第22話 「グンナル」
「遅いです、先輩!」
「おう、ダフネ! 迎えに来てやったのに、礼より先に文句か!」
西の尾根を、鱗馬の群れが雪煙を上げて駆け下りてきた。ロザーン寮の連中が二十人、地下のヨハンとカーヤとティモが、その後ろに続いている。先頭の鱗馬の上で、グンナルが戦斧を振り回していた。
「ティモさんまで!」
「僕が来なくて誰が場を盛り上げるんですか! ただ今、鱗馬から落ちないのが精一杯です!」
魔物の群れが、新しい獲物へ流れ出した。ラズが塔の階段の机を蹴り崩して、私を担いで駆け下りる。扉を出ると、グンナルの鱗馬が横を走り抜けながら、空いた一頭の手綱をこちらへ放った。
「乗れ! 西の尾根に古い鉱山道がある! 王女様の地図に載ってたんだとよ!」
「ヴィヴィアン殿下の地図ですか」
「ああ、あの子はいい子だな! 話はあとだ!」
ラズが私を鱗馬へ押し上げ、自分も後ろへ飛び乗った。老いた鱗馬ではなかったが、耳がこちらを向いた。
《お前か。話は聞いてるぞ。どっちへ逃げる》
「西の尾根へ、まっすぐ」
《合点だ。あの黒いの、気味が悪い》
カーヤの矢が飛んでいく。魔物の目に、一本、二本と立った。立っても止まらない。ヨハンが長い槍で黒い牙犬を突き落とし、ティモが悲鳴を上げながら松明を投げた。松明は誰にも当たらなかった。
「後ろが来るぞ!」
「前を見て走れ! 尾根を越えれば狭い道だ! そこで止められる!」
グンナルが手綱を引いた。大きな体がくるりと向きを変えて、列の一番後ろへ回った。
「先輩!」
「殿は四年の仕事だ! 走れ、鼠ども!」
戦斧が黒い鱗馬の首を割った。次に飛びかかってきたものの胴を横に払う。雪の上に黒いものが飛び散った。あの人はいつも笑っているが、兵士の四年生だ。私はそれを初めて見た。
尾根の切り通しが見えた。岩の間の、鱗馬が一頭ずつしか通れない道だ。ヨハンが先に入り、カーヤが入り、ティモが転がりこんだ。ロザーン寮の連中が次々に抜けていく。
《たすけて、たすけて、たすけて》
黒いものの声が、私の耳を埋めた。
斜面の上から、岩山羊の形をした魔物が飛び下りてきた。大きな曲がった角が、最後尾の男の子の背中へ向かっている。ロザーン寮の新入生だ。
「伏せろ!」
グンナルの鱗馬が、その間へ割りこんだ。
どん、と音がした。
黒い角が、グンナルの胸当てを割って、背中の側へ抜けていた。
魔物が首を振る。大きな体が持ち上がる。グンナルは片手で角をつかみ、もう片方の手で、戦斧を魔物の首へ振り下ろした。一度。二度。三度目で、頭が落ちた。
切り通しの前で、鱗馬がよろよろと止まった。グンナルは鞍の上に座ったまま、胸から角を生やして、大きく息をした。
「ラズ!」
「わかっている!」
ラズが鱗馬を返した。私を鞍に残したまま飛び下りて、グンナルの鱗馬の手綱をつかみ、切り通しの中へ引きこんだ。ヨハンとカーヤが入れ替わりに入り口へ出て、岩を落としはじめる。
「岩が足りない!」
「上のを落とせ! もっとだ!」
がらがらと音がして、道がふさがっていった。
雪の上に、グンナルが下ろされた。
私は鱗馬から転げ落ちて、這っていった。角は、抜いてはいけないところに刺さっていた。本で読むまでもなかった。
「おう、ダフネ」
赤ら顔が白くなっている。それなのに、いつもの顔で笑おうとしていた。
「お前、また顔色が悪いな。ちゃんと食ってるか」
「先輩、しゃべらないでください。今、縛ります」
「いいって。お前のやり方は知ってる。鶏は三羽死んだんだろ」
「四羽目はラズ先輩で、生きています」
「はっは。俺は五羽目か」
