第23話 「兄」
「背が伸びたな」
「いいえ、お兄様。一寸も伸びておりません」
「では、肉がついた」
「肉は、肋骨の上に青あざがついただけです」
宿場の奥の小さな部屋で、エルネストは立ったまま私を抱きしめた。
手紙の主は、二十四歳の第二皇子である。金の紋章もつけず、古い外套の下に鎖帷子を着ていた。戦場から馬を替えて三日で来たという。伸びたひげの間から、後宮で本を持ってきてくれたころと同じ、気の弱そうな目が笑っていた。
「お前が銅貨を噛んだと聞いて、三日眠れなかった。本当か」
「本当です。おいしくはありませんでした」
「ボリスの手を踏まれて」
「踏まれたのは、私の手です」
兄はもう一度私を抱きしめて、それから後ろに立っていた女に場所を譲った。
ベルタだった。顔の左半分の青黒い紋は、半年前と少しも変わらない。私の前まで来て片膝をつき、襟元を直して、それから、右の脇腹に手を当てた。
「冷やされましたか」
「雪の砦で、一晩」
「はい、殿下」
ベルタの手が、しばらくそこから動かなかった。私にはそれで十分だった。
ピピンがテーブルの上で、干し肉に飛びついている。ベルタにだけは、能力を隠す必要がない。兄には言っていないので、ピピンの言葉は訳して聞かせた。
《このひげ、肉をたくさん持ってるな! おれ様の三番目の人間にしてやる》
「お兄様のことが、気に入ったそうです」
「よかった。アマリア、魔獣を得たのか。騎手の道が開けたな。こんな小さなものでも」
《なんだと!》
「お褒めの言葉だと伝えました」
暖炉の前に、椅子が二つ置かれた。ネリネが茶を入れて、静かに下がった。兄は茶に口をつけず、膝の上で両手を組んだ。こういうときの兄は、話しにくいことを話す。
「戦況は悪い。ボリスが南を押さえた。第一皇子は皇帝の枕もとを離れない。私の手元の兵糧は、あとふた月だ」
「はい」
「リュミエールの王子が大学に来ている。第四王子リシャールだ」
「お会いしました。桶を持っていただきました」
「それは、なぜだ」
「それは私が聞きたいです」
兄は少し笑って、すぐに笑いをひっこめた。
「あの国が、誰につくかで帝国が決まる。王子と結婚する皇女の兄につく。リュミエールは、そう言ってきた。タチアナとヘルミーネが争っているが、ヴィヴィアン王女の口添えで、もう一つ道が開いた」
暖炉の火がはぜた。
「アマリア。第七皇女として、リシャール王子と婚約してくれないか」
指先が冷えたのは、部屋の寒さのせいではなかった。
「向こうは密約でいいと言っている。春までは公にしない。お前は第七皇女として名乗らなくていい。春に私の軍が帝都に入り、そのとき婚約を発表する。王子の妻を殺せば、同盟国との戦になる。ボリスの懸賞も、その日に終わる」
「その日までに、私が生きていれば」
「そうだ。お前は生きて帰れる。大学からも、この国の殺し合いからもだ。リュミエールは豊かで、医者も良い。お前の体を治せるかもしれない」
兄の声が、少し上ずった。
「お前が本を読むのに飽きるまで、読めるだけの本がある国だ。十年間、私はお前をあそこから連れ出してやれなかった。これが、私にできる唯一のことだ」
「返事は、いつまでに」
「春の雪解けまでだ」
リシャールの顔が浮かんだ。上下逆の地図と、固焼きの菓子と、皇族にだけする礼。あの人は知っているのだろうか。それとも。
次に、別の顔が浮かびかけて、私はそれを追い払った。ひと月前の塔で握られた手の、まめの固さを追い払った。
「お兄様。一つうかがいます。宮廷で、最近何か変わったことはありましたか」
話を変えるために聞いた。兄はほっとしたように、肩の力を抜いた。
「そうだな。いい話はない。ああ、一つ、妙な噂がある。正妃様が亡くなった夜のことを覚えているか」
「覚えていません」
「そうだった。すまない。十年前のあの和議の夜、正妃エウフェミア様が毒で亡くなり、お前も毒を飲んだ。正妃様の紋の者たちは、その場で全員倒れて死んだ」
「主が死ねば、紋の者も死にます」
「ああ。三十二人のうち三十一人が死んだ。一人だけ、生き残った文官がいる。セルジュという男だ。もう死にかけだったのが奇跡的に持ち直したそうで、今では財務の要職にいて、奇跡の文官と呼ばれている」
私はベルタを見た。ベルタは壁のそばで、何も言わずに立っていた。
「そのようなことが、あるのですか」
「私も初めて聞いた。紋の力が弱かったのだろうと、皆は言っている。ボリスがその男を自分の派閥に引き入れた。お前と同じだな。一人だけ運よく生き残った者だ」
兄は悪気なく笑って、茶を飲んだ。ベルタの顔の左半分の紋が、暖炉の光の中で、少しも動かなかった。
ベルタに聞いた。兄が馬の様子を見に出たすきに。
「ねえ、ベルタ。私が死んだら、あなたは死ぬのよね」
「はい、殿下」
「例外はあるの」
「ございません」
「その文官は」
「存じません」
ベルタは、短く答えて、それから一つだけ付け足した。
「ございません、殿下。紋は、主の死に逆らえません」
戸が開いて、ネリネが盆を持って入ってきた。小瓶がひとつ載っている。
「姫様、お薬の時間です。お久しぶりに、姫様とお呼びできますね」
「ありがとう、ネリネ」
私が栓を抜くと、テーブルの上で、ピピンの干し肉が止まった。
《おい。やめろって言っただろ》
毛玉が転がってきて、小瓶の前で全身の毛を立てた。
《お前の薬、くさい。前よりくさい。聞いてんのか、おい》
「薬はくさいものなの」
《くさいの種類が違う!》
私は息を止めて、一息に飲んだ。腹の底が、いつものように重くなった。ベルタの視線を感じて顔を上げると、紋のない右半分の顔が、毛玉を見ていた。
何を言ったか、ベルタは私に聞かなかった。私も言わなかった。
別れぎわ、馬のそばで、兄が私の両肩をつかんだ。
「アマリア。札の護衛に、例の奴隷を使っているそうだな」
「はい。よく働きます」
「婚約の話が出れば、奴隷の護衛は外聞が悪い。春までに札を切れ。一年分の報酬を払えば、向こうも文句はないだろう」
「お金で切れる人ではありません」
「それなら、なおさらだ」
兄は気の弱そうな目で、じっと私を見た。
「好いた男がいるのか」
「おりません」
「そうか。よかった」
答えが早すぎた、と言ってから気づいた。兄は気づかなかったらしい。
兄は馬に乗り、雪の中を南へ帰っていった。ベルタが馬車の扉を開けた。顔の紋の下で、唇がほんの少しだけ動いた。
「はい、殿下」
「何も聞いていないわ、ベルタ」
「はい、殿下」
宿場で別れて、二百段を半分まで這うように上がったときは、もう日が暮れていた。
石段の途中の灯りの下に、赤い髪が立っていた。肩に雪が積もっている。いつから立っていたのか、その雪を見ればわかる。
「遅い」
「ただいま帰りました」
ラズは私の足もとを見て、私の顔を見た。
「何かあったな」
「いいえ」
「そうか」
ラズは背中を向けて、片膝をついた。
「乗れ」




