Episode-75
変な夢を見た。厚く黒い雲が空を覆い、地平線に近い空から赤い太陽が顔を覗かせ、その灼けつく不気味な赤い光が荒廃した大地を照らす。左に見える高すぎて頂きの見えない山の表面に、浮きだった血管のように岩礁が流れ、その姿はまるで怒りと悲しみの涙が具現化したかのようだった。
――〈赤子の揺り籠〉の者達よ。目覚めの時です。
頭の中で鳴り響く声に眩暈をおこし地面に目を落とす。その光景に声ならぬ声を上げ口を塞ぐ。
数多の死体。丸い兜や角のついた兜、銀色の甲冑や磨かれていない甲冑、首や腕、体の半分を失った兵士達の死体。見渡す限りが死体で溢れ、威厳を放ち崇高さと名誉をもって風に靡いていたであろう多くの旗が、乾いた血で染め上げられ無残に死体の海に横たわっている。
――〈赤子の揺り籠〉の者達よ。目覚めの時です。
頭の中に響く声の元を探し、辺りを見回す。見えるのは死体と赤い太陽に照らされた非現実的な世界だけ。死体の海の中に見慣れない生き物がいた。人のようであり、そうでない。物語に出てくる悪魔やウラドと呼ばれる邪悪な生き物に酷似したそれは、黒い艶のない石のような色をした肌をもち、体は人の二倍ほどもある大きさで、腕は四本あった。人間に似た体だが、肩甲骨のあたりから生える余分な二本の腕が違う生き物だと証明している。顔は面長で、見開かれた目は金色だった。白目の部分が黒い。
――〈赤子の揺り籠〉の者達よ。目覚めの時です。
まばたきとともに目が覚めた。丸太小屋の天井だわ。安心したシーナは、そっと身を起こした。体が重い。
あの盗賊との戦いから二日が過ぎ去った。心は体よりも重く、悲しみと罪悪感の鎖に縛られていた。
杖から迸った神秘の衝撃で盗賊の短刀が、エヴァーツィの喉を切り裂く。わたしがアダーツィのお父さんを死なせた。
心の声が何度もそう囁く。あの時、別の方法で何かをしていたら、喉が切られることはなく、今この瞬間、アダーツィとアリーチェは愛する人と語らい、犠牲になった仲間を惜しみつつ幸せを噛みしめていたであろう。だが、もうそれはこない。二人は言葉を一言も発することはなく、アリーチェに至っては食事どころか水も飲まない。誰の言葉も届かず、夜には静かに涙を流しながら星空を見上げていた。そんな姿を見るたびに、シーナは罪悪感に苛まれた。
シーナは両手で顔を覆い、しばらく寝台の上でそうしていた。ふと、窓に目をやると、イレルの仄かに青白い光が、閉められた窓の隙間から蜘蛛の糸のように部屋に差し込んでいる。
アダーツィは寝息を立てて寝ている。アリーチェさんは寝ているのかな? そう思いアリーチェの寝台に目をやり、ぎょっとした。
自らの寝台の上に力なく座り、壁を見つめている。
シーナは怖くなって、薄手のマントを肩に羽織って外に出た。
外は肌寒い。イレルの光のおかげでどこにいるか迷う必要はなさそうだ。だが、その光は襲撃で倒壊した丸太小屋をも照らし出す。心が重くなった。
左の方から足音が聞こえ、思わず気を張る。杖を持ってくればよかった。幸い、後悔の念はすぐに消えた。やってきたのは魔法使いである師だった。
「どうした、眠れないのか」
シーナは弱弱しく微笑んだ。
「寝心地の悪い夢を見たわ」
シーナは横目で髭を撫でている魔法使いを見た。
「その髭、気に入ったんですか?」からかうようにシーナは言った。
「ふむ。私ぐらいの歳になれば様になるからな。それで、どんな夢を見た?」
シーナは疲れたように息をついた。
「戦場です、多分。気づいたら戦場に立ってて、そこらじゅうに死体が転がってて……」
「あんな戦いを経験したのだ。無理もない。大丈夫か?」
「大丈夫」
少しの間、二人は黙って夜空を見上げていた。
「さぁ、寝ろ。明日は出発だぞ」
暖かな日差しのもと、男達は半袖姿で荷台に荷物を載せていた。毛皮を塩漬けした樽や、罠の器具、衣服の入った箱、調理道具の一式を入れた箱、仲間の骨を入れた壺に、治療器具や薬草を詰めた瓶など、荷車に山を築いた。西の野営地はほぼ壊滅状態だったので、運ぶものは地下にしまっておいた毛皮や鉱石の商品だけだった。
シーナも自分の荷物をまとめた。今まで共に旅をした背負い袋を繕い、再びその中に詰めた。当初はそれなりの余裕が余るはずだったが、ピンが保存食やお菓子をくれたおかげで、背負い袋は前かがみにならなければ背負えないほど重くなった。師も同じように背負うのに苦労している。
