Episode-69
川のせせらぎに目を向けつつ、シーナは頬を薄く紅潮させた。恥ずかしさのあまり、横にいるアダーツィに顔を向けることも、話しかけることもできないでいた。もたれている木が冷たいな、などと思考を泳がせてみたが、高揚した気分と胸の高鳴りは鳴り止まない。
アダーツィが肩を寄せてきて優しくシーナの肩を突いた。挑戦的な笑みを浮かべて、シーナは肩をぶつけ返した。だが、アダーツィは素早い仕草で立ちがると、いたずらな笑みを浮かべながら、体勢を崩して地面に手を突いたシーナを笑った。
二人は他愛無い会話をしながら小川に沿って歩いた。シーナの前にアダーツィが歩き、二人揃って手に持った下生えをちぎりながら何気無しに小川へと投げ込む。二人は暖かな陽光が降り注ぐ森の中を、肩を寄せ合いながらしばらく歩いた。
アダーツィは木々の間を抜けて差し込む日の光に顔を向けると、大きく伸びをした。振り返ると、腰に手を当ててシーナをまっすぐと見つめる。
目を逸らしたくなる気恥ずかしさを覚えながらも、シーナはまっすぐと見つめ返した。アダーツィが歩み寄り、腕一本もない距離まで来て立ち止まった。シーナは思わず顔を伏せた。
「いつか、一緒にプルッケルに行こう。綺麗な町なんだ。シーナにぴったりの服もある。絶対似合う」
シーナの肩を軽く叩くと、アダーツィは野営地の方へと歩き始めた。
心臓の鼓動が高鳴っているのを隠すかのように、シーナは平然とした様子でその後に続いた。
その夜、いつもと変わらない時間を過ごした。暖かな鍋を囲み、今日の出来事や、明日のことを話す。シーナは、アダーツィの話すニルニア都市の話を聞き、心を馳せた。大河であるイヴィマス河の広い河港に停泊する大きな船。交易によってもたらせる色鮮やかな服や、調度品。大きな河とはどれほどのものだろう? 生まれてから大河と言われるものは見たことがなかった。
アダーツィの話につまらないものはなかった。いつまでも話していたい。シーナはそう思った。
だが、その甘酸っぱい平穏は皆が寝静まった頃に破られた。
「火事だ!」
けたたましい男の声に、シーナは寝台から飛び起きた。小屋の閉められた窓の隙間から、橙色の明かりがちらちらと部屋の中に洩れる。続いて聞こえたのは、硬質な金属が打ち鳴らされる音。その音は三回鳴り、止んだ。
「襲撃だ!」
またしても、外から怒号が鳴り響いた。シーナは寝間着のゆったりとした姿のまま寝台の横に立った。アダーツィとアリーチェはすでに弓矢を携えていた。
「ここにいるのよシーナ」アリーチェはシーナの横を風のように通りすぎ、扉を開けて外に出て行く。
アダーツィは弓に矢を番えながら小屋から出て行った。出る間際、シーナに短く視線を送り、二人は頷きあった。大丈夫、アダーツィは無事だわ。
シーナは扉を少し開けて外を窺った。火の粉が舞い、炎の明かりが地面に猛々しい光のうねりを投げかける。男が剣と剣を打ち合わせる姿が至るところで見られる。顔が血を浴びて黒光りしていた。全員が獰猛に歯をむき出し、雄叫びと共に剣を振っている。弓を持った狩人が背中から刺され、地面に崩れ落ちた。狩人から剣を抜く盗賊らしき男の胸に矢が突き立ち、膝から崩れ落ちる。女を追いかけ回す盗賊らしき男の背中にも矢が突き立った。敵味方が入り乱れ、誰が誰だかわからなかった。
シーナは魔法使いを探した。すぐに見つかった。こんな緊急事態なのにもかかわらず、とんがり帽子をかぶっている。骨折した腕を庇いながら、片手で見事に杖を振り回し剣を持った男と対峙していた。杖の宝珠を男の胸に突き出すと、男は空気の波動に弾かれたかのように後方へ飛び、丸太小屋の壁に打ちつけられ地面に崩れ、動かなくなった。
魔法使いは念じるように胸の前で杖を構え、高々と掲げると地面に突き立てた。地面が少しの間だけ揺れ、刹那のどよめきが野営地の広場に広がった。魔法使いは杖を三回振り、振った杖の宝珠から飛び出した炎が地面に落ちると、それはあっという間に三頭の狼を象った炎狼となった。一頭の肩の高さは大人の胸の位置まである。その炎狼は無作為に男たちを食いちぎってゆく。体の一部を失った男たちは、皆ちぐはぐな服装をしている。多分盗賊だ、そうであってほしい。この暗闇と不吉な炎の光だけでは判断がつかない。
炎狼に襲われた者は皆、絶命しているようだった。体を痙攣させる、腕から胸の半分を失った死体。頭の無い死体。皆、食いちぎられた部分は黒く焼け焦げている。
一頭の炎狼がシーナの方へ駆けてくる。シーナは恐怖から扉を閉めたが、同時に扉が押され、シーナは尻餅をついた。扉を荒々しく開けてきたのは、頭の毛を全て剃った暴力的な体をした大男だった。男は汚い笑みを浮かべ、舌舐めずりをしてシーナの足首を掴んだ。シーナは恐怖から叫ぶこともできず、ひきつるように息を鳴らしてもがいた。シーナの足首を持った男の興奮した荒い息が、突如、驚きに満ちた怒号に変わり、男は地面に倒れ扉の方へ引きずられてゆく。扉の外に出るやいなや、炎狼の大きな轟々と燃える口が、男の腹を食いちぎった。男の一瞬の悲鳴は血の泡ぶくを吐き出す音に変わり、飛び出るほど瞠いた目で食いちぎられる自らの腹を見て白目を剥いて絶命した。
シーナは助けてくれたのであろう炎狼に畏怖の眼差しを向けた。炎狼も、目では無い目でシーナを見返す。
シーナの中で冷たい火花が弾いた。
この眼差しを、わたしは知ってる。
十年前の宮廷の地下廊。父と母を目の前で食い殺した、あの眼差し。
体に冷たい戦慄が走る。こんなにも炎が近いのに。恐怖からなのか、胸の苦しみを覚え胸に手を当てた。苦しい……息が、できない。
炎狼の目ではない炎の目を見ながら、シーナは意識が遠くなって行くのを感じた。




