第17話 「毒見」
「はい、今日の死にかけ自慢は中止です! 本日は宴会です!」
ティモが鍋のふたを叩いて叫んだ。
地下の避難所に、ありえない匂いが満ちていた。旗取りの賞品の小麦が、ロザーン寮から荷車で届いたのだ。グンナルが「うちの神が世話になっている」と言って、半分を回してくれた。白いパンが焼ける。今夜は、そこへ祝いの品がもう一つ加わった。
「大学の厨房からです。優勝した寮と、その関係者へだそうで」
ヨハンが大きな土鍋を二つ、かまどの横に置いた。ふたを開けると、湯気と一緒に肉の匂いが広がった。牙猪の煮込みだ。脂がとろりと光っている。
「牙猪なんて、一年ぶりに見た」
「カーヤ、泣いてる?」
「煙がしみただけよ。どいて、皿を出すから」
十五人が一度に動き出した。ティモが一番に椀を差し出す。ラズはいつものように杓子を鍋に入れた。
「味見は」
「一口だ。黙って待て」
ラズが杓子を持ち上げる。その鼻先を、湯気が通り過ぎた。
同じ湯気が、私のところへも来ていた。
牙猪の脂の匂いの下に、ごく薄く、雨のあとの土のような匂いがある。兄の持ってきた本の、三百頁目あたりに書いてあった匂いだ。
「食べないで!」
「食うな!」
二人の声が重なった。
地下じゅうが動きを止めた。ティモが匙を口の前まで持ってきたまま、目だけをこちらへ向けた。ラズは杓子を鍋に戻し、私を見ていた。
「あの、先輩? ダフネさん? これ、一口だけ、いいですか」
「死にたければな」
「灰目茸です」
私はかまどの前へ行って、鍋の縁を指さした。
「煮ると、脂の泡がわずかに灰色になります。食べても、その日は何も起きません。おいしいそうです。翌朝、眠ったまま起きなくなります」
ティモの匙が、ゆっくりと椀へ戻っていった。
「翌朝、全員ですか」
「全員です」
「僕、明日、靴下を洗う予定だったんですけど」
「洗わずにすむところだったな」
ヨハンが静かに言って、鍋のふたを閉めた。カーヤが立ち上がり、厨房へ走りかけて、ラズの声に止められた。
「行くな。運んできた奴はもういない」
「ボリスよ! あいつ、仲間には手を出さないって言ったじゃない!」
「証拠がない。厨房の祝いだ。誰が煮たかなど、わかるものか。あいつは、約束は守っていると笑うだけだ」
カーヤが唇をかんだ。十五人が、黙って白いパンを見た。パンはグンナルの小麦で、ラズが焼いたものだ。
「パンは、大丈夫です」
私が言うと、ティモがそろそろと手を伸ばした。
《おい、それ食わないのか》
頭の上からピピンが転がり落ちた。止める間もなかった。白い毛玉は鍋のふたの隙間へ頭を突っこみ、肉のかけらをくわえて、もぐもぐと飲みこんだ。
「ピピン! 吐きなさい!」
《うまい!》
「それは毒なの!」
《知ってる。ちょっとピリッとする。もう一個くれ》
私は毛玉をつまみ上げて、口をのぞきこんだ。歯のかけらみたいな小さな歯があるだけで、灰色にもなっていない。ピピンは手の中で元気に跳ねた。
「何と言っている」
ラズが聞いた。
「おいしいそうです」
「毒だろう」
「そう言いました。もう一個ほしいそうです」
ラズは毛玉をしばらく見ていた。それから土鍋を二つとも持ち上げて、地下の外へ出ていった。今夜の宴会は、塩をふったパンだけになった。それでも十五人とも生きている。ティモは「白いパンって、塩だけで泣けるんですね」と言いながら六つ食べた。
夜半、私は外の階段に腰かけていた。土を掘る音が止まって、ラズが戻ってきた。鍋は裏手に埋めたらしい。手に土がついている。
隣に座った。一人分だけ、間をあけて。
「灰目茸の泡の色を、どこで読んだ」
「拾った本です。あなたは、どうして気づいたのですか」
「湯気だ」
「煮込みの湯気で灰目茸がわかる人を、私はほかに知りません。奴隷の子が、どこで覚えたのですか」
「闘技場では、飯に毒を入れる」
「賭けのために、ですか」
「そうだ」
「この前は、闘技場で毒の刃は使わないと言ったら、関係ないとおっしゃいました」
「お前は、なんでも覚えている」
「本を読むくらいしか、することがなかったので」
ラズが、膝の上で両手を組んだ。私も毛布を引き寄せた。互いにまだ相手を見ていない。
「お前は鍋の匂いをかぐ前に、もう息を止めていた」
「あなたは、毎日全部の鍋を味見しています。ティモさんは食い意地だと言っていましたが、三年間です」
「それがどうした」
「串を食べるとき、鼻の下を通します」
「お前は、知らない飲み物の杯を持つと、最初に指の先で底をさわる」
息が止まった。自分でも知らなかった。
しばらく、夜の虫の声だけがしていた。
「一つ聞いてもいいですか。答えたくなければ、いいです」
「言ってみろ」
「毒で死にかけたことはありますか」
ラズは答えなかった。階段の下の暗がりを見ていた。もう何も言わないのだろうと思ったとき、低い声がした。
「ある」
「いつですか」
「ガキのころだ。次は俺の番だ。お前は」
「あります」
「いつだ」
「子どものころです」
「誰にやられた」
「それは、三つ目の質問です」
「そうだな」
ラズの口の端が、また動いた。今度は暗い中でもわかった。
「今夜は一つずつだ」
「はい。次にまた、誰かが鍋に毒を入れたときに」
「あまり間をあけるなと、ボリスに頼んでおく」
ラズが立ち上がり、私の頭の上に、畳んだ布を落とした。手巾だった。洗ってあって、薄く石けんの匂いがする。月鈴草の刺繍の、ほつれていた一か所が、不器用な糸で留めてある。
「これは、あなたが」
「知らん」
言い捨てて、ラズは扉の中へ消えた。
私は手巾を握ったまま、階段に座っていた。毒の話をしていただけだ。それなのに、頬の紅が今夜はいらないくらい熱い。
扉がまた開いたのは、そのときだった。
カーヤが立っていた。いつものとげのある顔ではない。手に、灰色の封筒を持っている。
「あんた、本を読むんでしょ」
「ええ」
「さっき、小麦の荷と一緒に届いてたの。医療局の封筒。字は読めるけど、意味がわかんない」
カーヤは封筒を、私の胸に押しつけた。その手が小さく震えていた。
「『提供済み』って、なに」




