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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第15話 「旗取り」

「ロザーン寮の順位は、去年も一昨年もその前も、二十位だ」


 グンナルが食堂の机に地図を広げて、胸を張った。


「いつからですか」


「俺が入る前からだ。優勝すれば、冬の薪《まき》と小麦が寮に山ほど来る。うちは一度も見たことがない」


 旗取りは、秋に一度だけ開かれる寮どうしの戦いだ。二十の寮がそれぞれ丘や川辺に陣を張り、丸一日かけて旗を奪い合う。寮生の半数と、飼育場からくじで借りた騎獣《きじゅう》が出る。誰が死んでも、校則は一つである。紋持ちはどの寮にも入れてもらえないので、ラズは出られない。


「札の護衛もなしだ。ダフネ、お前は寮で留守番してろ」


「先輩。ガルムント寮が陣を張る丘の裏に、川がありますね」


「ああ。冷たいぞ。夏でも騎獣が嫌がる」


「兵站の授業で聞きました。騎獣は冷たい水を渡らせると腹を下します。ガルムントが攻めに出たあとの丘は、その川の側だけ手薄になるはずです」


 グンナルはあごをかいた。


「で、誰が川を渡る」


「私が渡ります。一番軽いので」


 食堂がしんとして、それから全員が笑った。私は笑わなかった。


 その晩、私は飼育場へ行った。


「旗取りの日、あなたたちはくじで全部の寮へ貸し出されるのよね」


《そうだ。腹を蹴られて、一日走らされる》


 老いた鱗馬《うろこうま》が、鼻を鳴らした。大学の騎獣は、飼育場を全部合わせて二百頭ほどいる。どの寮のものでもなく、噂は柵から柵へ一晩で回る。


「一つ、お願いがあるの。ガルムントの人を乗せた子たちに、伝えてほしいの」


《なんと》


「川の手前で、お腹が痛くなってくださいって」


 老いた鱗馬の歯が、にゅっとむき出しになった。


《全員でか》


「全員で」


《尻は噛んでいいか》


「それは、当日の気分に任せるわ」


《お前、やっぱり気に入った》


 旗取りの朝は、薄い霧が出ていた。


 丘の上で、ボリスがボルグの背から戦場じゅうに叫んだ。


「ガルムントの諸君! 今日は日暮れまでに、旗を全部持ってこい! 豚小屋の旗は最後でいい。使い道がないからな!」


 ボルグの左の翼の付け根に、新しい布が巻いてあった。森で遅れて以来、ボリスは医者を呼んだらしい。翼の傷で戦に負けては困るからだ。金具は、まだ刺さったままだった。鞍《くら》を作り直すには、金がかかる。


 金色の目が、一度だけこちらを見た。


《腐った肉は切った。お前の言ったとおりだ》


 角笛が鳴った。


 昼までに、九つの寮の旗が丘の上に集まった。ガルムント寮は三百人のうち百五十人が出ていて、鱗馬の騎兵が草原を駆け回る。ロザーン寮は四十人だ。グンナルたちは最初から陣を捨てて、林の中を逃げ回っていた。


 私は老いた鱗馬の背に、軍服の帯で体を縛りつけられていた。


《おい人間、落ちるなよ》


「落ちたら拾って」


《おれ様が拾ってやる! どこを噛めばいい!》


 首もとの毛の中で、ピピンが騒いでいる。私たちは川の下流を、音を立てずに進んだ。


 夕方近く、ガルムントの騎兵が総がかりで次の寮を攻めるために丘を下りた。八十騎が、丘の裏の川へ差しかかる。近道なのだ。


「渡れ! 何をしている、渡れ!」


 先頭の鱗馬が、川の手前で足を止めた。首を垂れ、ぶるぶると震えはじめる。


《痛い。ああ、腹が痛い》


《おれもだ。急に来た》


《今日はもうだめだ》


「おい、どうした! 進め、この駄馬!」


 鞭《むち》が鳴った。その瞬間、八十頭がいっせいにしゃがみこんだ。


 騎手たちが前へつんのめる。あちこちで水しぶきが上がった。川に落ちた者が悲鳴を上げ、岸に残った者は鞭をふるい、鱗馬たちは地面に腹をつけて、ひどく悲しそうな顔をしている。


