Episode-66
陽風星の暖かい風が吹く中、アリーチェとシーナは野花が咲き始めた下生えの中を歩いていた。吹く風は暖かさを感じるが、岩場の陰になっている部分は未だ厳しい寒さの残滓が漂っていた。もう一星間もすればこの厳しさもなくなる。生命の息吹は目前に来ていた。
生きるのが困難な土の季が終わったものの、野営地での食料の蓄えは心もとない。皆こぞって肉を食べたがっている。それもそうだと思う。アリーチェさんのスープは美味しいし、ピンの芋料理も美味しいけど、やっぱり肉が食べたい。
家畜として飼っている山羊は乳のためであり、鶏は卵、数少ない牛は荷を牽くために飼われているため、食用なんかにはできない。魚すら獲れない日が続いている。だからこうして狩に出るのだ。お腹が減るから嫌だとは言えないし、言う気もなかった。こうして狩に出かけながら神秘の扱う術を教えてもらえるのだから。
東の野営地の数人は修行に使っていたキムリン川を下ってキムリン村に物々交換をしに行った。貰ってくるのは小さな野菜に違いない。アダーツィ達は南や西に行って狩をしているらしい。ここ辺りのは狩り尽くしてしまって奥地に行かないと獲物は見つからないと言っていたけど、盗賊の件があってそこまで遠くまでいけないとぼやいていた。
シーナとアリーチェはいつもの修行に使っているキムリン川を越えて東に向かい、より豊かな森に足を踏み入れていた。〈霊樹の森〉からはまだまだ遠いから、霊獣に襲われる心配はないとアリーチェは言っているが、ついつい森の奥を見てしまう。森の中は主流と呼べるほどの幅のある川はなかったが、雪解けに伴って現れた小川が時折顔を見せていた。透き通った小川はそのどれもが未だに身を切るような冷たさを残している。木々は湿って黒く、歩くたびに雪を踏みしめる音が響く。
しばらく歩き、二人は膝丈ほどの常緑低木が生い茂る開けた場所に出た。まだ緑は少ないが、葉に艶がある低木が点綴としていた。
もう少し経てば花が咲く。その姿を想像してシーナは思わず微笑んだ。湧き出るその気持ちを共有しようと、立ち止まっているアリーチェの横に並び顔を見上げる。アリーチェも微笑んでいる。きっと同じことを考えているんだわ。
「もう少し経てば花が咲きますね。きっと綺麗なんだろうなぁ」
「そうね。その後は実をつけるのよ。深い青色の小指の先くらいの大きさだけど、とても甘いの。みんなが大好きなニャック酒に使われる実よ」
シーナはハトハやリューツィンと飲んだ酒の味を思い出して顔をしかめる。あれはあまり好きになれない。
「でも今日は狩よ。ここの低木の間に生えたばかりの柔らかな草があるの。見える?」
アリーチェがしゃがんだので、シーナもそれに倣いしゃがみこみ低木の間を見渡した。確かに若々しい優しさに包まれたような緑色をした草が生え始めている。
「見えます」
「今日は陽のあたりもいいから、野うさぎが食べにくるはずよ」
「鹿を狩れれば皆の分の肉が手に入るのに……」
「この辺りで鹿は見かけないわね。〈霊樹の森〉が近いせいね。神秘の強い場所には狼や熊、鹿は近づかないの。まるで恐れているみたいにね。小さな動物は隠れるのが上手いから、この辺りにもいるのよ。食料の取り合いにならないぶん、小さな動物達が多いの。うさぎもその一つよ」
「そういうことですか。けど、小さなうさぎを見つけるのは大変ですね」
アリーチェは微笑んだ。
「修行の一つよシーナ。風を読むことができるようになってきたわよね。まだまだ鍛錬の必要はあるけど、今回はさらに上の使い方を教えるわ。見ててね」
そういうと、アリーチェは矢を番えて軽くひく。
それからどれくらい経っただろうか。何もしないでアリーチェはじっと開けた場所の一点を見ていた。それはどこかを見ている目ではない。きっとルスを感じているんだわ。
アリーチェの姿は獲物を探しているようには見えない。シーナは無意識に自分の足を掻いたり、集中力が切れ始めたことに気づき居住まいを正したりし始めた。だが突如その沈黙は破られた。アリーチェはしゃがんだまま素早く顎に添えるように引き絞り、一呼吸も置かずに放った。矢は風を切る一瞬の音と共に数十メネンも先の低木の辺りに吸い込まれていくように消えていった。人が小指の爪くらいに見える距離のうさぎなんか射れる人はいるのだろうか?
