第12話 「契約の森」
「ねえ、これ、塗りすぎじゃない?」
「あなたが塗ったのよ」
「そっか。じゃあ大丈夫だ」
南の谷の入り口に、新入生が百人ほど集められていた。四百人の新入生を、四日に分けて森に入れるのだという。朝霧が低く流れ、その奥に、見上げても先の見えない木々が並んでいる。これが契約の森だ。
森の決まりは簡単だった。入れるのは在学中に一度きり。日が沈めば門は閉まる。その前に魔獣と契約して出てくれば、騎手になれる。契約できなかった者は、卒業後に歩兵として前線へ行く。
魔獣が人を選ぶと、その人を噛む。噛まれた跡が、契約の印だ。
「新入生の諸君、武器の使用は自由だ。魔獣を巡って争うのも自由だ。校則は一つ!」
ピエトロの甲高い声が、霧の向こうへ消えていった。ボルグの羽ばたきが、頭の上を北へ流れていく。
門が開いた。
最初は、誰もが走った。私はもちろん走らない。ラズに言われた通り、道を外れ、斜面の端の倒木の陰へ回りこむ。ノルンが棒を担いで隣を歩いていた。
「先に行っていいのよ。あなたは走れるでしょう」
「いいの。あたし、魔獣には走って追いかけないほうがいいと思う。牛でも鶏でもそうだよ。追うと逃げるんだよね」
「魔獣も牛と同じなの?」
「腹が減ってれば、だいたい同じ!」
森の中は、声だらけだった。
《見ろ、また来た》
《今年はやせてるな》
《あの大きいのはやめておけ、匂いが悪い》
頭の上で、枝の間で、藪の奥で、魔獣たちがしゃべっている。姿は見えない。私以外には、鳥の声と風の音にしか聞こえないのだろう。私は声の多いほうを避けて進んだ。
遠くで、悲鳴が上がった。金属がぶつかる音がする。すぐ近くで、誰かの怒鳴り声がした。
「俺が先に見つけたんだ!」
「知るか!」
それきり、片方の声が聞こえなくなった。
ノルンはその方向を見て、唇を結び、棒を握り直した。
「ほんとにやるんだね」
「ええ」
「あたし、人は叩けないなあ。猪なら叩けるけど」
昼過ぎ、小さな沢に出た。私が水を飲もうとしてへたりこんでいると、ノルンが背負い袋から灰麦の団子を出して、半分くれた。半分のさらに半分を、自分の足もとへ置く。
「何をしているの」
「誰か出てくるかなと思って」
しばらくして、藪ががさがさと揺れた。
出てきたのは、子牛ほどの大きさの獣だった。ずんぐりした茶色の体に、短い角が二本。丸い鼻をひくひくさせている。土熊だ。力が強く、気が優しく、畑の魔獣と呼ばれている。
《いい匂いがするぞ》
子どものような声だった。
《あの人間から、牛小屋の匂いがする。おれ、あの匂い好きだ》
息が止まった。
「ノルン」
「しっ。動かないで、ダフネ」
ノルンはしゃがんだまま、団子をもう少し前へ押した。土熊がのそのそと近づいて、団子を食べた。丸い鼻が、ノルンの膝にぶつかる。ノルンはゆっくり手を伸ばして、耳の後ろをかいた。
「よしよし。そこ、かゆいよねえ。うちの牛もそこなんだよ」
《そこだ。そこだそこだ。お前、わかってるな!》
土熊は目を細めて、ごろりと腹を見せた。
ノルンが、こちらを振り向いた。
丸い顔が、頬の端まで全部、笑っていた。
「ねえ、ダフネ、見て! この子、あたしのこと」
どん、と音がした。
ノルンの胸から、槍の先が生えていた。
何が起きたのか、わからなかった。ノルンも、わからない顔をしていた。笑ったまま、自分の胸を見下ろしている。
「やった! おい、仕留めたぞ! 土熊だ、早く押さえろ!」
「でかした!」
藪の中から、新入生の男が二人、駆け出してきた。その顔を、私は知っていた。
丘のふもとで、麻袋を引きずっていた二人だ。
槍が引き抜かれた。ノルンの体が、沢の石の上へ横に倒れた。男たちは彼女を見なかった。またいで、土熊の角へ飛びつこうとしている。
「ノルン」
声は、自分のものと思えないほど小さかった。
這った。石で膝が切れた。ノルンの肩をつかむと、まだ温かかった。丸い顔が、私のほうへ少し動いた。
「ダフネ」
「ええ」
「紅、ポケットに」
口の端から血があふれて、それ以上は続かなかった。
「ノルン」
目が、私を見ていなかった。
《どうした》
土熊が言っていた。男たちに角をつかまれながら、丸い鼻をノルンのほうへ伸ばしている。
《どうして寝た? おい、さっきのところ、もう一回かいてくれ。おい》
「こいつ、噛めよ! 俺を噛め、ほら!」
「なんで噛まないんだ! 俺が見つけたんだぞ!」
男の一人が、角を棒で殴りつけた。
私の中の何かが、ひどく静かになった。
「逃げなさい」
私は土熊を見て、はっきりと言った。
「その人間たちは、あなたを選びに来たのではないわ。あなたをかいてくれた人を、今、刺したの。噛まなくていい。走って」
《刺した?》
「走りなさい!」
土熊は、丸い目で私を見た。それからノルンを見た。
短い角が、男の腕を振りほどいた。子牛ほどの体が藪へ突っこんでいく。木の枝の折れる音が、見る間に遠ざかっていった。
「ああ! おい、逃げるぞ!」
「追え!」
一人が走り出しかけて、振り向いた。槍の先から、赤いものがまだ垂れている。
「今、お前、何か言ったか」
「いいえ」
「お前のせいで逃げたんじゃないのか。おい。こいつ、銅貨を噛んだ女だぞ」
もう一人が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
息を吸う。ラズに習った通りに、まず吐いて、それから吸う。手のつき方。起き上がるのに使う筋肉。ノルンのポケットに手を入れると、貝殻の固い手ざわりがあった。
握りしめて、斜面へ転がった。
端だ。目立たない端に、身を寄せる。藪の根もとを、ラズの教えた通りに、音を立てずに這う。指先の感覚は、もうなかった。
「どこだ!」
「ほっとけ! 土熊を追え、日が暮れるぞ!」
足音が遠ざかっていった。
倒木の下に体を押しこんで、私は動けなくなった。貝殻を握った手に、誰かの血がついている。
今朝、この紅を、頬に塗ってもらった。
串は二本ずつの約束だった。
泣かなかった。泣き方は、覚えていない。ただ息だけが、うまく吸えない。
どのくらい、そうしていただろう。木々の間の光が、赤みを帯びはじめていた。
《おい、見ろ。あいつだ》
《逃げろ。あいつが来たぞ》
《でかい鳥だ。鞭の匂いだ》
森の声が、いっせいに遠ざかっていった。さっきまであれほどうるさかったのに、虫までが鳴きやんだ。
頭の上の枝が、大きな風でしなった。
葉が雨のように降ってきた。黄金の羽が一枚、倒木の前に落ちる。金の飾りのついた長靴が、その羽を踏んだ。
「隠れるのがうまくなったな」
楽しそうな声だった。
「だが匂いでわかるそうだ。ボルグは鼻がいい。出てこい、死にぞこない」
倒木の隙間から、大きなあごが見えた。
「言っただろう。森なら事故だ」




