第10話 「奴隷の巣」
「黙って歩け」
「はい」
「息がうるさい」
「すみません。息だけは、止められないのです」
札を結んだ翌日の夕方、ラズは私を連れて、学舎の一番奥へ歩いていた。訓練場を過ぎ、馬糞の積まれた裏手を過ぎると、屋根の半分落ちた石造りの建物がある。百年前まで使われていた旧校舎だ。
後ろから、棒を担いだノルンがついてくる。
「あたしも行っていいんですよね? 札はないけど、ダフネの荷物持ちってことで」
「好きにしろ」
「やったあ。人の肝、あたしにも出ます?」
ラズの足が半歩だけ止まり、何も言わずにまた歩き出した。
崩れた階段の下に、重い木の扉があった。ラズが二度叩くと、中で閂の外れる音がした。隙間から、痩せた手と、そばかすの顔がのぞく。
「合言葉をどうぞ」
「どけ、ティモ」
「正解です。お帰りなさい、先輩! あっ、銅貨四枚の人だ! ようこそ、奴隷の巣へ!」
中は、思っていたより広かった。
地下の倉庫だった場所に、藁を詰めた寝床がいくつも並んでいる。奥に石のかまどがあり、大鍋から湯気が上がっていた。十五人ほどの若者が、それぞれ床に座っている。腕に紋のある者。紋はないが、片足を引きずっている者。目の周りを腫らした新入生もいた。みんな、ひどい顔でこちらを見た。
奴隷の巣。上の連中はそう呼んでいる。
「ここでは、避難所って呼んでるんですよ」
ティモが胸を張った。
「札のない奴、札を切られた奴、片腕の奴。夜に一人で寝ていると死ぬ奴は、ここで寝ていいんです。入場料は無料。食事はまずい」
「まずいなら食うな」
かまどの前で上着を脱いでいたラズが、振り向かずに言った。
「嘘です、最高です!」
「なんでそいつを連れてきたの」
とげのある声がした。壁際で矢を削っていた少女が、顔を上げずに言った。髪を短く刈っていて、むき出しの左腕に紋がある。
「カーヤ、これが今度の」
「知ってる。ボリスの棺桶を燃やした貴族でしょ。ラズ、あんた三年かけて地下を隠してきたのに、あの女のおかげで全校に鼠呼ばわりされたのよ」
「貴族といっても、貧乏男爵の三女です」
私が言うと、カーヤは初めて顔を上げた。
「貧乏でも、腕はきれいでしょ」
「はい」
「親を選んだわけじゃないって言いたい?」
「いいえ。きれいな腕の人間が言っていいことでは、ないと思います」
カーヤの小刀が、一瞬だけ止まった。それから彼女はまた矢を削りはじめ、私のほうをもう見なかった。
背の高い、静かな顔の青年が、木の椀を二つ持ってきてくれた。
「ヨハンです。座ってください。そこは水がしみないので」
「ありがとうございます」
「足もとに気をつけて。そこに寝ているのは、ティモの靴下です」
笑いもせずに言うので、冗談なのか本当なのかわからない。
「おーい! 生きてるか鼠ども!」
どたどたと階段を下りる音がして、扉から熊が入ってきた。グンナルだ。肩に、毛皮のままの角兎を三羽ぶら下げている。
「先輩?」
「お、ダフネ。来たか。こいつらに飯を食わせるのは、俺の趣味でな。うちの寮も貧乏だが、ここほどじゃない」
「ロザーン寮の四年生が、ここへ来ていいのですか」
「校則は一つだ」
グンナルは角兎をかまどの横へ放り投げた。ラズが小刀を抜き、皮を一息に引いた。慣れた手つきだった。闘技場で人を殺した手が、骨を外し、肉を大きく切って、どちらも鍋へ入れていく。
灰麦の粥に、角兎の骨のだしと、炎茸。かまどの熱で、地下の空気がむっとしてきた。
「味見は」
ティモが聞くと、ラズは鍋から杓子で一口取って、口に含み、しばらく黙っていた。
「いい」
「先輩、毎回全部味見するんですよ。食い意地が張ってるから」
「黙れ」
椀が順に回ってきた。そこで誰かが言い出した。
「よし、今日の死にかけ自慢!」
「なんですか、それは」
「今日、一番死にかけた奴が、肉を一番多くもらえるんです」
ティモがうれしそうに手を挙げた。
「僕は階段で、ガルムントの三年に足を出されました。二段落ちました」
「二段で死ぬか」
「私は」
カーヤが、矢から目を離さずに言った。
「弓の実習で、的の前に立たされた。頭の上の林檎に、四本当たった」
「おお!」
「残りの二本は、耳の横」
「カーヤ、大きいぞ!」
「俺は、ボリスの棺桶の板でケツを温めた!」
グンナルが叫んで、全員に椀を投げつけられそうになった。
「新入り! そっちはどうだ」
全員の顔が、こちらを向いた。私は粥を一口飲みこんで、指を折った。
「朝、起きるときに一度、目の前が暗くなりました。二の鐘の走りこみで倒れました。午後の実習で一度、夕方にここまで歩いて一度です」
「四回かあ」
「ここへ来る途中、息がうるさいという理由で、護衛に殺されかけました」
一拍あって、地下じゅうが爆発した。
ティモが床を転がり、グンナルが膝を叩き、ノルンが粥を吹いた。肩を震わせているのはヨハンで、カーヤでさえ、矢を削る手が止まっている。
「優勝だ! おい、ラズ! 肉だ肉!」
「俺は殺しかけていない」
「はいはい、一番多いところ入れてあげてください!」
ラズは舌打ちをして、杓子で鍋の底をさらった。椀に落とされたのは、角兎の肉のかたまりだった。受け取るときに顔を上げると、ラズの口の端がほんの少しだけ、動いたように見えた。
私は肉をかじった。
後宮では、私の食事は銀の皿で運ばれてきて、冷めてから毒見がすんで、私一人の部屋で食べるものだった。
ここの粥はしょっぱくて、炎茸が舌に痛い。隣でノルンが「おいしいねえ」と言いながら、私の椀にまで匙を入れてくる。
顔がおかしい。頬の筋が痛い。少し考えて、笑っているせいだと気づいた。
夜が更けると、ノルンは藁の上で早々といびきをかきはじめた。私は水をもらいに、かまどの横へ立った。
ラズが鍋を洗っていた。火の熱と湯気で、裸の腕に汗が光っている。かがんだ肩の筋肉の上を汗が流れて、右腕の黒い紋へ落ちていった。
紋の端が、ほんの少し、にじんだ。
汗の筋に沿って、黒いものが、髪の毛一本ぶんほど流れている。
私は水の椀を持ったまま、立ち止まった。
奴隷紋は刻むものだ。後宮の下働きの腕も、皆そうだった。雨に濡れても、湯を使っても、落ちるという話は聞いたことがない。
かまどの火が揺れた。もう一度見たときには、ラズが腕を手ぬぐいでぬぐったあとだった。紋はくっきりと黒い。
「何を見ている」
「あなたは、いつもそう聞きますね」
「お前がいつも見ているからだ」
ラズは手ぬぐいを肩にかけ、私の手から椀を取って、水を汲んで返した。
「明日から、日の出の一刻前に、裏の井戸へ来い」
「何をするのですか」
「お前を歩けるようにする。死体は守れない」
それだけ言って、ラズは鍋を担いで行ってしまった。
きっと、灯りのせいだ。
私は水を飲みほして、ノルンのいびきの隣へ戻った。




