Episode-67
数十メネンほど離れた場所に一つの水柱が立ったのを視界の左に見て、アダーツィはつまらなさそうに小石を川に投げ込んだ。隣に座る太っちょのピンは、今日何度目かと思わせる驚きに満ちた表情で水柱の方を見て、すごい! と声を上げた。
アダーツィはピンの感嘆の声を鼻で笑うと、茶色がかった深い青色の目を水柱の方へ向けた。あちら側ではシーナが母さんと神秘の修行をしている。ここ数日ずっとだ。
アダーツィは横に落ちている小ぶりの石を手に取り、手の中で軽く弾ませると座ったまま対岸の木めがけて強めに投げた。石はアダーツィの狙い通り対岸の木の幹に当たった。アダーツィは片方の口角を上げて自慢げな笑みをピンの方へ向ける。未だに水柱の方を見ているピンを見てその笑顔は呆れた表情に変わり、手をはたくと立ち上がった。
「ピン、俺の勝ちだ」
「え?」
アダーツィは慌てて振り返ったピンに同情のような笑みを向けると、対岸の木の幹についた真新しい傷を指差した。
「俺が先に当てた。俺の勝ちだ。次の巡回はお前が行けよ」
ピンは目を凝らして幹の方を見ると、訝しそうに言った。
「当たったところを見てないからなぁ」
「当たり前だろ。お前は水柱を――いや、シーナの方を見てたんだからな。近くに行きたいなら行けばいいじゃないか」
「アリーチェさんが危ないから近づくなって言ってたから行けないんだよ」
アダーツィは心底呆れたように乾いた笑いを上げると、岩に立てかけてあった弓を手に取りシーナ達のいる方に歩き始めた。ピンがその後を慌ててついていく。
まだ声をかけるには遠いと感じる距離にもいるにも関わらず、背を向けていたシーナが何かに気づいたかのようにアダーツィ達の方を振り向いた。
「アダーツィ! ピン!」
手を振るシーナにアダーツィは片手を上げて応えた。ピンはアダーツィを通り越して、お腹を揺らしながら――数年会っていなかった恋人に飛びつきに行く女のように懸命に岩を跨いで急ぎ足で近づいていく。
「さっきの水柱はシーナがやったの?」
大声で楽しそうにピンは声をかけた。ようやく普通の声で話せる距離になってからシーナは答えた。
「最初のはアリーチェさん。二回目はわたしがやったの。神秘の乱れによる暴発の危険性を教えてもらっていたの」
「暴発? なんだか怖いね」
アダーツィはピンの言葉に同感しながら辺りを見回した。水しぶきによって辺りの岩は黒い斑点模様をつけている。
「強い力を操っている時に、その均衡が崩れると今みたいなことになっちゃうみたい。操っていたのは風だったの。水を相手にすればその力がわかりやすいってことで水柱になったの」
「シーナ。さっき言ったことをしっかり覚えておいてね。力は気持ちがいいものだけど、それに溺れてはだめよ」
「はい。わかりました」
アリーチェの真剣な眼差しに、シーナは強いて心を鎮めるかのように静かに頷いた。
「そろそろお昼にしてもいいと思うんですけど、どうですか?」ピンはアリーチェに話しかけた後、シーナに嬉しそうに話す。「今日はサンドイッチの他に照り焼きを作ってきたんだ。キムリン村で手に入った新しい調味料で鶏肉を味付けしてみたんだよ」
ピンは窺うような目線をもう一度アリーチェに向けて、アリーチェの微笑みを見ると嬉しそうに顔をほころばせた。
ピンは小さな行李の中の包みを三人に配った。シーナは手渡された細長い紙の包みを手のひらで上下に挟むと、大きく深呼吸をして集中しているようだ。ピンはそれに気づくことなく、自らの包みを開けていた。シーナの隣ではアリーチェもシーナと同じように自分の紙の包みを両手で挟んでいるが、何かに集中しているような雰囲気は感じられない。
アダーツィはアリーチェとシーナが何をしているのかすぐにわかった。神秘で温めているのだ。小さい頃、母さんとよく森に入っていた時に何度も目にした光景だ。母さんの手に包まれた食べ物は温かくなり、それが母さんの優しさのように感じられて嬉しかったのを覚えている。だが今は少し違う。自分でもできればいいのにと思ってしまう。なぜ俺には教えてくれないんだ? 息子でもないシーナには教えるのに。
アリーチェがアダーツィのサンドイッチに手をかざそうとした。
「俺のはいいよ。〝やり方〟さえ教えてくれれば自分でやるからさ」
アリーチェは首を傾げてアダーツィの目を見据えた。そこには探るような光がある。アダーツィは怒りで自らの心の波がさざ立つのを感じた。だが、その怒りの熱を払うかのようにため息を吐いた。俺はもう子供じゃない、今は教えてもらえないだけだ。時がきたら自分にも神秘が扱えるようになるさ。俺は森人の母さんの子供なんだから。
アダーツィは気を落ち着けると、アリーチェにサンドイッチを突き出した。
「ごめん。やっぱりお願いするよ」
アリーチェは一瞬、罪悪感に苦しむようなもの哀しい目でアダーツィを見た。だがそれはいつものように微笑みに隠れてしまった。たまに見せるこの表情がアダーツィは嫌いだった。なんで俺をそんな目で見るんだろう?