「よう、シーナ」
アダーツィが半袖のシャツの胸元を摘み前後にさせながら、額に汗を滴らせ様子を窺うように声をかけた。
「もうわたし達の準備は終わったよ」シーナは目を伏せたまま、肩掛けを引っ張った。
「こっちも終わった。サモニア都市を経由してプルッケルに帰るよ」
「そっか」
「私はあの治療士に挨拶でもしてくるか」
魔法使いは気の向くまま吹く風のようにその場を離れた。シーナとアダーツィはその背中を見送った。
「なぁ、シーナ。一緒に、プルッケルにこないか?」
シーナは俯いたまま首をゆっくりと横に振った。顔を上げるとアダーツィの目を苦しそうに見上げ、荷車の方へ目を向ける。荷台にはアリーチェが人形のように力なく座っていた。
「行けない」
「なんでさ」
「わたしは、師とモルゲンレーテに行かなくちゃ」
「モルゲンレーテはそんな簡単に行ける場所じゃないって――」
「わかってる。けど、わたし、一緒には行けないよ」
アリーチェの姿を見て、シーナは滲みでる罪悪感と悲しみに声を震わせた。アリーチェは二度と愛する者と会えないのだ。恋い焦がれ森人の集団であるアルハルから抜け出して駆け落ちした最愛のエヴァーツィと、愛を確かめ合うことも、目と目を合わせることも、同じ空気を吸い、時間を共にすることもできないのだ。その悲しみは痛いほどわかる。両親を目の前で失った時の痛みという言葉だけでは片付けられないあの絶望にも近い心の叫びを今でも鮮明に覚えているから。殺した者を憎む煮えたぎる怒りもだ。
アリーチェさんの心はそれに呑まれて燃え尽きた灰のようになってしまったんだわ。もし、あの時、わたしが他の手で助け出すことができていたら、アリーチェさんの大切な人は生きていただろうか。
シーナは目を瞑った。
「ごめん。アダーツィ。わたし……行けない」
「母さんもきっと喜こ――」
シーナは首を強く振った。涙がこぼれてしまいそうだ。どうしてわたしが泣くの? 泣きたいのはアリーチェさんやアダーツィのはずなのに。
「……君の、せいじゃないよ。シーナ。でも、君は自分の選んだ道を生き抜くんだったよね」
アダーツィのその言葉を聞いて涙が溢れる。止められない。わたしのせい、わたしのせいで。
アダーツィは歯を食いしばり目を瞑るシーナの頭に手を置くと、胸に抱き寄せた。
「でも、一つだけ。俺は、プルッケルで待ってる。その時は案内するよ。本当にプルッケルは綺麗なところだからさ」
シーナは零れる涙にかまわず顔を上げた。アダーツィの深い青色と茶色が混ざった目が柔らかな風のようにシーナの心を包んだ。
アダーツィはシーナをそっと離すと、背を向けて歩いた。荷車に乗ると、牛につながった手綱を握り、操った。振り返ることなく、都市へと繋がる森に挟まれた細い街道へと消えてゆく。
開拓団の一行が去った後の野営地は、墓場のようだった。希望の色も感じさせないその広場には、さんさんと陽の光がふりそそぐ。
魔法使いが、静かな街道を見つめているシーナの肩を叩いた。
「お前の決めた道だ、シーナ。わかってるな」
「わかってるわ」
シーナは鼻を勢いよくすすると、袖で荒々しく涙を拭った。
「それより! これからは町の中でも〝師〟って呼ばなくちゃいけないの? 偽名でもなんでもいいから名前があったほうが便利なのに」
シーナは開拓団が使った街道とは別の街道へと歩き出す。
「ゼークス」
魔法使いの声にシーナは振り返り、魔法使いを見据えた。
「私の名は、ゼークスだ」
シーナは満足げに笑顔を浮かべると、勇んで足を踏み出した。
「やっぱりね。魔の書にカリヌさんとその名前が並んでた」
「いつ気づいた?」
「カイザスモーンさんの家でゼークス師匠が気を失ってるとき」
「結局師匠か」
一陣の風が吹き、魔法使いゼークスはとんがり帽子を押さえながらシーナの後を歩く。その顔には、葉を優しく撫でる陽の光の如き微笑みがあった。
「あ、ゼークス師匠、前々から聞こうと思ってたことがあったんです。炎の狼の魔法は他に誰が使えるんですか?」
揺れる葉の間からこぼれる陽の光を浴びながら、二人はニルニア自由都市を目指して歩き始めた。