「ひぃっ! 尻を! また尻を!」


 聞き覚えのある甲高い声がした。


《今日の気分だ》


 老いた鱗馬が上流を見て、満足そうに言った。


 私はその間に川を渡り終えていた。水は腰まであった。歯が鳴って止まらないが、丘の裏の斜面には見張りが二人しかいない。二人とも下の騒ぎを見に行っている。


 旗は、丘の上の杭《くい》に九本まとめて立っていた。一番高いところに、ガルムントの赤い猛禽《もうきん》の旗がある。


 鱗馬が杭のそばまで駆け上がり、私は手を伸ばした。一番上の旗に、指が届いた。


 頭の上で、大きな影が広がった。


「死にぞこないか!」


 ボルグが急降下してくる。ボリスの手に長い槍がある。私は旗を抱えたまま、鱗馬の首にしがみついた。


 逃げられない。そう思ったとき、低い声がした。


《小さいの。借りを、少しだけ返す》


 ボルグの翼が、いっぱいに開いた。


《主は、全力で降りろと言った。だから、全力で降りる》


 見たこともない速さだった。大きな体が丘の上へ落ちてくる。ボリスの槍が私の頭の上で空を切り、ボルグは杭の手前で、地面すれすれに翼を打って止まった。


 ボルグは止まった。背中の上の人は、止まらなかった。


 第三皇子は鞍から前へ投げ出され、丘の裏の斜面を転がり落ちていった。


 斜面の下は、騎獣たちが朝からさんざん踏み荒らし、今はしゃがみこんでいる川べりである。ぬかるみに、頭から突っこむ音がした。


 そのとき、終わりの角笛が鳴った。


 丘のふもとに、全校の見物人が集まっていた。審判台の学長の前へ、私は老いた鱗馬に乗ったまま運ばれていった。帯をほどいてもらわないと降りられない。両手に、赤い猛禽の旗を持っている。


「ロザーン寮、ガルムントの旗を取りました」


 審判の教官が口を開けた。


「ガルムントの旗を奪った寮が、その持ち旗すべてを得る。よって、ロザーン寮、十旗。優勝」


 一拍おいて、地面が揺れるような歓声が上がった。


「うおおおお! 小麦だ! 薪だ! おいダフネ、お前は今日から神だ!」


 グンナルが駆け寄って、鱗馬ごと私を持ち上げようとした。


 人垣の外れの柵の向こうに、赤い髪が立っていた。紋持ちは旗取りに出られないので、外から見ていたのだろう。目が合うと、ラズはすぐに背を向けた。


 ボルグが川べりから重そうに飛んできて、泥のかたまりを審判台の前に落とした。泥のかたまりが立ち上がり、大きなあごから泥水を垂らした。


 丘のふもとが静かになった。誰かが吹き出した。それが新入生の列へ、上級生の列へ広がっていく。


「豚小屋の旗は、使い道がなかったのでは」


 誰かの声がした。大きな笑いになった。


 ボリスは笑わなかった。泥の中の目が、私を見つけて動かなくなった。私は目をそらさず、ずぶ濡れのまま頭を下げた。


 笑い声の中を、甘い匂いが近づいてきた。


「ねえ、聞いて」


 ヴィヴィアンが、鱗馬の首をなでながら私を見上げていた。蜂蜜《はちみつ》色の髪に、夕日が当たっている。


「すごかったわ。わたし、ずっと丘の下で見てたの。おもしろいわね。ガルムントの鱗馬だけが、みんな同じ場所でお腹を壊すなんて」


「冷たい川の手前ですから」


「そうね。それでね、あなたのこの鱗馬、手綱《たづな》を引いてないのに、あなたが顔を向けるほうへ曲がるのね」


 蜜星《みつぼし》が一つ、私の口の前に差し出された。


「不思議ね。ごめんね、変なこと言って」


 星はやっぱり、ヴィヴィアンの口の中へ消えていった。

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