第24話 「口づけ」
「実家から、縁談が来ました」
井戸の縁を拭きながら言うと、ラズの木の棒が止まった。
冬至の休みが明けた朝だった。私は何度も考えて、これなら嘘にならないと思いついたことを言った。
「相手は」
「遠い国の、裕福な方です。春までに返事をするようにと」
「そうか」
棒が、また動き出した。私の手首を軽く叩く。
「受けろ」
「はい?」
「金があるんだろう。ここで死ぬより、ましだ。札は一年だが、途中で切っても文句は言わん。手が下がっている」
「それだけですか」
「ほかに何がある」
何もない。私が言い出したことだ。手首が痛いので、棒を上げた。
その日から、おかしなことが続いた。
「ダフネさん、大変です! 先輩が鍋を焦がしました!」
三日目の夜、ティモが階段の途中まで駆け上がってきた。
「それは大変ですね」
「三つです! 三つの鍋です! しかも塩を二回入れて、ヨハンさんが黙って水を飲んでいます! 先輩は料理だけは失敗しない人なのに!」
《おれ様はうまかったぞ!》
毛玉は別として、十五人が水を飲んでいた。ラズは焦げた鍋を黙々と磨き、カーヤが矢を削りながら、私を横目で見た。
「あんた、何したの」
「何もしていません」
「してないなら、なお悪いわね」
翌日は、大食堂で声をかけられた。
「ダフネさん。今度の雪では、その軍服は薄すぎます。これを」
リシャールが、毛皮の裏のついた外套を差し出していた。銀色の、見るからに暖かそうな外套である。手を振ろうとして、周りの女生徒たちの目に気づいた。タチアナの頬には、まだ爪の跡がある。
「殿下。私には過ぎたものです」
「妹がいらないと言ったので。余っているのです。お気になさらず」
「ヴィヴィアン殿下が、いらないとおっしゃったのですか」
「ごめんね、わたしには大きかったの」
向かいの席で、ヴィヴィアンがにっこり笑った。
「あなたの、そのこわい護衛さんが、脱がせなければいいけど」
入り口を振り向くと、赤い髪が見えた。戸口の柱にもたれて、こちらを見ている。私が外套を受け取ったところを、見ていたらしい。琥珀色の目はすぐに逸れて、ラズは何も取らずに出ていった。
次の朝、訓練は倍になった。
「走れ」
「はい」
「遅い。二周増やす」
「私に何か怒っていますか」
「怒っていない。遠い国へ行くなら、足腰が要る」
「馬車で行きます」
「馬車は、襲われる」
「あなたは、私を死なせないために走らせているのですか」
答えはなかった。
外套は、一度も着なかった。銀色の裏地を見るたびに、気が重くなった。ノルンの空いた寝台には、供えた串が二本、乾いたまま残っている。壁の向こうでは、老いた鱗馬がいびきをかいている。兄の声が頭を回る。春の雪解けまで。お前は生きて帰れる。
冬の一番寒い夜に、脇腹が眠らせてくれなかった。
起き上がって、毛布を巻いて外へ出た。月が出ていて、井戸の裏の雪が青い。日の出の一刻前には、まだずいぶんある。
誰もいないはずの井戸の縁に、男が座っていた。
上着も着ないで、手に、木の棒を持っている。棒の先で雪をつついていた。
「何をしているのですか」
ラズの肩が、少しだけ動いた。振り向かずに言った。
「お前こそ、何をしている。寝ていろ。死ぬぞ」
「脇腹が痛いのです。あなたは、頬ですか」
「雪の日は、そうだ」
隣に座ると、一人分の間があいた。この間は、いつもそこにある。毒の話の夜にも、そこにあった。塔の夜だけ、なかった。
「返事は、したのか」
「まだです」
「早くしろ」
「どうしてですか」
「早く決めれば、訓練の内容が変えられる」
「では、私が断ったら」
棒の先が、雪の中で止まった。
