↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/79

第20話 「砦」

《来るぞ。来るぞ来るぞ来るぞ》


 初雪の前の朝、声はいきなり山の上から降ってきた。


 新入生と上級生の二百人が、北の国境の古い砦《とりで》へ来ていた。兵站の実習だ。荷車で穀物を運び、砦の倉へ積んで帰るまでが課題である。砦は深い谷に囲まれていて、外へ出る道は、吊《つ》り橋が一本あるだけだった。


 私は倉の前で、荷札を数えていた。


《逃げろ! 逃げろ、来るぞ!》


《腐ったやつらが来る!》


 頭の上を、煙鳥《けむりどり》の群れが南へ飛んでいった。一羽や二羽ではない。崖を、岩山羊が駆け下りていく。森の際から狐と兎が飛び出して、吊り橋のほうへ走っていく。狐が兎を追っていない。


 腐った甘い匂いが、北風に乗って、かすかに届いた。


「グンナル先輩! 荷を捨てて、全員を橋の向こうへ!」


「どうした、ダフネ。腹か」


「魔物が来ます。たくさんです」


 グンナルは私の顔を見て、それから空の鳥を見た。今度は、笑わなかった。


「どのくらいで来る」


「わかりません。ピピンが、さっきから毛を逆立てて騒いでいるんです」


《おれ様は騒いでないぞ! あいつらがうるさいだけだ!》


「ほら、騒いでいます」


「よし。おい、聞け! 全員、荷車を離れろ! 橋へ走れ!」


 グンナルの大声に、実習の監督だったゴルドが、曲がったまま治った右手を腰に当てて振り向いた。


「なんだ豚小屋! 荷を捨てれば実習は落第だぞ!」


「落第で死ぬ奴はおらん!」


 怒鳴り声の途中で、砦の北の見張り台から、鐘が狂ったように鳴り出した。


 二百人が、いっせいに吊り橋へ走った。ラズが後ろから私の襟《えり》をつかんで、半分持ち上げて運ぶ。


「さっき、鐘より先に言ったな」


「ピピンが騒いだからです」


「お前の毛玉は、昨日も馬糞(くそ)の前で騒いでいた」


 ラズは吊り橋の手前で私を下ろした。橋のたもとに、ヴィヴィアンが護衛に囲まれて立っていて、私に手を振った。


「ねえ、聞いて。ダフネ、鐘が鳴る前から走ってたのね。すごい!」


「殿下、早く渡ってください」


「うん。あなたは?」


 ヴィヴィアンがかわいらしく小首をかしげた。その後ろで、悲鳴が上がった。


「待って! 足が! 誰か、待ってください!」


 倉の前の坂で、新入生の男の子が倒れていた。荷車の車輪に足を挟まれている。周りの学生たちは、見向きもせずに駆け抜けていく。あの子を知っていた。グンナルに札を返してくれと頼まれて、泣き出した子だ。


