第25話 「命令」
「第七皇女を探している」
私は飲んでいた水を、半分ほど鼻から出した。
「おい、吐いてから吸え」
「はい。今、吐きました」
「水を吐けという意味じゃない」
井戸の裏で並んで座るのが、朝の習慣になっていた。訓練のあとの少しの時間である。ラズは私の背中を叩きながら、もう片方の手で、私の髪についた枯れ葉をつまんでいる。ティモが見たら一週間は床を転がる。
「金貨百枚だ」
「あなた、そんなお金が欲しかったのですか」
「欲しい」
ラズは枯れ葉を指で払った。
「紋の解除には金がかかる。片腕の紋持ちは、成績と金次第で、国から紋を買い戻せる。建前はな。一人につき金貨二十枚だ」
「二十枚」
「百枚あれば、地下の片腕を五人、人間に戻せる。カーヤの弟の札も、医療局から買い戻せるかもしれない」
言葉が出なかった。
「手伝え。お前は頭がいい。ボリスの連中は、青白いのを麻袋に詰めるしか能がない。あれでは見つからん」
「私が、ですか」
「嫌か」
「いいえ」
嫌ではないと答えるしかなかった。自分の首の値段を、恋人と相談することになるとは思わなかった。
その日の夕方から、避難所の隅で、二人の捜査が始まった。ラズが学内の名簿の写しを持ってきて、私がそれに線を引く。
「考えろ。第七皇女はどんな女だと思う」
「十年、寝ていたのでしょう」
「ああ」
「それなら、性格が悪いと思います」
「そうなのか」
「人に世話をされるのが当たり前で、自分では何もできず、本ばかり読んで人を馬鹿にしています。口ばかり達者で、背も低いでしょう。友達もいません」
「詳しいな」
「本で読みました」
《お前、自分のことすごい悪く言うな!》
膝の上でピピンが転がって、げらげら笑った。
《おれ様は知ってるぞ! こいつ、その皇女なんだぜ赤毛! おい! 言っちゃうぞ!》
毛玉をつかんで、ポケットに押しこんだ。ピピンの声が聞こえるのは私だけだ。わかっていても、心臓に悪い。
「何と言っている」
「腹が減ったと」
「こいつは、それしか言わんな」
「ええ」
私の寝言の中の兄の名前も、冬至の宿場でのネリネの「姫様」も、この毛玉は全部聞いている。
「ベルクハイム寮は外れだ。あそこの娘たちは、もう見られるだけ見られた」
ラズが名簿の上に、炭で印をつけた。
「偽名を使うなら、母親の実家には近づかない。どの寮にも入れる金はある。男爵か子爵の娘で、親が名前を売っている家だ。そいつらを洗う」
指先が冷えた。正解である。
「それはどのくらいの数ですか」
「二十ほどだ。青白くて小柄。十年寝ていたのなら、筋肉も歯も弱い。体つきでわかる。ダフネ、お前を除いて、そんな女を知らないか」
「私を除くのですか」
「お前は札を持っている。この半年、ボルグの前で何度も死にかけた。皇女なら、とっくに金を積んで逃げている」
「それはそうですね」
「それに」
ラズの手が、私の頭に伸びた。髪を一度なでて、耳の後ろの髪をかけ直す。指の腹が固い。
「皇女が、井戸の裏で俺に棒で叩かれて、次の朝も来るものか」
避難所のかまどの火が、ゆっくりと揺れた。
私はその手に、少しだけ頭を預けた。預けたまま、名簿の二つの名前の上に線を引いた。もっともらしい、そして本当に無関係な、子爵の娘と伯爵の孫だ。どちらも後ろ盾の厚い家で、ボリスの手下でも軽々しくは手を出せない。時間を稼ぐだけだと、自分に言い聞かせた。
「この二人は、どうでしょう」
「理由は」
「手紙の出し方が怪しいです。あと、入学してから一度も、医務棟を使っていません。病弱だった人がそんなことをすれば、不自然です」
「よく見ているな」
「はい」
ラズは感心したように、炭でそこに丸をつけた。私はその丸を見ていた。子爵の娘の名前がカロリナだったら、と考えて、あの廊下の声を思い出した。あの子はあれから、教室へ戻っていない。
「ラズ」
「なんだ」
「見つけたら、どうするのですか」
「金貨に換える」
「ボリス殿下に渡すのですか」
「そういう懸賞だ」
「その人の首を、あなたが切るのですか」
名簿の上で、炭の棒が止まった。
「嫌か」
「いえ。その人が、いい人だったらと思っただけです」
「皇女に、いい人はいない」
低い声は、当たり前のことを言うときの声だった。
「医療局を見ただろう。あれは皇族と貴族のためにあるんだ。カーヤの母親の腹を裂いて、奴らは長生きをする。銀の皿で肉を食って、あれに何の疑問も持たない女が、十年寝ていただけで偉そうに生き残った。いい人なわけがない」
右の脇腹は、まだ何も言わなかった。
「そうですね」
私は答えた。
「そうだと思います」
ラズはうなずき、炭を置いた。その手がまた私の髪へ戻ってきた。なでるのが、最近少しうまくなった。ザラの毛で練習でもしたのだろうか。
「ダフネ」
「はい」
「お前が札を結びに来てくれて、よかった」
息が、うまく吸えなかった。吐いてから吸うのだと教わった。だからそうした。
「私もです」
本当のことを、一つだけ言った。
翌朝、井戸の裏の訓練が終わってから、私は一人で裏山へ上がった。
ここへ来るのは、これで五度目になる。ラズには言っていない。懐に串を一本入れて、二の鐘までに戻れる朝を選んでいる。途中で休むのは、二回で済むようになった。秋のはじめには、四回だった。
《また来たのか、小さな人間》
岩の裂け目の奥で、金色の目が開いた。私が串を置くと、ザラは鼻を鳴らして、骨ごと噛んだ。
《少ない》
「あの人と同じことを言うのね」
《あの男が、私と同じことを言うのだ》
平らな岩に腰を下ろして、息を整えた。ピピンがポケットから顔を出して、串の残りをにらんでいる。
「ザラ。あの人が、第七皇女を探しているの」
《知っている》
「見つけたら、どうするのかしら」
《それは、あの男に聞け。お前の耳のことを、私は黙っている。だから、あの男のことも、私は黙る》
ザラは骨を前足で押さえた。それから、目だけを細くした。
《ひとつだけ言ってやる。ゆうべ、あの男はここで、お前の話をした。それから、また傷に触った》
風が、岩の上を通っていった。
《もうひとつ。あの男の手伝いは、ほどほどにしておけ》
「どうして」
《ほどほどにしておけ、と言った》
ザラはそれきり、暗がりへ戻っていった。私はしばらく、膝の上のピピンをなでていた。
「ねえ、聞いて」
その日の大食堂で、ヴィヴィアンが私の皿を覗きこんだ。
「あなたの護衛さん、第七皇女を探してるんですってね。あなたも手伝ってるの? おもしろそう!」
「お耳が早いですね」
「だって、ここで知らないことないもの。ねえ、見つかりそう?」
「どうでしょう。なかなか、尻尾を出しません」
「そっか。でも、見つかるといいわね」
ヴィヴィアンは私の粥から、肉のかけらを一つつまんで、ぱくりと食べた。
「ごめんね。応援してる」
私はうなずいて、粥をすくった。
今日の午後、ラズと一緒に、子爵の娘の部屋の前を見張ることになっている。
私は、私の首を探している。
なかなか見つかりそうにない。今のところ、捜査は順調だ。




