第21話 「たすけて」
「動くなと言った!」
軍刀が、黒い鱗馬の首を横から払った。
頭が地面に落ちて、それでも足はしばらく動いていた。血は赤くなかった。黒く濡れて、甘く腐った匂いがした。
《いたい》
地面に落ちた頭が、まだ言っている。
《いたい。おかあさん。さむい》
私は壁に背をつけたまま、動けなかった。息の仕方を、全部忘れていた。
「おい、銅貨!」
襟をつかまれて、顔が上を向いた。琥珀色の目が、すぐそばにあった。
「どうした」
「いいえ。何も」
「立て。塔へ行くぞ」
ラズは私を肩に担いだ。砦の真ん中に、石造りの古い物見の塔がある。階段は一人がやっと通れる幅だ。入り口で向き直り、ラズは追ってきた三頭を斬った。階段を二十段上がって、また斬る。
上の部屋に放りこまれると、ラズは机と棚を全部押し出して、階段の口をふさいだ。その上に自分の背中をつける。肩で息をしていた。
左の腕が、肘の下まで裂けていた。
「腕を見せてください」
「あとだ」
「今です。あの血が傷に入ったら、どうなるかわかりません」
答えを待たずに、私は這っていって、自分の水筒の中身を傷にかけた。ラズの体がびくりと動いた。傷口を洗い、懐の手巾で固く縛る。薄紫の月鈴草が、見る間に赤くなった。
「また洗って返していただかないといけませんね」
「お前は、こんなときでもよくしゃべるな」
「黙ると、聞こえてしまうので」
「何がだ」
私は口を閉じた。
窓のない細い隙間から、外の音が入ってくる。塔の周りを、無数の蹄が回っている。うなり声がしている。ラズにはそう聞こえているはずだ。
《たすけて》
《あまい。いたい。のどがかわいた》
《かえして。かえして。わたしのこ》
本には、魔物に心はないと書いてあった。トマソ先生は、魔獣にさえ心はないと言っている。魔獣の声が聞こえる私に、魔物の声は一度も聞こえたことがない。森のときも、聞こえなかった。
森のときは、遠かっただけなのだろうか。
《おい、なんだあいつら。聞いてるか》
毛玉が胸もとから這い出してきた。さすがに声が小さい。
《あいつら、変だ。おれ様、あいつらの声は嫌いだ。あの匂いも嫌いだ》
「今は、やめて」
《なんだよ》
「何と言っている」
ラズが、目を閉じたまま聞いた。
「お腹が減ったそうです」
「そいつは墓の中でも言うだろうな」
日が落ちると、急に寒くなった。
魔物は階段を上がってこなかった。塔の周りを回り続けているだけだ。壁の隙間から雪が入りはじめて、床の石が氷のように冷たくなる。かまどもない。薪もない。外へ出れば魔物の群れだ。
歯が鳴って止まらなくなった。指の先から感覚がなくなっていく。脇腹が、きりきりと痛い。
「こっちへ来い」
「はい?」
「お前の体は、火がないと夜を越せん。死体は守れないと言っただろう。来い」
ラズは机に背をつけたまま、右腕で軍服の前を開けた。
私は床を這っていった。四つん這いで、毛布もなしに、札の護衛のところまで三歩である。ラズの右腕が、私の背中を引き寄せた。あごの下に、私の頭が入る。
熱かった。
この人の体は、火と同じくらい熱かった。汗と血と、かすかに炎茸の匂いがする。
「静かだな」
「緊張して、言葉が出ません」
「それでいい」
《おい! おれ様はここで寝る!》
ピピンが二人の間に潜りこんで、すぐに寝息を立てはじめた。
しばらくして、ラズの声が胸の骨を通して聞こえてきた。
「さっきの布」
「手巾ですか」
「それは、大事なものじゃないのか。母親が刺したと言っていた」
「ええ。今は、あなたの腕に巻いておくのが一番大事です」
「ガキのころ」
低い声が、そこで少し止まった。外の蹄の音が、遠ざかってまた近づいた。
「ガキのころ、一度だけ、同じことをされた」
「手巾を、巻かれたのですか」
「顔の傷にだ。知らない女の子だ。俺より小さい。なんでそんなところにいたのかも、わからん。俺が血を流して座っていたら、寄ってきて、布を押しつけて、『痛いの』と聞いた」
「なんとお答えになったのですか」
「答えなかった。泣いていたからな」
私は顔を上げようとした。大きな手が、頭を押さえた。
「見るな。俺が人に手当てをされたのは、あれが初めてだった。二度目がお前だ。背中を十二針縫った女だ」
「三度目は井戸の裏で、四度目は今です」
「そうだな」
「その女の子の名前は、聞かなかったのですか」
「聞かなかった。もう死んでいるかもしれない。あの夜は、人がたくさん死んだ」
何の夜なのか、聞けなかった。今夜の質問は、一つずつだ。
「あなたの番です」
「何がだ」
「質問です。毒の話のときに、約束しました」
ラズの胸が、小さく揺れた。笑ったのかもしれない。
「お前は、子どものころ、何をしていた」
「覚えていません」
「なんだそれは」
「八歳より前のことは、ほとんど覚えていないのです。毒が持っていきました。八歳より後は、寝ていました。だから私には、話せるほどの子どものころがありません」
ラズは何も言わなかった。
私の手が、石の床の上に投げ出されていた。感覚がなくて、自分のものでないように見える。その手を、大きな手がつかんだ。
左手だった。腕を裂かれたほうの手だ。指の間に、ラズの指が入ってくる。固いまめだらけの手のひらが、私のまめ五つを覆った。
「冷たいな」
「いつもです」
「これでは夜明けまでにもげる」
「もげたら、拾ってください」
「黙っていろ」
握る力が、少しだけ強くなった。
黙っていた。塔の下で、声が続いている。
《たすけて》
《たすけて》
この夜、私は魔物の声のことを、誰にも言わないと決めた。言えば、なぜ聞こえるのかを話さなければならない。この手を握っている人に、私はまだ、本当の名前すら言っていない。
朝が近づくころ、音が変わった。
塔の周りを回っていた蹄の音が、ぴたりと止まったのだ。隙間からのぞくと、黒い群れがいっせいに同じ方向を向いていた。南の谷のほうだ。全部の頭が、白い目で、一つの場所を見ている。
ラズが目を開けた。手が離れて、軍刀をつかんだ。
遠くで、角笛が鳴った。
谷の向こうではない。こちら側の、西の尾根からだ。あそこには道などない。
雪の朝を、割れ鐘のような大声が渡ってきた。
「おーい! 生きてるか、鼠ども!」




