第13話 「ピピン」
倒木の下から引きずり出されて、私は地面へ投げ出された。
ボリスは一人だった。番人長が持ち場を離れているのだから、見ている者は誰もいない。後ろにはボルグが羽を畳んで立っている。ボルグの胸には、鞭の跡が何本も走っていた。
「札の奴隷は北の沼だ。今ごろ、俺の手下と遊んでいるだろう。安心しろ、すぐには殺さん」
ボリスは腰の剣を抜いて、切っ先で私の手を持ち上げた。
「その手に持っているものはなんだ」
「紅です」
「紅? ああ、貧乏人の見栄か」
切っ先が、私の指をつついた。
「見せろ」
私は手を開かなかった。手のひらを見られたくなかった。ひと月、井戸の裏で転がって、できたまめはまだ二つだ。ボリスはつまらなそうに鼻を鳴らし、私の腹を蹴った。息が全部出ていった。脇腹の古傷が、焼けるように痛んだ。
「どうせ死ぬ。その前に一つ聞いてやる。お前は本当にただの男爵の娘か?」
「はい、殿下」
「杯の試験で、ゲルトの帳面に丸がついた。毒学では瓶を当てた。兵站の教官は、お前の計算を褒めていた。ずいぶん物知りだ。それが、俺にはどうも気に入らん」
「領地のために勉強しました。貧乏な家には、勉強するほかに道がありませんので」
「どうでもいいか。皇女でも男爵の娘でも、死ねば同じだ。首だけ持って帰って、ゲルトに見せてやる」
剣が持ち上がった。
私は地面に頬をつけたまま、ボルグを見ていた。
《早く終わらせろ、馬鹿が》
低く、疲れた声だった。
《左の翼の付け根が腐っている。鞍の金具が刺さったままだ。三月前からだ。何度言っても、こいつには聞こえているのに聞かない》
聞こえているのに、聞かない。
「ボルグ」
私はかすれた声で、息に混ぜて言った。ボリスの耳には、ただのうめき声にしか聞こえなかっただろう。
「鞍の左の金具を取れば、その翼は治るわ。腐った肉を切って、銀葉草を詰めれば、半月で痛まずに飛べるようになる」
ボルグの首が、こちらを向いた。
《お前、今、何と言った》
「主人は、それを聞いているのに放っているのよね」
《小さな人間。なぜ、お前に聞こえる》
「今は、そんなことどうでもいいでしょう。あなたの主人は、今、背中を向けている。あなたが動かなくても、誰にもわからないわ。もし呼ばれても、ゆっくり動いて。それだけでいい」
《契約した者に逆らえば、魂が痛む》
「逆らわなくていいのよ。翼が痛くて、遅れるだけ」
ボルグは答えず、金色の目を閉じた。
「何をぶつぶつ言っている。祈りか」
ボリスは笑って、剣を振りかぶった。
背中に、風が当たった。
上から、黒いものが降ってきたように見えた。金属がぶつかる音がして、ボリスの体が三歩、後ろへ飛びのいた。
ボリスの剣を受け止めていたのは、刃の欠けた古い軍刀だった。
赤い髪が、汗で額に貼りついていた。上着は破れ、腕から血が流れている。北の沼から、半日の道だ。その息が、初めて荒れていた。
「遅くなった」
来ると言った人が、本当に来た。体の強ばりが、先にほどけた。
「奴隷!」
ボリスの顔から、笑いが消えた。
「沼の連中はどうした! 二十人つけたぞ!」
「知らん」
ラズは私の前へ足を踏み出した。私の顔を見て、私の手を見た。血まみれの手だ。私の血ではない。
「ノルンは」
首を横に振った。
ラズの顔は、変わらなかった。ただ、頬の傷に、指が一度だけ触れた。
それから、ラズは構えた。
私は剣の型など知らない。だが、この人の戦い方は、ひと月見てきた。素手で人の骨を折る、闘技場の殴り合いだ。
今の構えは違った。
背筋が立ち、切っ先が低く、静かに沈んでいる。肩から指の先まで、一本の線が通っていた。
ボリスが踏みこんだ。第三皇子の剣は、口先だけのものではない。重く速い一撃が、続けざまに三つ、ラズの首へ走った。
ラズは半歩も下がらなかった。
一つ目を流し、二つ目を受け、三つ目のときには、軍刀がボリスの剣の根もとに巻きついていた。澄んだ音がして、皇子の剣が半分から先、夕焼けの中へ飛んでいった。
「な」
ボリスの目が丸くなった。次の瞬間、軍刀の先が、大きなあごの下に当てられていた。
血が一筋、喉へ流れた。
森が、静まり返った。
「ボルグ!」
ボリスの声が裏返った。
「ボルグ、来い! こいつを殺せ!」
ボルグは、のろのろと首を上げた。
《翼が痛い》