一行は昼食を終えて暫しの休息をとった後、シーナの修行に再び付き合った。
「ピン、お前が巡回だろ」
「え? さっきの賭けは無しだよ。木に当たったの見てないし」
「当たり前だろ、お前は——もういいや、俺が行く」
修行の見回りとしてすっかりおなじみとなった巡回経路を歩きながら、森の様子に目を走らせてゆく。森の中は常緑樹の低木だけではなく、落葉樹の新しい柔らかい葉も森を彩り始めていた。倒れた灌木から細長い茎が数本伸びて、小さな二枚の葉をつけている。木の根からは蘖が顔を覗かせ、ちらほらと陽風星の兆しが見られる。相変わらず小動物しか姿を見せていないが、確かに命の息吹を感じさせていた。それでも、毎日見ている光景には飽き飽きする。そんな中、アダーツィは灌木から生える新芽を指で撫でながら、退屈そうに一息つくと、森の中から川の方を見た。
遠目にだがシーナが川に向かって手をかざし、水を操っているのが見える。そのすぐ後ろにはアリーチェが立ち、シーナに何かを話しかけ続けている。二人から少しだけ離れた場所にある岩に、見回りをいつのまにか放棄し、見物に徹するピンが座っている。今では指南役と生徒のアリーチェとシーナ、昼食係のピン、見回り役のアダーツィという役割が型になっていた。アダーツィは灌木に寄りかかりながらシーナに目を移した。
シーナに操られて風さながら宙に漂う水は、太陽の光を反射させて夜空の星にも負けない数の光を反射させながら、シーナの動かす腕と指に呼応して宙を舞っている。それは風のようだが意思があるかのように流動的に宙を飛び、流れる川の一部が風と融合したようで見ていて飽きさせない。金銭を取れるほど芸術的だ。
それを操っているシーナが突然、がっくりと膝を突いた。それと同時に、風のような水は力を失ったように宙で分散し川に落ちていった。
アリーチェがシーナの肩に優しく手を添えて立ち上がらせると、近くの岩に座らせた。ピンが慌てたように近づいていくのが見える。アダーツィも一瞬駆け寄ろうと思ったが、なぜか駆け寄るのをやめた――自分でもわからなかったが――俺は見回りだ。
遠くからでもシーナの顔色が悪いことがわかる。どうしてあんなに顔が青ざめるほど努力するんだ?
