第27話 「血の誓約」
「残りの命の半分だ」
学長アンゼルムは窓のほうを向いたまま言った。七十を過ぎた、背の曲がった老人である。本当の名簿を見られる、ただ一人の人だ。
「それに、体の力も取られる。そなたのように弱い体なら、もう自分の足では歩けまい。だから百年、誰も使わなかった。奴隷のために寿命を差し出す皇族などおらんのでな」
「解けるのは、確かなのですね」
「解ける。名乗ることになるぞ、第七皇女殿下。金貨百枚の首を、全校の前に出すことになる」
「はい」
「兄君が泣くな」
「はい」
学長は振り向かなかった。
「明日の正午だそうだ。私は帳面を持って、校庭へ行くとしよう」
その晩、寝台に腰かけて、私は手巾をたたんでいた。戸が閉まる音がして、ネリネがそばに膝をついた。小瓶の代わりに、両手を私の膝に置いた。
「姫様。学長室へ行かれたそうですね」
「ええ」
「おやめください」
声は優しかった。指が、私の膝に食いこんでいた。
「十年です。十年かけて、ようやく歩けるようになったお体です。あの男は奴隷の子です。姫様が命を削って助ける相手では、ございません。どうか、お願いです」
「ネリネ。あなたが頼みごとをするのは、初めてね」
「はい」
「ごめんなさい」
ネリネの指が、ゆっくりとほどけた。彼女は深く頭を下げ、それからいつもの顔に戻って、小瓶の栓を抜いた。
「お薬の時間です、姫様」
《おい、今日のは特にくさいぞ》
ピピンの声を聞きながら、私は一息に飲みほした。
正午の校庭には、千人を超える学生が集まっていた。
雪解けの泥の真ん中に、太い柱が立っている。ラズが縛りつけられていた。上着はない。右腕の黒い根は肩を越えて、胸の左へ、指二本分のところまで這っている。頭を垂れ、息をするたびに肩が大きく上下した。
柱の前に椅子を置いて、ボリスが足を組んでいた。
「まだか。ゲルト、あとどのくらいで止まる」
「半刻ほどかと、殿下」
「長いな。おい、奴隷。泣かないのか。泣け。銅貨をやるぞ」
笑い声が起きた。屋台が出ていた。角兎の串がよく売れている。
私は人垣の後ろにいた。ティモが私の右腕を、ヨハンが左腕を持っていた。
「ダフネさん、見なくていいですよ」
「いいえ。前へ連れていってください」
「え」
「人垣の前までです。そこからは、一人で行きますので」
ヨハンの静かな目が、私を見た。何も聞かずに、前へ歩き出した。人垣が割れた。ピエトロが手を叩いた。
「来たぞ! 情婦のお出ましだ!」
二人の腕を離した。
校庭の真ん中まで、二十歩あった。
一歩ずつ歩いた。ラズに教わった通り、吐いてから吸った。十歩目で膝が笑い、十五歩目で目の前が白くなりかけて、足を踏んで止めた。泥が長靴に入った。
頭を垂れていたラズの顔が、少しだけ上がった。
琥珀色の目が、私を見た。唇がかすかに動いた。声は出ていない。帰れ、と読めた。
私は柱の前に立って、ボリスのほうを向いた。
「ゲルト教官。古い法の話を、うかがいに参りました」
「はて」
「皇族の血の誓約があれば、裁きの呪いは解けるのでしたね」
「そう申しました。皇族がお見えになれば、ですが」
「ですから、参りました」
ボリスが、面倒そうに手を振った。
「おい、誰かそいつをどけろ。邪魔だ、死にぞこない。見物なら端で見ろ」
「はい、殿下。一つだけ、訂正させてください」
肩の上で、ピピンが小さく言った。
《言っちまえ。おれ様の人間は、豚小屋の娘なんかじゃないぞ》
息を吸った。
言えばもう戻れない。ダフネ・ブレンナーは、今ここで死ぬ。あの地下で一番肉をもらった娘も、鶏のことしか知らない娘も、死ぬ。
この人が初めて呼んでくれた名前も、死ぬ。
「ダフネ・ブレンナーという娘は、おりません」
声は小さかった。けれど校庭は、もう笑うのをやめていた。
「私の名前は、アマリア。アルテミア帝国第七皇女です」
風の音がした。
一拍置いて、ピエトロが甲高い声で笑い出した。
「ひゃはは! 聞きましたか殿下! とうとう頭が!」
誰も、続かなかった。ピエトロの笑いは、自分の声しか響かない校庭の真ん中で、喉に詰まって止まった。砦で橋を切った相手が誰だったのか、遅れて思い当たったらしい。
