第14話 「第四王子」
「おい、見ろよ。輿だ。校内で輿だ」
「第四皇女殿下と第五皇女殿下だ。今朝は髪に真珠を入れてるぞ」
森から半月が過ぎた朝、校門の前は人であふれていた。
皇帝の娘は七人いる。上の三人は嫁いだ。第六皇女は去年、この大学で埋葬された。第七皇女は行方不明ということになっていて、今は大食堂の隅で灰麦の粥を冷ましている。
だから門の前に並んでいる皇女は、第四皇女タチアナと第五皇女ヘルミーネの二人だけだ。どちらも札の護衛に輿を担がせ、軍服の襟に宝石を縫いつけている。特別扱いはないはずだが、自分で買う分には誰も止めない。
「リュミエール王国第四王子、リシャール殿下のご到着!」
石段を上ってきたのは、馬車でも竜でもなかった。金色の髪の青年が、自分の足で、ずいぶん息を切らして歩いてくる。手に持っている地図は上下が逆だ。
「皆様、お出迎えありがとうございます。二百段あるとは、書いてありませんでした」
皇女たちが同時に前へ出た。タチアナが扇を開き、ヘルミーネがタチアナの足を踏んだ。
「殿下、お疲れでしょう。私の輿へ」
「いいえ、私の輿のほうが広うございます」
「お二人とも、ご親切に。ですが、歩かないと道を覚えられませんので」
リシャールは穏やかに笑って頭を下げた。
ヴィヴィアンが教えてくれた話は、こうだ。リュミエールと帝国の同盟を固めるため、第四王子は帝国の皇女の誰かと結婚する。大学に入るのは、その相手を選ぶためである。
「ねえ、聞いて。うちの兄、とってもいい人なの。ただ、三回に一回は迷子になるの」
「残りの二回は」
「迷子になる途中」
これで継承戦の形が変わる。王子と結婚した皇女の後ろ盾に、リュミエールの兵糧と金がつくからだ。ボリスと同腹のタチアナにつけばボリスが、第一皇子と同腹のヘルミーネにつけば第一皇子が勝つ。
関係のない話である。私はロザーン領の貧乏男爵の娘で、札の護衛は奴隷の子で、毛玉を一匹飼っている。
《おい人間、肉》
「お昼まで待ちなさい」
《おれ様は今、腹が減ってるんだ。明日のおれ様の話じゃない》
夕方、私は飼育場で桶を運んでいた。旗取りが近いので、ロザーン寮の新入生は騎獣の世話に回されている。桶を二歩運び、下ろして息をつく。あと三十歩ある。
「重そうですね。お持ちしましょう」
後ろから手が伸びて、桶が浮いた。
金色の髪の青年が、軍服の袖を濡らして立っていた。王子の軍服には、金の飾りが一つもついていない。
「殿下。なぜこのようなところに」
「食堂を探していました。こちらで合っていますか」
「ここは飼育場です。食堂は、丘の反対側です」
「やはり。さきほど親切な煙鳥に頭をつつかれたので、そうではないかと思っていました」
《あいつ、つついたんじゃない。糞を落としただけだ》
鱗馬の柵の上で、ピピンがげらげら笑った。リシャールの肩に、確かに白いものがついている。
「殿下、肩に汚れが」
「ああ、これはありがとうございます。あなたは、ロザーン寮のダフネさんですね」
桶を持ったまま、リシャールはにこにこと言った。息が一瞬止まった。
「私をご存じなのですか」
「妹がよく話します。毒の瓶を三つ当てた方だと。本がお好きだと聞きました」
「領地のために、少し勉強しただけです」
「私もです。第七皇女殿下も、後宮でずいぶん本を読まれたそうですね。ぜひお話ししてみたいのですが、まだお目にかかれません。学長にうかがっても教えてくださらないのです」
笑顔は、少しも変わらなかった。
指先が冷えた。この人は、何の話をしているのだろう。三十歩の間、リシャールは桶を運びながら、灰麦の値段を聞き、飼育場の匂いを褒め、最後に私の顔を見て、心配そうに眉を下げた。
「お顔の色がよくありません。お薬は、何を飲んでいらっしゃるのですか」
「実家から持たされた、ただの滋養の薬です」
「それはいけない。リュミエールには良い医師がおります。一度、診させましょう」
「ご親切に。ですが、それには及びません」
なぜ、この人は貧乏男爵の娘にこれほど親切なのか。皇女が二人、輿を担がせて待っているのに。
「ダフネ様、お薬の時間です」
ネリネが柵の向こうから歩いてきた。王子を見て、深々と頭を下げる。リシャールは柔らかくうなずき、ネリネの手の小瓶に目を留めた。
「毎日、飲まれるのですか」
「はい。お体が弱いので、朝と晩に欠かさず」
ネリネが答えて、ほほえんだ。私は小瓶を受け取り、栓を抜いた。
《うえっ》
肩の上で、ピピンが飛び上がった。
《またその匂いだ! おい、やめろ。こっちへ近づけるな》
「薬はこういうものよ」
《何度でも言うぞ。お前の薬、くさい。すごくくさい。甘ったるくてくさい》
「文句はあとで聞くわ」
私は人に聞こえないように唇だけを動かして、一息に飲みほした。いつもの苦さが喉を落ちていく。ピピンは毛を逆立てて、背中のほうへ転がっていった。
「魔獣が、何か申しましたか」
リシャールが首をかしげた。ピピンの言葉を訳すことは、もう周りに言ってある。契約した魔獣の声が聞こえるのは、当たり前のことだ。
「腹が減った、と」
「それはいけない」
リシャールは桶を水場に下ろし、軍服のポケットから固焼きの菓子を取り出して、ピピンへ差し出した。ピピンは私の背中からすっ飛んできて、三口で食べた。
《なんだこいつ! いい奴だな! おれ様の二番目の人間にしてやる!》
「では、私はこれで。食堂を探さなくては」
リシャールは私に向き直った。
そして右手を胸に当て、左足を引いて、深く頭を下げた。
息が止まった。
後宮で、一度だけ見たことがある。他国の使者が、皇帝の血を引く者にだけする礼だ。男爵の娘にする者はいない。
「殿下。今の礼は」
リシャールが顔を上げた。青い目が、まっすぐ私を見ている。
「おや、間違えましたか。来る前に礼の本を読んだのですが、種類が多くて困っています」
「皇族の方になさる礼です」
「それは失礼を。次から気をつけます」
リシャールはにこにこと笑って、もう一度、今度は軽く頭を下げた。それから丘と反対の方向へ、迷いのない足取りで歩いていった。
私は濡れた手を握った。
間違えた人の顔には、見えなかった。間違えていない人の顔にも、見えなかった。