自分も弓の腕を上げるために、指に血が滲むほど練習を重ねたこともあった。剣の腕を上げるために手のひらが流血するほど握り続け、意識が飛ぶほどに剣で打ち合いをしたこともあった。だがそれはプルッケルの猟団内での地位のためや、猟団長であり、栄えある遠征隊の隊長でもある父の背に追いつくため、同世代の誰にも負けたくなかったという気持ちからできたことだ。
シーナには何があるのだろうか? そこまで自分を追い詰めて神秘の技を磨きあげるための理由は何だ? そこまでして自分を奮い立たせる意志はどこから湧くのか? アダーツィが抱いていた嫉妬心は、いつのまにか空気に消えていく湯気のように跡形もなく霧散した。代わりにあるのは、熱い気持ちだ――彼女に対する尊敬、これだった。
アダーツィは巡回経路を何回も往復し、気分転換に登りやすそうな木を見つけて手をかけた。背中に回した弓をもろともせずに登ってみせた。三メネンほど——大人二人分程——の高さで止まり、十分に体重を支えられる枝に座ると幹にもたれかかる。この高さからだと少し遠くまで見渡せる。
柔らかな風が頬を撫でていく。アダーツィは暫くそのまま森の中を見渡していた。なにを考えていたのかも思い出せない。そんな茫洋とした思考の渦をさまよっていたが、小枝を踏む音に我を取り戻した。音は木の反対側の下から聞こえてきた。続いて足音が聞こえた。軽い足音で警戒している様子がない。ここ最近聞き慣れた足音、シーナの足音だ。何しにきたのだろう? 母さんはどんな時でも足音を立てないように歩く――これは森人として生きていた時に身についた習性らしく本人は意識していないらしい――だから母さんではないし、ピンは言わずもがなだ。
「ねぇ、アダーツィ」
アダーツィはシーナの声を聞いて深呼吸をした。だが応えなかった。
「わたしもそっちに行っていい?」
なんで聞くんだ? そう思いながらもアダーツィは、今降りるよと返した。
「ううん、わたしも登りたいの。ちょっと手を貸してくれる?」
アダーツィは軽々と木の枝から木の枝に飛び移り、シーナが見える場所まで降りてきた。シーナが伸ばす手は汚れていた。登ろうとしたらしい。
「一人で登れないのか?」
「ちょっと無理だったわ」
「神秘で飛べばいいじゃないか。なんとかならないのかい?」
シーナは苦笑気味に笑って肩をすくめた。
「持ち上げるぞ」
アダーツィはシーナが伸ばす手を掴むと、ひょいと軽々と持ち上げて見せた。それに驚いたのか、シーナは小さく声を上げた。
「びっくりした! 片手で持ち上げるとは思わなかったわ」
「君は軽すぎるよ。何しにきたの?」
シーナは落ちるのを怖がっているのか、体のあちこちに余計な力が入っていて動きがぎこちない。表情も強張りながら木の幹と枝に掴まっている。無理に慣れた様子を見せようと顔を上げてぎこちなくあたりを見回した。その姿にアダーツィは面白そうに顔をほころばせた。
「大丈夫か? 無理は良くないと思うよ」
シーナは苦笑いをしながらアダーツィに目を移した。いつもなら黒く見える目も、陽の光を透かして深い茶色に輝いていた。そのシーナの目に見つめられて、アダーツィはどぎまぎしそうになるのを堪えた。そういえばここ最近目を合わせていなかった。
「ありがとう。けど大丈夫。アリーチェさんがアダーツィを呼びに行こうとしたから、代わりにわたしが行こうと思って。いい眺め。木登りなんて久しぶり」
「女の人は滅多に登らないか」
「でも小さい頃は結構好きだったわ」
「そっか」
アダーツィは自然と疑問をぶつけてみた。
「なぁ、なんでそこまで神秘を必死になって修行するんだ? すごく辛そうにしているのに」
首を傾げて地面を見るシーナの表情を見てアダーツィは思った。シーナもそれについて悩んでいるのかもしれない。
「ちょうど最近、それについて考えたことがあったわ」シーナは首を傾げたまま続けた。
「わたしは小さい頃に全てを失ったの。文字通り、家名も財産もお母さんもお父さんも。それからはこんなことになった自分の運命を恨んで生きてたわ。けど、その怒りのおかげで村を飛び出すことができたの。初めて運命を切り拓いた気がして幸せだった。魔法を身につけたかったのも、自分の運命を変えるのには力が必要で、女のわたしには魔法しかないと思っていたからなの。自分の運命を切り拓いて見せるんだって。けどね、デウリエ山脈の頂上でわたし、〝死〟を受け入れたの。もうだめだって思って全てを諦めた。その時に師が〝責任を持って生きろ〟って喝を入れてくれたの。自分が選んだ運命に対して責任を持って生きる。生きてみせる。それがわたしを支える一つの何かになったの。信念には程遠いかもしれないけど、それに近いもの。わたしは神秘を、自分の運命を切り拓くのに必要な力なんだって思ってるの。だから、あの時のように自分に負けるわけにはいかないって思って、生きてる」