笑うと、口から血があふれた。ティモが後ろで、声を立てずにしゃくり上げている。鱗馬から転がり落ちた新入生が、雪の上で膝をついていた。
「おい、新入り。お前、無事か」
「は、はい。先輩、すみません、すみません」
「謝るな。お前の札を持ってるのは俺だ。護衛が護衛をしただけだ」
グンナルは顔を動かして、ラズを見た。
「おい、奴隷」
「なんだ」
「うちの札が三組、これで切れる。あいつらをお前の地下に入れてやれ。飯は、そこの神に作らせるな。死ぬぞ」
「わかった」
「よし」
大きな手が、雪の上で動いた。私の頭のほうへ来ようとして、途中で止まった。私はそれをつかんで、自分の頭の上へ持っていった。
重かった。ごしごしと一度だけ動いて、髪が少し逆立った。
「ま、死ぬなよ、ダフネ」
「はい、先輩」
「なあ。今日の死にかけ自慢は、俺の優勝だよな」
「はい」
「肉は、一番でかいところをくれよ」
「はい。一番大きいところを入れます。牙猪の一番いいところです。私が頼んでおきます」
「先輩」
「先輩。聞こえていますか」
返事は来なかった。
大きな手が、私の頭から滑り落ちた。
雪が降っていた。赤ら顔に落ちた雪が、溶けなくなるまで、少しかかった。
「行くぞ」
ラズの声は、ひどくかすれていた。傷の上に、指が一度だけ触れた。
「岩はそう長くもたない。ヨハン、肩を持て」
丸一日かかって、グンナルを大学まで連れて帰った。
校門の前には、大勢が集まっていた。ボリスがボルグの背に足を組んで座っている。ピエトロが手斧を腰にさしたまま、私たちに手を振った。
「おお、これは驚いた! 生きていたのか! 橋が落ちたのは、不幸な事故だったなあ」
ラズの足が、一歩前へ出た。ヨハンの肩の上で、グンナルの腕が揺れた。ラズはその腕を見て、足を止めた。今は、この人を運ぶのが先だった。
ヨハンの肩の上の大きな体を、ボリスは目を細めて見た。
「それは、豚小屋の熊か。死んだのか」
誰も答えなかった。
「そうか。札持ちが死ねば、札は切れる。それが規則だ。あいつの札の新入生は三人とも、ただいまをもって札なしだ。次の札市は来年だぞ」
その三人が、私の後ろで固まった。一人は、切り通しで助けられた子だ。一人は、吊り橋の向こうへ投げられた子だ。
ボリスは、心から楽しそうに笑った。
「おい、死にぞこない。熊には世話になっただろう。葬式はお前が出してやれ。棺桶は、また送ってやる」
翌朝、本当に届いた。
白木の、新しい棺だった。今度の蓋に、文字はない。ロザーン寮の前庭に、寮の連中が黙って立っていた。誰も斧を持ってこようとしなかった。グンナルが笑ってくれない。ノルンもいない。
私は、前へ出た。
棺の周りを、ゆっくり一周した。板を拳で叩いた。こんこんと、乾いたいい音がした。
「いい板です」
声はかすれていたが、前庭の端まで届いた。
「節もなく、乾いています。先輩の大きさにも足りるでしょう。ボリス殿下のお金で、一番いい棺で送れます」
誰も笑わなかった。
笑わなくてよかった。寮の四年生が一人、前へ出た。もう一人出た。みんなで棺を持ち上げて、グンナルの寝台の前まで運んだ。
その夜、地下の避難所で、ラズは粥を作った。肉は牙猪ではなかった。角兎の、一番大きなかたまりだった。
ラズはそれを椀に入れて、かまどの横に置いた。
「今日の死にかけ自慢」
ティモが、鼻をすすりながら言った。
「優勝は、グンナル先輩です。文句のある人はいますか」
一人もいなかった。
椀は、朝まで温められていた。
三人の新入生の寝床を整えているとき、ピピンが手紙をくわえて戻ってきた。宿場の印のついた、小さな封筒だ。
裏に、見慣れた兄の字があった。
『冬至の休みに、宿場へ来い。大事な話がある』




