本当に間違えたのです」
医務棟の窓辺で、リシャールは恥ずかしそうに頭をかいた。
「あなたに桶を持った日の話です。あれは、本で読んだ礼の順番を間違えました。第七皇女殿下がダフネさんだとは、校庭で初めて知って、転びました」
「転んだのは、走ってきたからでは」
「ええ。それも」
「あの婚約の申し入れ、ご存じだったのですね」
「はい。ですが、お返事は急ぎません。あなたがお元気になるまで、いえ、ご自分で決められるまで、待ちます」
青い目は穏やかで、奥に何も隠れていないように見えた。
銀の裏地の外套が、車椅子の背にかけられた。
そして、ボリスの懸賞は取り消されなかった。
その日の昼、大食堂に車椅子を押してもらって入った。ヨハンが押している。ラズは一歩後ろを歩いていた。長机の間の話し声が、波のように引いていった。
灰麦の粥の列の、一番前に、大きなあごがいた。
「よく来たな。死にぞこない」
ボリスは、自分の盆を持って振り向いた。十日の間に、頬が少しこけている。半年も探していた妹を、自分の靴で踏んでいたのだ。その話は帝都まで届いたと聞いている。笑いものになったのは、大学の中だけではなかった。
「足が動かなくなったそうじゃないか。ちょうどいい。首を運ぶのが楽だ。懸賞は生きているぞ。金貨二百枚に上げてやった」
大きな声が、大食堂に響き渡った。
後ろでラズの足が一歩、前へ出た。私は手を上げて止めた。
「兄上」
「呼ぶな。お前などに、そう呼ばれる筋合いはない」
「はい。では、殿下。一つ、お返ししなければならないものがございます」
私は軍服の懐に手を入れた。
半年間、そこに入っていた。串を買うときも、札を結ぶときも、ノルンの串のときも、使わなかった。泥の味がした銅貨だ。
指で弾いた。
あまり高くは飛ばなかった。腕の力は、もうほとんど残っていない。それでも銅貨はくるくると回って、ボリスの盆の上に落ち、灰麦の粥に、ぽちゃんと沈んだ。
大食堂から、音がなくなった。
「葬式代です。お預かりしておりましたが、当分、必要がなくなりましたので」
ボリスの大きなあごが、動かなくなった。
「どうぞ。噛んで、お確かめください。本物です」
どこか奥のほうで、誰かがこらえきれずに吹き出した。一人が吹き出すと、次が出た。息を殺した小さな笑いが、あちこちの机でもれては止まった。
ボリスの顔から、血の気が引いた。
盆が床に叩きつけられた。粥が飛んだ。あごを震わせ、腰の剣に手をかけたボリスの前に、赤い髪がゆっくりと割りこんだ。何も言わずに、ただ立っている。
「奴隷が」
「札は生きている」
ボリスは剣から手を離した。その指が白くなっていた。
「覚えていろ」
「はい、殿下。私は、なんでも覚えております」
夜になった。
ラズが車椅子を押して、飼育場の柵の前まで連れてきてくれた。老いた鱗馬が、長い顔を出して私の髪をむしった。
《お前、走れなくなったのか》
「ええ」
《おれの背に縛れば、まだどこへでも行けるぞ》
言葉にならなくて、私は鼻面を指でかいた。
ラズは黙っていた。あの日から十日、この人はほとんど口をきかない。訓練もない。朝、井戸の裏へ連れていかれて、腰の鍛え方を手伝ってくれる。夜は扉の外で寝る。
何か言いますか、と聞いたことを、私は覚えている。
ラズも覚えているはずだ。
「怒っていますか」
「何をだ」
「嘘をついていたことを。皇女にいい人はいないと、あなたは言いました」
答えはなかなか来なかった。後ろで、毛布を持つ手が強く握られる気配がした。
「皇女」
低い声だった。
この人の口から、一度も聞いたことのない呼び方だった。背中がざらついた。柵に手をかけて、私は車椅子の上で、なんとか首を回した。
「その呼び方はやめてください」
「ほかに、なんと呼ぶ」
「ダフネは死にました。全校の前で殺しました。自分で決めたことです」
「ああ」
ラズは、手に持っていた毛布を、私の肩にかけた。かける手が、途中で止まった。傷のある顔が、暗がりの中で、私の頭のすぐ上にあった。
長い息が、白く流れた。
「アマリア」
初めて呼ぶ人の声で、それは呼ばれた。一音ずつ確かめるように、不器用に。
「呼びにくい名前だな」
「ええ。私も、ダフネのほうが楽でした」
「冷やすな。アマリア」
毛布の端が、固く結ばれた。
今度の名前は本物だ。本当のことを、一つだけ増やせた。
私は顔を上げた。
金色の目が二つ、柵の屋根の上から、じっとこちらを見ていた。ラズには見えない位置だ。翼の音はしなかった。
《小さな人間》
低い声が、私にだけ落ちてきた。
《明日、お前に話がある》




