第20話 「砦」
《来るぞ。来るぞ来るぞ来るぞ》
初雪の前の朝、声はいきなり山の上から降ってきた。
新入生と上級生の二百人が、北の国境の古い砦へ来ていた。兵站の実習だ。荷車で穀物を運び、砦の倉へ積んで帰るまでが課題である。砦は深い谷に囲まれていて、外へ出る道は、吊り橋が一本あるだけだった。
私は倉の前で、荷札を数えていた。
《逃げろ! 逃げろ、来るぞ!》
《腐ったやつらが来る!》
頭の上を、煙鳥の群れが南へ飛んでいった。一羽や二羽ではない。崖を、岩山羊が駆け下りていく。森の際から狐と兎が飛び出して、吊り橋のほうへ走っていく。狐が兎を追っていない。
腐った甘い匂いが、北風に乗って、かすかに届いた。
「グンナル先輩! 荷を捨てて、全員を橋の向こうへ!」
「どうした、ダフネ。腹か」
「魔物が来ます。たくさんです」
グンナルは私の顔を見て、それから空の鳥を見た。今度は、笑わなかった。
「どのくらいで来る」
「わかりません。ピピンが、さっきから毛を逆立てて騒いでいるんです」
《おれ様は騒いでないぞ! あいつらがうるさいだけだ!》
「ほら、騒いでいます」
「よし。おい、聞け! 全員、荷車を離れろ! 橋へ走れ!」
グンナルの大声に、実習の監督だったゴルドが、曲がったまま治った右手を腰に当てて振り向いた。
「なんだ豚小屋! 荷を捨てれば実習は落第だぞ!」
「落第で死ぬ奴はおらん!」
怒鳴り声の途中で、砦の北の見張り台から、鐘が狂ったように鳴り出した。
二百人が、いっせいに吊り橋へ走った。ラズが後ろから私の襟をつかんで、半分持ち上げて運ぶ。
「さっき、鐘より先に言ったな」
「ピピンが騒いだからです」
「お前の毛玉は、昨日も馬糞の前で騒いでいた」
ラズは吊り橋の手前で私を下ろした。橋のたもとに、ヴィヴィアンが護衛に囲まれて立っていて、私に手を振った。
「ねえ、聞いて。ダフネ、鐘が鳴る前から走ってたのね。すごい!」
「殿下、早く渡ってください」
「うん。あなたは?」
ヴィヴィアンがかわいらしく小首をかしげた。その後ろで、悲鳴が上がった。
「待って! 足が! 誰か、待ってください!」
倉の前の坂で、新入生の男の子が倒れていた。荷車の車輪に足を挟まれている。周りの学生たちは、見向きもせずに駆け抜けていく。あの子を知っていた。グンナルに札を返してくれと頼まれて、泣き出した子だ。
足が向いていた。
「どこへ行く」
「あの子の足を」
「お前の足で、何ができる」
「梃子の入れ方なら知っています。閂も、罠も開けました」
ラズは舌打ちをした。
「死体が二つになるだけだ。ここにいろ」
赤い髪が坂を逆に駆け上がっていく。ここにいろと言われたので、私はその場で三歩だけ待った。それから、後を追った。
ラズが荷車を片手で持ち上げ、男の子を引き抜いて肩に担いだとき、私はようやく坂の中ほどにたどり着いたところだった。
「いろと言った!」
「はい! 聞きました! 三歩待ちました!」
「三歩か!」
「はい!」
「次は四歩待て!」
ラズが私の横を駆け抜ける途中で、もう片方の腕で私を拾った。三人分の重さを抱えて、吊り橋へ戻る。ラズの息が耳もとで荒くなる。
橋が見えた。学生の最後の一団が渡っている。
向こう岸に、ゴルドとピエトロが立っていた。ピエトロが手斧を持って、綱のたもとに屈みこんでいる。甲高い声が、谷を越えて届いた。
「全員渡ったな! 魔物が来るぞ、橋を落とせ!」
「まだいます!」