 足が向いていた。


「どこへ行く」


「あの子の足を」


「お前の足で、何ができる」


「梃子の入れ方なら知っています。閂《かんぬき》も、罠《わな》も開けました」


 ラズは舌打ちをした。


「死体が二つになるだけだ。ここにいろ」


 赤い髪が坂を逆に駆け上がっていく。ここにいろと言われたので、私はその場で三歩だけ待った。それから、後を追った。


 ラズが荷車を片手で持ち上げ、男の子を引き抜いて肩に担いだとき、私はようやく坂の中ほどにたどり着いたところだった。


「いろと言った!」


「はい! 聞きました! 三歩待ちました!」


「三歩か!」


「はい!」


「次は四歩待て!」


 ラズが私の横を駆け抜ける途中で、もう片方の腕で私を拾った。三人分の重さを抱えて、吊り橋へ戻る。ラズの息が耳もとで荒くなる。


 橋が見えた。学生の最後の一団が渡っている。


 向こう岸に、ゴルドとピエトロが立っていた。ピエトロが手斧を持って、綱のたもとに屈みこんでいる。甲高い声が、谷を越えて届いた。


「全員渡ったな! 魔物が来るぞ、橋を落とせ!」


「まだいます!」


 男の子がラズの肩の上で叫んだ。


「まだ、ここにいます! 待ってください!」


 ピエトロが顔を上げた。こちらを見た。小さな目が、はっきりと私たちをとらえた。


 そして、にっこり笑った。


「いいや。全員渡ったぞ」


 手斧が振り下ろされた。


 一本目の綱が弾けて、橋が傾いた。ラズは足を止めなかった。橋へ走りながら、肩の男の子の帯をつかんだ。


「腹に力を入れろ」


「え」


 男の子の体が宙を飛んだ。


 人一人を、向こう岸へ投げたのだ。傾いた橋の先へ、悲鳴が弧を描いて落ちていき、対岸の学生たちが、もみくちゃになって受け止めた。


 二本目の綱が切れた。


 吊り橋は、大きくねじれながら、谷の底へ落ちていった。


 ラズの足は、橋板のなくなった崖の縁で止まっていた。私はその腕の中にいる。


「おや、残念! 殿下には、奴隷は魔物に食われたと報告しておきます! 立派な最期でした!」


 ピエトロが手斧を振って、ゴルドが腹を揺すって笑った。


「ピエトロ」


 ラズの声は大きくなかったが、谷をよく渡った。


「なんだ、死人が!」


「尻の縫い目は、まだ痛むか」


「な、なんだと!」


「次は、縫えないようにしてやる」


「おい、てめえら! ダフネもラズもまだ向こうだぞ! なぜ落とした!」


 グンナルの声が聞こえた。向こう岸で、ゴルドの手下に三人がかりで押さえられている。


 その人混みの端に、蜂蜜《はちみつ》色の髪が見えた。ヴィヴィアンは谷を見ていた。私の、というより、私の肩の毛玉を見ていた。こちらに気づいて、小さく手を振った。


 ごめんね、と唇が動いた。


 助けに入れなくて、ごめん。そういう意味だろう。王女に、落ちた橋は直せない。


「他に出口は」


 ラズに聞かれて、私は頭の中の地図を開いた。


「ありません。谷に囲まれているから、砦になったのです」


「だろうな。歩けるか」


「いいえ」


「知っている。聞いただけだ」


「倉まで戻る。つかまれ」


 ラズは私を背負い直して、歩き出した。


「空は。裏山のあの黒い魔獣に頼めないのですか」


 ラズの足が一瞬だけ止まった。私があの魔獣を知っていることは、もうお互いに口にしなくても通じている。


「さっき呼んだ。来られん」


《上を見ろ、小さな人間》


 低い声が、遠くから聞こえた。谷の向こうの雲の下を、黒いものがゆっくり回っている。鳥の群れだ。ただ、羽の形が崩れている。


《黒い鴉が何百といる。お前たちを乗せて飛べば、三人とも落ちる。夜を越えろ。夜明けまで、私は近づけない》


 砦の北の門が、音を立ててきしんだ。


 ずしん、と門が内側へたわんだ。


 すき間から、腐った甘い匂いが流れこんできた。


 門の板が割れて、黒い鼻面が突き出た。鱗馬《うろこうま》の形をしていた。岩山羊の形をしたものも、牙犬の形をしたものもいた。どれも毛が溶けて黒く濡れていて、目が白く濁っている。数は数えられない。


 ラズが私を下ろし、軍刀を抜いた。


「俺の後ろにいろ。今度こそ、そこを動くな」


「はい。あなたは、何頭まで相手にできるのですか」


「来た分だ」


「それは数ではありません」


「数えるな。数えると足が止まる」


 魔物が門を破って、なだれこんできた。


 私は倉の壁に背中をつけた。


 そのときだった。


 うなり声が、私の耳の中で、ゆっくりと形を変えた。魔物に声はない。心もない。どの本にもそう書いてあった。


《たすけて》


 子どものような声だった。


《たすけて。いたい。たすけて》


 黒く溶けた鱗馬が、白い目で、牙を鳴らしながら、まっすぐ私へ走ってくる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。