アダーツィはシーナの目を真っ直ぐと見据えた。シーナは恥ずかしそうに顔を伏せながら、付け加えた。
「それに、力があれば目の前で大切なものを失わなくて済むわ」
「ごめん、嫌な思いをさせるつもりはなかった」
「ううん、大丈夫。目の前で魔法の炎で焼かれる姿を今だに夢にみるけど」シーナは悲しげに無理やり笑みを作って答えた。
「そうだったんだね。俺……知らなくて、あのさ。俺、君に嫉妬してたんだ。なんで息子の俺に神秘を教えてくれないのに母さんは君には教えるのかってさ。だけど俺が間違ってた」
「やっぱりそうだったんだ」シーナは微笑んだ。「そうなんじゃないかなって少し心配してたの。でもよかったわ」
アダーツィは安堵にも似た息をつくと立ち上がった。
「なんかすっきりしたよ。そうだ、もう帰るんだったね」
「うん」
シーナが落ちてきても受け止められるようにアダーツィが先に木を降りた。ぎこちなく降りてくるシーナを見守りながらアダーツィは思った。俺に信念はあるだろうか? 自分がちっぽけに思えてしまった。
無事に降り立ったシーナは一仕事終えたように手をはたきながら木を見上げた。それからアダーツィに向き合った。
「これからも見回り役をしてくれる?」
アダーツィは宙に目をやり逡巡すると、笑顔で頷いた。
「あぁ、約束だ」
シーナは左手の薬指を出してきた。アダーツィは驚きながらも自分の左手の薬指をそれに組ませて応えた。
「命の約束なんて大げさじゃないか?」
「だって、こうでもしないとアダーツィはうまく逃げそうな気がして。それに、この約束の仕方をわたしの故郷では魂の約束って呼んでたわ」
二人は笑い合いながら歩き始めた。
一行が野営地に着く頃には、太陽は西に傾き明るい橙色を世界に投げかけていた。遠い空は早くも藍色に染まり始めている。
「それじゃあ、またね。皆さん今日もありがとうございました。わたしは、明日は休もうと思います」
アリーチェは頷くと、あまり遅くならないようにねと言って自分の小屋に戻って行った。
「わかった。でもなんかあったら言ってね、僕はいつでも歓迎だよ! 明日も昼食作ろうか? よかったら一緒に食べようよ」ピンは疲れも見せずに楽しそうだ。
「おいおい、探索にはついていかないのか?」
「え? あぁ。明日は休むよアダーツィ。料理の腕も落とさないように練習もしなくちゃいけないし……」
「そっか。でもお前が遠征隊についてきたのは――」
「わかってるってアダーツィ!」
アダーツィは不満そうに腕を組み暗くなり始めた東の空を見やった。
「ところでシーナ、明日は何かお菓子を作っておくよ!」
シーナは笑顔でありがとうと答えると、申し訳なさそうに眉をひそめて続けた。
「けど、明日はやりたいことがあるから時間の都合がつかないかもしれないわ。久しぶりの休みなんだし、ピンにも好きな時間を過ごしてもらいたいんだけど……」
ピンは驚いたように目を瞠いて言った。
「そんな! 毎日どうやったらシーナが喜ぶか、サンドイッチをいかに美味しく作るかで試行錯誤してるから、楽しい時間だよ! それに……シーナに食べてもらえることが僕は嬉しいんだ」
アダーツィは東の空を見上げながら楽しむように片方の口角を上げた。
「うん、いつもサンドイッチありがとう。じゃあ、もし明日時間が合ったらいただくね」
「うん、待ってるよ!」
ピンはただでさえ膨らんでいる頬を、笑顔でこんもりとさせてシーナを見ている。まるで焼きたてのパンみたいだとアダーツィは思いながら手を合わせた。
「それじゃあ帰るか! 俺は帰るぞ。またな!」
アダーツィは夕飯が何か考えながら小屋に向かって歩き始めた。後ろではピンの空回り気味で聞こえる楽しそうな声と、聞き取れないシーナの受け身な言葉が途切れ途切れに聞こえた。やがてそれも聞こえなくなった。
周りの小屋から灯りと夕飯の匂いが洩れている。どこの家も煮込みのようだった。煮込みは嫌いじゃないが、ピンの作る料理店のような食事にありついてしまうと、どうも物足りなさを感じてしまう。そんなことを思っていると、後ろから小走りで迫ってくる足音が聞こえた。この軽い足音は――シーナだ。
「アダーツィ」