「断るな」
「なぜです」
「お前は頭がいい。ここにいれば、いつか誰かに殺される。俺が守れるのは、俺の手の届くところだけだ。あのときのノルンも、グンナルも、俺の手は届かなかった」
「ええ」
「遠い国へ行け。金持ちの男の家で、本を読んで、太れ。お前は痩せすぎだ。毎日肉を食って、寒いときはちゃんと火のそばにいろ。銀の毛皮を着て、ボリスの顔も忘れろ」
「いい話ですね」
「そうだ」
「それで、なぜ、毎晩、鍋を焦がすのですか」
ラズが、初めてこちらを向いた。
月の光が、左の頬に当たっていた。傷の上に、指が触れている。本人は気づいていない。
「俺は、奴隷の子だ」
「知っています」
「腕に紋がある。お前の家を、笑いものにする。お前が持っているきれいな手巾を、俺は洗うことしかできない。何もやれない」
「私の全財産は、銅貨一枚でした。お金は、持っていません」
「そういう話をしてるんじゃない」
「ええ。そういう話ではありません」
私は毛布の中から、手を出した。まめは六つになった。その手を、一人分の間の雪の上に置いた。
「あの夜、手が冷たいと言ったのは、あなたです」
「言った」
「今も冷たいのですが」
長い息が、白く流れた。
「行くな」
聞こえるか聞こえないかの声だった。
「はい?」
「聞こえただろう。二度は言わん」
「私は、耳だけはいいので。もう一度言っていただいても、たぶん同じように聞こえます」
「遠い国へ、行くな」
大きな手が、私の手を上からつかんだ。
一人分の間が、なくなった。
引き寄せられて、毛布がずり落ちた。熱い手が、首の後ろへ回る。傷のある顔がすぐ前に来て、炎茸と、木の煙の匂いがした。唇がぶつかった。ひどく不器用で、歯が当たった。
息の仕方を、訓練で教わっていなかった。
この人が教えてくれたのは、倒れ方と、歩き方と、人の視界から消える方法だけだった。
離れたとき、私は息が切れて、胸の奥がぜいぜいと鳴った。ラズが青ざめて私の肩をつかんだ。
「おい。息をしろ。吐いてから吸え」
「はい」
「吐け。何度教えたと思っている」
「あなたが、今、止めたのです」
ラズの動きが止まった。それから、喉の奥で、変な音がした。
笑っていた。
初めて聞く声だった。肩を揺らして、片手で顔を覆って、この人は低く笑っていた。ふだんより五つも若い、少年のような顔だった。
「ダフネ」
初めてだった。ずっと、お前か、女か、銅貨だった。
私の名前を呼んで、ラズはもう一度、今度はそっと、額をつけてきた。
「ダフネ。行くな」
息が止まりそうになった。
これは幸せというものだと、私にもわかった。十八年、本でしか読んだことのないものだ。首筋のあたりが熱くて、爪の先まで血が通っている。
そして、その同じ場所が、ひどく冷たかった。
呼ばれた名前は、私の名前ではない。
ダフネ・ブレンナーは、ロザーン領の貧乏男爵の三女だ。遠い国の裕福な人は、第四王子だ。私はこの人の前で、一度も本当のことを言っていない。
「あなたの名前は、ラズで、いいのですか」
「なんだそれは」
「ほかの名前は、ないのですか。子どものころの」
額が、少しだけ離れた。琥珀色の目が、すぐ近くで瞬いた。
「ない。ずっとラズだ」
「そうですか」
「お前は」
「私は、ダフネです。ずっと」
二人で、同じ毛布をかぶり直した。頭の上の枝で、低い声がした。
《馬鹿な男だ》
私は聞こえないふりをした。
《お前もだ、小さな人間》
毛布の中で、いつのまにか潜りこんだピピンが、もぞもぞと動いた。
《おい、赤毛の尻、今なら噛めるぞ》
どうか、噛まないでほしい。
雪解けまで、あと七十日ほどだった。