ボリスは笑いかけた顔のまま、動かなくなっていた。その後ろから、杖の音が近づいてきた。背の曲がった老人が、薄い帳面を一冊持って、泥の中を歩いてくる。
「ロザーン寮、ダフネ・ブレンナー」
学長アンゼルムの声は、しわがれていて、よく通った。
「本名、アマリア・アルテミア。第七皇女。入学の折に、確かに私が受けた。校庭の諸君。これは本物である」
ざわめきが、波のように校庭を渡っていった。
どこかで串が地面に落ちた。カーヤが、人垣の奥で口を開けたまま固まっている。ゲルトの帳面を持つ手が止まり、それから細い目が、ゆっくりと笑った。
ボリスが、椅子から立ち上がった。
大きなあごが、がくがくと動いた。いつも真っ先に出てくる大声が、出てこない。銅貨を噛んだ女。棺桶を薪にした女。半年、踏んで、蹴って、粥に指を入れてきた女が、そこに立っている。
「お前」
かすれた声だった。
「お前だったのか」
「はい、兄上」
私は頭を下げた。
「本物でした」
ボリスの顔が、真っ赤になった。
それを最後まで見ている時間はなかった。私はゲルトの腰の小刀を指さした。
「お借りします」
「どうぞ、殿下」
小刀は思ったより重かった。左の手のひらに当てて、まめの六つあるところを、一息に引いた。
痛かった。血は、ちゃんと赤かった。
柱に手をついて、ラズの胸に向き合う。呼吸の音がすぐ近くにある。汗と血と、炎茸の匂いが、ごくわずかにする。
ラズが、私を見ていた。
見たことのない目だった。驚きとも、怒りとも違う。琥珀色の奥が、空っぽになっていた。
「何か言いますか」
小さな声で聞いた。
ラズの唇は、動かなかった。
「では、あとで聞きます」
私は血まみれの手のひらを、黒い根の先に押し当てた。
「この者の罪を、我が血で買い取ります。私の命の半分と、この体を、誓約として差し出します」
最初は、何も起きなかった。
次の瞬間、手のひらから、体の中へ何かが抜けていった。
足の先から順に、感覚が消えていく。井戸の裏で転がって、ひと月ごとに増やした筋肉が、ほどけていく。十周走れた足が、遠くなっていく。肺の中に、砂を詰められたようだった。
私の手の下で、黒い根が色を失っていく。
膝が折れた。泥が顔に近づいて、途中で止まった。大きな腕に、受け止められていた。縄が切れていた。誰かが切ったのか、この人が自分で引きちぎったのか、わからない。
「殺せ」
ボリスの声が遠くで聞こえた。
「殺せ! 金貨百枚だ! いや、二百枚だ! 今ここで、その女の首を!」
返事をする者は、いなかった。皇子が妹の首に、全校の前で値をつけた。千人がそれを聞いていた。それだけは、遠ざかる耳にもわかった。
「ボリス殿下」
穏やかな声が、割って入った。
金色の髪の青年が、泥で足を滑らせながら、私たちとボリスの間に立っていた。肩で息をしている。走ってきたらしい。
「第七皇女殿下には、我が父の名で、私との婚約を申し入れております。お返事はまだいただいておりませんが、殿下が今ここで斬られますと、同盟国の王子の許嫁候補を斬ることになります。そうなりますと、たいへん困ります」
「どけ! 小国の王子風情が、口を出すな!」
「どきません。すみません」
リシャールは、ボリスの剣の前に立ったまま、深く頭を下げた。
それが、私の聞いた最後だった。
気がつくと、白い場所にいた。
足が痛くない。
「あーあ」
すぐ横で声がした。
知らない女が、膝を抱えて座っていた。年は若いようにも、ひどく年上のようにも見える。私の顔をのぞきこんで、眉を下げて笑っている。
「やっちゃったねえ。半分だよ、半分。ごめんねー、止めに来たかったんだけど、そういう決まりで」
「どなたですか」
「覚えてないよねー。うん、それでいいの。ハードモードって言ったでしょ」
「聞いておりません」
「言ったの。だいぶ前に」
女は私の額を、指でちょんとつついた。
「大丈夫、まだ終わらないよ。あの子のこと、頼んだからね。ほら、起きて。すっごく痛いけど」
目を開けると、知らない天井があった。
医務棟の匂いがする。窓の外が暗い。全身が、石でできているように重い。すぐそばに、誰かの息づかいがある。
起き上がろうとした。
足を動かそうとした。
右も、左も、毛布の下から、何の返事もなかった。