私にしか聞こえない声で、ボルグは言った。
《翼が痛くて、遅れるなあ》
一歩。また一歩。ボリスが悲鳴のように名前を呼んでいる。ボルグは歩いてくる。
ラズの手首に、力が入るのが見えた。その腕が、一瞬止まった。
ここでこの男を殺せば、どうなるか。私にもわかった。皇子を殺した奴隷が一人出る。そうなれば、地下の十五人が、明日の朝には全員殺される。
頬の傷の上で、ラズのあごに力が入った。
軍刀の先が、引かれた。
「失せろ」
ボリスは腰を抜かしたように一歩下がり、喉に手を当てて、手のひらの血を見た。その顔に、初めて見るものが浮かんだ。
怖がっていた。それから、それを私に見られたことに気づいた。
「今の剣はなんだ、奴隷」
低い声だった。
「闘技場の剣ではないな。どこで習った」
ラズは答えなかった。ボルグがようやくたどり着き、ボリスはその背へよじ登った。ボリスが手綱を引き、鞭で胸を打つ。ボルグの羽ばたきは、確かに少し、重かった。
「覚えておけ。今日のことは、お前たち二人の首で払わせてやる! 森を出てみろ! 日が暮れたら、その女は歩兵だぞ!」
その声が、枝の向こうへ消えていった。
勝ったわけではなかった。ノルンは戻らない。第三皇子に血を流させた奴隷は、これからもっとひどく狙われる。
ラズが軍刀を地面に突き立てて、片膝をついた。
「立てるか」
「いいえ」
「だろうな」
そのとき、頭の上に、何かが落ちてきた。
ぽすん、と軽い音がした。
《おい。おいおいおい》
甲高い声が、頭のてっぺんで騒いでいる。
《今の見たか、すげえな! あの鳥、お前の言うこと聞いたぞ! お前、なんで聞こえるんだ! おれ様の声も聞こえてんだろ、おい、返事しろ!》
頭へ手をやると、指先に柔らかいものが触れた。つまんで下ろす。
手のひらに乗るほどの、白い毛玉だった。
毛のかたまりに、黒い目が二つと、小さな口が一つついている。足らしいものは見当たらない。
「何、それは」
「知らん」
ラズが眉を寄せた。
毛玉は私の手のひらでぴょんと跳ねて、胸を張ったらしかった。どこが胸かはわからない。
《おれ様を拾うとは、見る目があるな! 名前はピピン。この森で一番えらい!》
「あなたが、一番?」
《疑ってんのか! 見ろ! おれ様が来ると、みんな逃げるだろ!》
言われてみれば、森はまだ静まり返っていた。ボルグがいなくなったのに、さっきの鳥たちも、藪の獣たちも、声ひとつ立てない。
日は木々の下まで落ちている。門が閉まるまで、もう間もない。歩兵だと、ボリスは笑っていた。
「あなた、私を噛める?」
《噛んでほしいのか! 変な奴だな! いいぞ!》
小さな歯が、親指の腹に食いついた。
蚊に刺されたほどの痛みだった。けれど噛まれた跡が、一瞬白く光った。胸の奥に、細くて熱い糸が一本、通された気がした。
《よし! これでお前はおれ様の人間だ! 腹が減ったぞ!》
私は親指の小さな跡を見てから、顔を上げた。ラズが、なんとも言えない顔で毛玉を見ていた。
「それが、お前の魔獣か」
「はい」
「役に立つのか」
《なんだと赤毛! 尻を噛むぞ!》
「尻を噛むそうです」
ラズは片手で顔を覆って、長い息を吐いた。
それから沢へ戻った。あたりはもう暗かった。ラズは何も言わずにノルンを背負い、もう片方の手で、私の体を引きずるようにして門まで歩いた。門を出たところで、受付の上級生が帳面を開いて言った。
「遺体の送り先は」
「名簿にあるはずです。ノルン。農家の娘です」
上級生は顔も上げずに帳面をめくり、名前の横に線を一本引いた。
「家の屋根が、雨もりをしているそうです。妹さんの結婚式が近いことも、書き添えてください」
「書く欄がありません」
「そうですか」
その日、森に入った新入生は百四人だった。命を落としたのは八人。魔獣と契約して門を出たのは、私を入れて二十一人である。帳面の線は、ノルンで八本目だった。
次の朝、私は最後の銅貨で、屋台の角兎の串を四本買った。寮の空いた寝台の上に、二本置く。もう二本を、自分の膝に置いた。
《それ、おれ様のか!》
「だめよ」
《食わないなら、おれ様が食う!》
「これは約束なの」
懐には、ボリスの銅貨が一枚だけ残っている。小さな貝殻の紅は、まだ半分あった。
私はそれを、頬に少しだけ塗った。
青白いと、殺されるから。




