閑話・ピピン 「おれ様の人間」
おれ様はピピン。えらい。
どのくらいえらいかというと、ものすごくえらい。あの森の連中は、おれ様の姿を見ると、熊も狼も大きな鳥も、みんな腹を見せるか、一目散に逃げる。おれ様はまだ手のひらに乗る大きさだが、それがどうした。本気を出したらすごいんだ。出し方を忘れただけだ。
おれ様は毎年、森へ来る人間どもを見物している。
人間はうるさい。走る。叫ぶ。互いに刺す。おれたちが何を言っても聞こえないので、おれ様は木の上から悪口を言うことにしている。《おいそこの太いの、靴が左右逆だぞ》とか《おいお前、後ろにいるぞ、刺されるぞ、あ、刺された》とかだ。一度も返事をされたことがない。
だから、あの沢であの娘を見たときは、びっくりした。
青白くて、棒みたいで、死にかけの人間だ。そいつが、土熊に向かって「走りなさい」と言った。
言ったんだ。土熊に。
それで土熊が走った。
おれ様はびっくりして、枝から落ちそうになった。
それから、ずっとつけていった。別におもしろかったからではない。えらいおれ様には見回りの仕事がある。
あの鞭の鳥も、言うことを聞いた。遅れるなあ、なんて言いやがって。あいつはおれ様がどれだけ悪口を言っても、知らん顔だったのに。
これは拾わせてやらなくてはならない。
おれ様は木の上から、娘の頭をよく狙って飛び下りた。なかなかいい着地だった。
で、今はこの豚小屋にいる。
思っていたのと違う。
《おい人間。飯はまだか》
「さっきあげたでしょう」
《あんな灰色の粒は飯じゃない。肉をよこせ》
「私も今朝は肉を食べていないのよ。がまんして」
《串があるだろ! 寝台の上に二本も! もったいないぞ!》
「あれはだめ」
《もう冷めてるぞ! カチカチだぞ!》
「だめ」
この人間は、頑固だ。
誰も寝ていない寝台に、串を置いたまま、窓の外ばかり見ている。おれ様が膝の上で《腹減った腹減った腹減った》と言ってやっても、片手で毛をなでるだけで、ちっとも聞いていない。なでるのは上手いので、許してやる。
赤毛の男が戸口まで来て、「食ったか」とだけ聞いて帰っていった。あいつも変だ。おれ様を見ても腹を見せない。今度尻を噛んでやる。
夜になった。
人間は寝るものなのに、こいつは寝ない。目を開けて天井を見ている。親指の噛み跡を、ときどき、もう片方の指でなぞっている。
顔は別に泣いていない。泣いている人間なら、おれ様は木の上からたくさん見てきたから、知っている。こいつのは、そういう顔じゃない。泣くところまで行けない奴の顔だ。
胸のところに、糸が通っている。おれ様とこいつの糸だ。契約というのはこういうものらしい。おれ様も初めてやったので知らなかったが、噛むと、相手の中の、なんだか冷たくて重いものが、少しだけこっちへ流れてくる。
これは、よくない。食欲が落ちる。
《おい》
「なに」
《そこの枕、おれ様が使ってやる。ありがたく思え》
「好きにして」
おれ様は枕の上へ跳ねて、娘の首のところへ転がった。こいつの首は細くて冷たい。やせすぎだ。こんなんじゃ、噛みごたえがない。
しばらくそうしていると、娘の息が、少しだけ長くなった。
《寝たか》
返事はない。
おれ様は安心して、鼻をひくひくさせた。
ん。
なんだ、この匂いは。娘の口から、ほんの少しだけ漏れてくる。薬かなにかだ。今朝あの優しそうなメイドが持ってきたやつだ。
くさい。
くさいが、おれ様はこの匂いを、どこかでかいだことがある気がする。ずっと前だ。暗くて、狭くて、誰かが泣いていて。
どこだったかな。
まあいいや。
おれ様はえらいので、細かいことは忘れることにしている。明日こそ肉を食う。あの串も、いつか絶対に食ってやる。
朝になったら、こいつにも言ってやろう。
お前の薬、くさいぞって。