男の子がラズの肩の上で叫んだ。
「まだ、ここにいます! 待ってください!」
ピエトロが顔を上げた。こちらを見た。小さな目が、はっきりと私たちをとらえた。
そして、にっこり笑った。
「いいや。全員渡ったぞ」
手斧が振り下ろされた。
一本目の綱が弾けて、橋が傾いた。ラズは足を止めなかった。橋へ走りながら、肩の男の子の帯をつかんだ。
「腹に力を入れろ」
「え」
男の子の体が宙を飛んだ。
人一人を、向こう岸へ投げたのだ。傾いた橋の先へ、悲鳴が弧を描いて落ちていき、対岸の学生たちが、もみくちゃになって受け止めた。
二本目の綱が切れた。
吊り橋は、大きくねじれながら、谷の底へ落ちていった。
ラズの足は、橋板のなくなった崖の縁で止まっていた。私はその腕の中にいる。
「おや、残念! 殿下には、奴隷は魔物に食われたと報告しておきます! 立派な最期でした!」
ピエトロが手斧を振って、ゴルドが腹を揺すって笑った。
「ピエトロ」
ラズの声は大きくなかったが、谷をよく渡った。
「なんだ、死人が!」
「尻の縫い目は、まだ痛むか」
「な、なんだと!」
「次は、縫えないようにしてやる」
「おい、てめえら! ダフネもラズもまだ向こうだぞ! なぜ落とした!」
グンナルの声が聞こえた。向こう岸で、ゴルドの手下に三人がかりで押さえられている。
その人混みの端に、蜂蜜色の髪が見えた。ヴィヴィアンは谷を見ていた。私の、というより、私の肩の毛玉を見ていた。こちらに気づいて、小さく手を振った。
ごめんね、と唇が動いた。
助けに入れなくて、ごめん。そういう意味だろう。王女に、落ちた橋は直せない。
「他に出口は」
ラズに聞かれて、私は頭の中の地図を開いた。
「ありません。谷に囲まれているから、砦になったのです」
「だろうな。歩けるか」
「いいえ」
「知っている。聞いただけだ」
「倉まで戻る。つかまれ」
ラズは私を背負い直して、歩き出した。
「空は。裏山のあの黒い魔獣に頼めないのですか」
ラズの足が一瞬だけ止まった。私があの魔獣を知っていることは、もうお互いに口にしなくても通じている。
「さっき呼んだ。来られん」
《上を見ろ、小さな人間》
低い声が、遠くから聞こえた。谷の向こうの雲の下を、黒いものがゆっくり回っている。鳥の群れだ。ただ、羽の形が崩れている。
《黒い鴉が何百といる。お前たちを乗せて飛べば、三人とも落ちる。夜を越えろ。夜明けまで、私は近づけない》
砦の北の門が、音を立ててきしんだ。
ずしん、と門が内側へたわんだ。
すき間から、腐った甘い匂いが流れこんできた。
門の板が割れて、黒い鼻面が突き出た。鱗馬の形をしていた。岩山羊の形をしたものも、牙犬の形をしたものもいた。どれも毛が溶けて黒く濡れていて、目が白く濁っている。数は数えられない。
ラズが私を下ろし、軍刀を抜いた。
「俺の後ろにいろ。今度こそ、そこを動くな」
「はい。あなたは、何頭まで相手にできるのですか」
「来た分だ」
「それは数ではありません」
「数えるな。数えると足が止まる」
魔物が門を破って、なだれこんできた。
私は倉の壁に背中をつけた。
そのときだった。
うなり声が、私の耳の中で、ゆっくりと形を変えた。魔物に声はない。心もない。どの本にもそう書いてあった。
《たすけて》
子どものような声だった。
《たすけて。いたい。たすけて》
黒く溶けた鱗馬が、白い目で、牙を鳴らしながら、まっすぐ私へ走ってくる。




