第11話 「森の前夜」
「倒れろ」
「はい」
「もう一度」
「はい」
「遅い。頭を打った。今、お前は三回死んだ」
日の出の一刻前の井戸の裏で、私はひと月のあいだ、倒れる練習をしていた。
ラズの訓練は、剣を持つところから始まらなかった。息の吸い方。倒れるときの手のつき方。起き上がるのに使う筋肉は、どこか。私が一番初めに覚えたのは、走ることでも戦うことでもなく、人の視界から消える歩き方だった。
「お前は戦うな。お前の腕で、誰に勝てる」
「誰にも勝てません」
「わかっているならいい。森で剣を抜いたら終わりだと思え。逃げて、隠れて、目立たない端にいろ」
「あなたは護衛なのに、まるで私の主人のようですね」
ラズは答えなかった。ただ、次の朝から、走る距離が十歩増えた。
おかげで校庭十周は、歩かずに走りきれるようになった。三の鐘にはまだ遅れるが、最初の座学の半ばには席に着ける。ノルンは手を叩いて喜んで、マルガは片目で私を見て「ブレンナー。遺体の送り先を変更するか」と言った。冗談だとわかるまでに、三日かかった。
そして今朝、校庭の掲示板に、布告が出た。
『明日、新入生は契約の森へ入る』
「さて、諸君に朗報だ!」
その昼の大食堂で、ボリスが長机の上に立って、靴のまま叫んだ。粥の中に泥が落ちた。
「知っての通り、森は上級生の騎手が番人を務める。魔物を追い払い、諸君の安全を守るのが役目だ。今年の番人長は、この俺だ!」
取り巻きが拍手をした。ピエトロの尻は治ったらしい。もう座布団を持っていない。
「割り振りを読み上げるぞ。札の護衛が番人を志願してついてくるのは自由だが、配置は俺が決める。おい、奴隷!」
ボリスは一段と声を張った。
「お前は北の沼だ。主の娘は南の谷から入る。まあ、森の端から端だな。半日も走れば着くだろう」
食堂の隅で、ラズが粥をすくっていた手を止めずに言った。
「ご苦労なことだな」
「そう言うな。お前との約束は守っているぞ。お前の仲間には、この校庭では手を出していない」
ボリスは長机から飛び降り、私の席までのしのしと歩いてきた。私の粥に、太い指を突っこむ。指についた粥をなめて、顔をしかめた。
「まずいな。おい、死にぞこない。森の中には校舎も掲示板もない。毎年、百人は帰ってこない。魔物に食われたか、魔獣の取り合いで刺されたか、足を滑らせたか。誰にもわからん」
大きなあごが、耳のそばへ下りてきた。
「森なら事故だ」
生ぬるい息が頬に当たった。ボリスは私の頭を二度、軽く叩いて、大声で笑いながら去っていった。
夕方、ラズが肩に布を巻いて避難所へ戻ってきた。
血がしみている。ティモが悲鳴を上げた。
「先輩! 誰ですか!」
「訓練場の裏で、ガルムントの四人がどうしても俺と話がしたいと言った」
「その四人は」
「話の途中で寝た」
襟をめくると、布の下は肩から背中まで切られていた。浅いが長い。カーヤが薬箱を持ってくる前に、私の手が勝手に動いた。
「私がやります。こういう傷の縫い方は、本で読みました。脱いでください」
「いい。自分でやる」
「お背中は、ご自分では見えません。私にやらせてください」
ラズはしばらく私を見て、舌打ちをして、軍服を脱いだ。
手が止まった。
後宮で私が見た男の体は、医者の細い腕と、肖像画の中の兄たちだけだった。
肩から腕へ、岩を削ったような筋肉がついている。かがり火の前で見たときより、ずっと近い。汗と血の匂いがする。背中には鞭の古傷が何本も重なっていて、その上を今日の新しい傷が走っていた。腰へ向かって、体がぐっと細くなっている。
「どうした」
「いえ」
「縫うんじゃないのか」
「縫います。数えていただけです」
「何を」
「傷の数です」
「手が止まってますよ、ダフネさん」
ティモが後ろからのぞきこんだ。
「あれえ。顔が赤いなあ。先輩、いつも青白い人が赤くなってますよ。珍しいなあ」
「男の人の体なんて、見慣れていないもの」
「わあ、正直!」
かまどの前で、ノルンが大きな声で言った。
カーヤが矢を折りそうな勢いで吹き出した。私は針を火であぶり、なるべく何も見ないように、十二針縫った。ラズは一度も声を上げなかった。最後の結び目を切ると、低い声が肩越しに聞こえた。
「うまいな」
「ありがとうございます」
「初めてで、ここまで手際よく縫えるものじゃない。どこで習った」
「本です」
「本の針で人が縫えるか」
「鶏で練習しました。牙犬にやられた鶏を縫うのです。卵を産まなくなると困りますので」
「鶏は助かったのか」
「三羽死にました」
「俺は四羽目か」
ラズはそれだけ言って、軍服に腕を通した。それから、首にかけた札を指で引っぱった。
「北の沼からは、半日かかる」
「ええ」
「俺が行くまで、目立たず、隠れて生きていろ。合流できれば、助けてやれる。死ぬなよ」
「ありがとうございます。護衛を引き受けてくださって、今も、こうして生き延びる方法を教えてくださって」
「礼はいい。札の分だ」
夜、ロザーン寮の部屋で、ノルンは寝台の上にあぐらをかき、指を折っていた。
「魔獣と契約できたらさあ、まず実家の畑を耕させるでしょ。それから妹の結婚式に乗っていくの。すごくない? 花嫁より目立つけど」
「契約できたら、卒業後は騎手になれるのよ」
「そしたら給金で、屋根を直すでしょ、下の妹を学校にやるでしょ。金貨百枚いらないじゃん! ねえ、あの紅、もう半分しかないんだ。ダフネの顔に塗りすぎた」
「ごめんなさい」
「いいよ、明日の朝の分はある。森で青白いと、一番に狙われるからね」
ノルンは小さな貝殻の紅入れをふって、私に見せて、にかっと笑った。
「ねえ、ダフネ。あとで串おごってくれるって話、覚えてる?」
「校庭を走った日の話でしょう。結局、あなたが私の銅貨で買ったわ」
「あれはお祝いだから別。森から帰ったらね、今度こそ。一人で一本食べる。半分こなしだからね」
私は懐の銅貨を確かめた。ボリスの一枚は使えない。残りは一枚だ。それでも串なら四本は買える。
「わかったわ。帰ったら、二本ずつ」
「やった! 約束ね!」
ノルンは毛布に飛びこんで、次の息から、もういびきをかいていた。
私は窓を少し開けた。冷たい夜風と一緒に、飼育場の匂いが入ってくる。老いた鱗馬が柵から長い顔を出していた。
《おい、人間》
「起きていたの」
《明日、森へ行くのか》
「ええ」
《やめておけ》
いつもの憎まれ口ではなかった。がらがらした声が、低く沈んでいる。
《今年の森は、におうぞ。風向きが変わると、ここまで来る。おれは年寄りだが、あんな匂いは、今まで一度もかいだことがない》
「どんな匂いなの」
《わからん》
老いた鱗馬は、北の暗い山を見て、鼻を鳴らした。
《腐った甘い匂いだ》