アダーツィは肩越しに振り返ると「よう」と応えた。二人は別々のところに目をやりながら、肩を並べて歩いている。
「今日の夕飯は何だと思う?」アダーツィは少し愉快そうに言った。
「うーん」
「俺は煮込みだと思うな。うさぎ肉の煮込み。賭けてもいい」
シーナは何がおかしいのか楽しそうに笑った。
「いいわ。わたしは鶏肉の煮込みだと思うわ。絶対」
アダーツィは怪訝そうに、しかし口には笑みを湛えて言った。
「よし、君が負けたら神秘を教えてくれ。母さんには内緒でね」
「いいわ」と、いたずらを楽しむような笑顔でシーナは言った。「アダーツィが負けたら、明日はお散歩に付き合って」
「なんだって?」アダーツィは怪訝そうに訊き返した。「最近、ここは危ないのはわかってるだろう? だめだ、遊びじゃないんだぞ」
シーナは困惑しながらも食いついた。
「わかってるわ。でも真面目な話なの。師とわたしは、そのうちここを出るわ。それなのにほとんど地理を知らないのよ。だから、北に行く時だけでもついていきたいの。北には町があるんでしょう?」
「確かに……村も町もあるけど」アダーツィは困ったことになったと言わんばかりに顔をしかめ、頭を掻いた。「賭けるのはやめたっていいんだけどな」
「そうやって逃げる気ね」
「まぁいいか」アダーツィはなんとかなると言いたげに歩き出した。うさぎ肉に決まってるんだ。
アダーツィの小屋に着くと、鳩飼のハトハが小屋の扉を勢いよく開けて出てきた。何事かと顔を見合わせたアダーツィとシーナに、ハトハはいきなり声を大きくして詰問した。内容は、伝書鳩が不自然に死んだり、消えていることだった。それを野営地の人間の全員に訊いて回っているらしい。流行病では無いのかとアダーツィは尋ねたが、ハトハは犯人がいると言って譲らない。何をしていたかなど、あれこれ訊き、不満を隠そうともせずにハトハは去って行った。
「あら、二人ともお帰りなさい」アリーチェは同情の笑みを浮かべて二人を迎えた。アダーツィは肩をすくめてみせる。
二人は鍋の中を見て笑った。シーナは嬉しそうに笑い、アダーツィは苦笑いを浮かべた。
「わたしの勝ちだわ!」
「なんてこった……」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ。ただいま母さん」
「夕飯の当てっこをしてたんです」
アダーツィは肩をすくめて見せた。
「その様子だとシーナが当たったみたいね。うさぎ肉がよかったかしらアダーツィ?」
困った表情で頭を掻くアダーツィを見て、シーナとアリーチェはくすくすと笑った。
翌朝、アダーツィは目覚めると大きなあくびをした。このままもう一眠り……とはならず、勢いよく立ち上がると探索の支度を始める。膝のところで折り返された革靴に足を入れると、思い切り引っ張り足を奥まで入れる。ズボンを革靴の中に丁寧に入れ込むと、緩めてあった紐をきつく結ぶ。肌着の上に亜麻で織られた仕立ての良い長袖を着ると、革のベストを着た。よく鞣されていて体の動きを損なわない上に見た目も良い。深い赤色で、脇腹に取り付けられた革紐で留めるこのベストが、数着持っている中で一番のお気に入りだった。
今の森の様子ならこのマントかな。手に取ったのは深い緑色の目の詰まった亜麻のマントだった。それを羽織ると、プルッケルの銀細工職人の手によって拵えられた弓をモチーフにしたブローチでマントを留めた。いつもならお気に入りのベストとブローチを一緒に着ける事はないが、今日はつけたい気分だ。
矢筒を背負い革帯でしっかり留めると、剣帯を締めて短剣の柄を触った。弓に腕を通し背中に回すと、扉を静かに開けて外に出た。
目を細めて太陽を見る。琥珀色の強烈な光は、まだ梢の中を昇っている。広場の中央に向かって歩き始めて五歩も経たないうちに、シーナの呼ぶ声が聞こえてアダーツィは振り向いた。もう起きてたのか? アダーツィは驚きのあまり固まった。
「昼ごろから散歩かと思ったよ」
シーナは微笑んだ。
「朝の方が空気は気持ちいいわ。それに、ここの土地のことを教えてもらうなら、時間もかかるでしょ?」シーナは後ろに持っていた小さな行李を見せた。
「お弁当?」アダーツィは驚いたように眉を上げると、ピンを探して周りを見回した。シーナのためとなるとあいつは早起きできるんだな。
「ピンならいないわ。これはわたしが作ったの。ピンには負けるかもしれないけど、これくらいならわたしも作れる。美味しいって言ってよね」
アダーツィは笑いながら手招いた。シーナは小走りでアダーツィの横に並んで、二人は森の中へ入って行った。




