閑話・ラズ 「止めなかった」
俺の紋は、偽物だ。
十一のとき、国を出される前の晩に、祖国の職人が特別な墨で描いた。奴隷紋の模様だけを写したものだ。帝国の術は入っていない。それからは月に一度、自分で描き直してきた。水や湯では落ちないが、汗をかくと、たまににじむ。
裁きの呪いなど、最初から俺の腕には届かない。
だから、ゲルトが判決を読み上げたとき、俺が考えたのは一つだけだった。
どうやって伸ばして見せるか。
牢に入る前に、右の靴底から墨の小瓶を抜いて、袖口に移した。夜ごとに、血管に沿って、自分で線を描き足した。肘まで。肩まで。胸まで。あとは息を荒くして、汗をかいて、唇の色を悪くすればいい。顔色を悪くする薬草も持っていた。闘技場で、死んだふりは何度もやった。
最後の日に、ザラが来る手はずだった。
柱に縛られるのを見届けて、ボリスがたっぷり喜んだところで、ザラが空から落ちてくる。死にかけの奴隷を連れ去った怪物の話が一つ残るだけだ。ザハリアの間者だとは、誰も疑わない。
任務が一つ終わるだけだった。
地下の連中には、すまないと思っていた。あの女には、遠い国へ行けと言った。
芝居は、うまくいっていたんだ。
あの女が、校庭の真ん中まで歩いてくるまでは。
命乞いに来たのだと思った。札の主として、ボリスに頭を下げに来たのだと。それなら、それでいい。笑われて帰れば、あの女は生きていられる。
あの女は、ボリスの前を素通りして、俺の前で止まった。
帰れ、と唇だけで言った。あの女は、聞かなかった。
「私の名前は、アマリア」
その声を、俺は柱に縛られたまま、胸の前で聞いた。
最初は、何の冗談かと思った。
学長が帳面を持ってきて、ようやく頭に入った。
第七皇女。
十年寝ていた。読むものが本しかなかった。杯の底を指でさわる。傷の毒がわかる。毒で八つより前を覚えていない。
全部、聞いていた。この耳で全部聞いて、名簿に丸をつけて、皇女に良い人間はいないと言った。あの女の目の前で言った。あの女は、そうですねと言った。
そして、殺せという命令書は、もう灰になっている。
探していた女は、俺の腕の中で寝ていた。
「何か言いますか」
あの女が聞いた。手のひらが血まみれだった。俺の胸から、指二本のところだ。俺が墨で描いた線の、すぐ先だ。
一言でよかった。
やめろ、と言えばよかった。この紋は偽物だ、と言えばよかった。そうすれば、あの女は半分の命を、手のひらの中に持ったまま帰れた。歩いて帰れた。
言えば、俺はそこで終わりだった。
ザハリアの王子だと露見する。地下の連中は間者の一味として殺される。十年が消える。王妃の首も、母のかたきも消える。俺の頭はそれを全部、一息で数えた。闘技場で身につけた、速い頭だ。
全部数え終わるのと、あの女が言うのは、同時だった。
「では、あとで聞きます」
血が、俺の胸についた。
温かかった。
俺の胸には、呪いなどない。だから、あの女の血は、何も買い取らなかった。何もないところへ、半分の命が吸いこまれていった。誓約の術は相手を調べない。払った者から取るだけだ。
あの女の血と、俺の汗で、描き足した線が手のひらの下で流れていった。黒い根が消えていくように、見えたはずだ。
校庭じゅうが、見ていた。
誰も、紋の線がただの墨だとは気づかなかった。
あの女の膝が折れた。縄を引きちぎった。もう芝居の必要はなかったのに、俺の息はちっとも戻らなかった。腕の中の体が、驚くほど軽かった。もう十分に軽かったのに、もっと軽くなっていた。
リシャールとかいう王子が、ボリスの前で頭を下げていた。第七皇女との婚約、と言っていた。遠い国の、裕福な方。そういうことだ。
医務棟まで、俺が運んだ。誰にも渡さなかった。カミラが何か怒鳴っていた。
夜になった。
俺は寝台のそばの椅子に座っていた。護衛だからだ。札は生きている。首にかかっている。
窓の外で、ふわりと黒いものが降りてきた。
《小さな人間が、こうなったか》
「ああ」
《お前の芝居に、命の半分を払った》
「知っている」
《あの娘は第七皇女だ。命令の相手だ。今なら指一本で済む。首を絞めれば、誰にもわからん。弱っていたで終わる。帰国できるぞ》
「知っている」
《どうする》
俺は、寝台の女を見た。頬に、薄く紅がついている。農家の娘が残した紅だ。今朝も自分で塗ってきたのだろう。
両手を、自分の膝の上に置いた。
この手で、髪をなでた。この手で、名簿に丸をつけた。
あの校庭で、この女は俺に聞いた。何か言いますかと聞いた。
俺は、止めなかった。
それだけが、今夜の俺にわかる、ただ一つの本当のことだ。
傷に触れかけた指を、握りしめて、下ろした。
《おい》
「黙れ」
寝台の女が、小さく息を吸った。
起きる。
俺は、奴隷の顔を作った。




