第16話 「傷」
「手が遅い。今、三度死んだ」
「申し訳ありません。昨日の旗は、見ていてくださいましたか」
「柵の外から見た。旗を取ったのはお前で、俺じゃない」
「それは褒めているのですか」
「事実を言っている。もう一度だ」
「ティモさんが、今夜は祝いに死にかけ自慢を二回やると言っていました」
「二回死にかけるつもりか」
「一回目は今朝、もう終わりました。あなたのおかげです」
「なら、二回目のために息を整えろ」
日の出の一刻前の井戸の裏は、息が白くなりはじめていた。
今朝の訓練は、短い木の棒で相手の手首を払う型だ。私が振る棒を、ラズは片手で弾いていく。力は入れていないのに、私の腕はしびれて、棒が三度飛んだ。
「腕だけで振るな」
ラズが後ろへ回って、私の手首をつかんだ。もう片方の手が、肩に置かれる。背中のすぐ後ろに、大きな体があった。
「手首を返せ。こうだ」
低い声が、耳のすぐ上から降ってきた。息が首筋にかかる。炎茸と、木の煙の匂いがした。
棒の握り方が、わからなくなった。
集中しなさい、アマリア。見とれている場合ではないでしょう。これは、命を守るための訓練よ。
「聞いているのか」
「聞いています。肘です」
「手首だ」
「手首です」
ラズの手が離れた。背中が、急に寒くなった。私は棒を握り直して、奥歯をかみしめた。
四度目に、棒の先がたまたまラズの手の甲をかすめた。ささくれが皮を裂いて、血が一筋出た。
「あ」
「当たったな」
「当たりました。ひと月半で初めてです。お祝いをしましょう」
「そのくらいで喜ぶな」
ラズが手を振って血を飛ばした。私は懐から手巾を出した。放っておくと、棒の汚れが傷に入る。ラズの手を取って血を拭くと、東の空が白みはじめて、ようやくラズの顔が見えた。
朝の光が、横から左頬に当たっていた。
この傷を、私はもう何度も見ている。夜の地下でも、昼の校庭でも見た。けれど今のように、低い光の中で、手の届く距離から見たのは初めてだった。
「動かないでください」
「手は拭けただろう」
「手ではありません」
私はラズのあごに指を伸ばした。ラズの目が細くなり、けれど避けなかった。
頬からあごへ走る古い傷だ。刃物の傷は、治れば白くなる。私の脇腹も、背中を縫ったラズの古傷も、みんな白い。
この傷の縁だけが、薄く紫がかっていた。
「その傷、闘技場のものではないでしょう」
「闘技場のものだ」
「いつの傷ですか」
「知らん。十年は経つ」
「十年経って、縁の色が抜けない傷を、私は本で一度だけ読みました。刃に毒を塗っていた傷です。毒が皮の下に残って、冬になると痛みます」
ラズの動きが止まった。
「闘技場で、毒の刃を使うのですか。客が怒るでしょう。賭けにならないですから」
「お前には関係ない」
「痛むのは、どちらの側ですか」
「黙れ」
「あごのほうですね。今、奥歯をかみしめましたから」
琥珀色の目が、まっすぐ私を見た。
札を結んでから、ひと月半になる。この人はいつも私を見ていた。足の運びを見て、息を見て、倒れそうな肩を見ていた。護衛としてそうしていただけだ。
今は、私の目を見ている。何が映っているのかを、確かめるような見方だった。
「どうしてわかる」
「私の脇腹も、冬に痛みますので」
「なぜ痛む」
「子どものころに手術をしました。傷んだところを切ったそうです。雪の日は、朝から寝返りが打てません」
「古い傷か」
「はい。あなたの傷と、同じくらいでしょうか」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
私は手に持ったままの手巾に目を落とした。血のついたところを内側に折ろうとした。
ラズの指が、それを止めた。
大きな手が、私の手巾の端をつまんでいた。そこには小さな花の刺繍がある。薄い紫の糸で、鈴の形の花を三つ。
「この花は」
「月鈴草です。母が刺したものです」
ロザーン領の男爵夫人が刺したことになっている。本当に刺したのは、私を産んだ側妃だ。もう一枚しか残っていない。
「珍しい花ではないですよ。帝国の女の子が、針を持つと最初に習う花です。都の女も、田舎の女も、みんな同じものを刺します」
「そうか」
「どうかしましたか」
「いや」
ラズは手を離した。その手が、自分の頬へ上がっていった。指先が、傷の上を一度だけなぞる。
「よこせ」
「え」
「血がついた。洗って返す」
「自分で洗えます」
「お前の手で洗うと、井戸に落ちて死ぬ」
手巾が私の指から抜き取られた。ラズはそれを、軍服の内側へしまいこんだ。
「今日はここまでだ。二の鐘に遅れるな」
まだ型の半分も終わっていないのに、ラズは軍刀を担いで歩き出した。私は棒を持ったまま、その背中を見送った。
奴隷の子が、貧乏男爵の娘の手巾を洗って返すと言っている。ティモが聞いたら、三日は床を転がるだろう。
「ねえ、ピピン。今の、どう思う」
《尻》
「起きなさい」
そのとき、頭の上で、木の枝が大きくしなった。
見上げても、葉しか見えなかった。夜の名残りの濃い枝の奥に、金色の目が二つだけ、光っている。足はもう治ったらしい。
《小さな人間》
「ザラ」
周りに誰もいないことを確かめて、私は小さく答えた。
《余計なことを言う口だ。あの傷の話を、あいつの前で口にした人間はいない》
「ごめんなさい。怒らせてしまったかしら」
《怒ってはいない。あいつは怒ると、ただ人の骨を折る》
低い声が、枝の間から落ちてきた。
《傷に触ったのを見たか》
「ええ」
《あの男が傷に触るのは、心が揺れたときだけだ。本人は気づいていない。十年のつきあいで、私が見たのは数えるほどだ》
「それは、いつだったの」
答えは、すぐには返ってこなかった。翼を広げる、大きな音がした。
《この秋に、二度》
枝が跳ね返り、葉が雨のように降ってきた。森でノルンのことを聞いたときが一度だ。
もう一度は、たった今である。
私は手のひらを見た。ひと月半で、まめは五つになっていた。