「さぁ、行きましょう」
シーナはわけがわからないままついて行くと、矢の羽根の部分が低木の影から突き出ているのが見えた。シーナは息を呑むと駆け足で近づいて行き、低木の陰で矢を受けて倒れる野うさぎの姿を見出した。
「どうやって……? 姿が見えなかったはずなのに。神秘のおかげで夜目を効かせるのと同じですか?」
「少し違うわね。風を読むことのさらに上のことをしたの」
シーナは考えるように腕を組み、矢が突き立った野うさぎを見下ろした。
風を読むとは、風の中に含まれるルスの違いを感じ取り、その風がどこを通って来たかを感覚として捉え、頭の中で想像して見ることができる。風を読むというのは、常に起こった後のことを見る。獲物の場所や、矢を放つその瞬間を見切るには、その瞬間の獲物の動きも読めなければいけない。アリーチェさんはじっと一点を見つめていただけ……。何かに集中していたんだわ。風を読むと似たようなこととなれば……。
「空気を読んだんですか?」
「それだと場の雰囲気を読んだみたいな言い方ね。でもほとんど正解よ。ヴィアドラ風に言うなら〝気〟を読んだの。神秘で言うならオルスを読んだのよ」
シーナは不思議そうに頭を傾げた。
「正確には、この大気中のルスを感じて、その流れに沿わない部分を見つけたの。ルスとオルスは似ているけど別物。オルスは動物などの生き物に宿るもので、ルスとは違う。だから、ルスの中で不可解に乱れる部分には何か動く物があると言うことになるでしょう? 私はなんどもうさぎを狩ったことがあるからうさぎだってわかっただけ。この修行はルスを感じとる範囲を大きくするのが目的よ。ルスの流れの中の乱れを読むのは、風を読み取るよりずっと簡単だから。ただ、その乱すものはなんなのかを見破るのは経験ね」
シーナはなんとなく理解したように頷いた。それを見てアリーチェは、野うさぎに刺さった矢を引き抜き、抜いたナイフを野うさぎの腹に差し込むと、肉と皮の間に刃を滑らせて皮を剥ぎ始めた。
「風を読むときに、風の形を少しは感じられたはずよ。風が岩を通り抜けることはなかったわよね? 木の間を縫っていくのも感じたでしょう? その風が交わらなかった部分は風とは違う性質を持っているの」
シーナは弾かれたように顔を上げた。その顔は理解という陽の光に咲いた花のように明るかった。
「意味はわかりました! ということは、ルスの世界を見るようなものだわ。風の中に含まれるルスの違いを感じるのと同じで、漂うルスの中に少し違う性質を持ったルスがあれば感じられる。そこに〝何か〟がある、そういうことですか?」
「そうよ。まぁ、正確には違うルスじゃなくてオルスなんだけどね。風のように細かいルスの流れを感じ取れるあなたなら、よく感じ取れたでしょう? でも、広げることが難しいのよ。さ、練習よ」
その後の数時間、シーナはひたすら集中し、薄い大気中のルスを感じる練習をした。今までとは違う、逆の性質を持った修行にシーナは疲れ果てていた。
今までは、吹く風のルスを感じるという受動的なものだったのが、今は能動的だったからだ。オルスを放ち自ら感じに行かねばならない。真逆のものは難しいし、集中力が段違いに必要になってくる。
だがオルスを放つというのは以前から少しは行なっていた。魔法や風を起こすときがそうだった。オルスを集め、それを想像と意識、感覚によって放出して操る。中でもピンへのいたずらとして操った神秘は、今まで一度に扱ったオルスの量では一番大量で集中力を要した。これらの能動的な神秘は、その場かぎりの集中、いわば短距離走のようなものだわ。ところが今回は持久走だ。持久走の時の自分との戦いに似てるわ。
まず、オルスを掻き集め体の周囲に放つ。想像するならば、自らが霧の発生源になるような感じだ。だんだんと広がっていくのはわかる。けど、広範囲に広がるにつれて要求されるオルスの量は増えていき、一度集めたオルスの量では足りなくなる。だからオルスを掻き集め続けなければならないのだが、霧のように広げるオルスが風によって流されないように意識して操らなければならないため、今まで別々に行っていた意識の集中、想像と操作を一度に継続して行う必要があった。これは持久走を全力疾走で行うようなもので、桁外れの難しさだった。シーナはオルスを広げることで精一杯になり、肝心の〝周辺の状況を感じる〟ことができなかった。
その日は歩くのがやっとなほどに消耗し、影が濃くなってきた森の中で何度も転びかけた。頭は靄がかかったように鈍く、膨張する痛みが波のように響く。帰る途中に食べたピンが作ったサンドイッチの味も覚えていない。眠さで足を動かしていることも忘れてしまうほどだ。時折前を歩くアリーチェの姿を見失ったような気がして恐怖による刹那の覚醒に目覚めたが、一瞬だけ木の陰に隠れただけだったとか気づいたら寝ながら歩いていたとか、決してアリーチェが離れてしまったわけではなかった。
それでもなんとか自力で歩き通し野営地に戻ると、何をするのも億劫で、夕飯を食べることも湯浴みも無視して顔を洗い水を飲むと、力尽きたように寝台に倒れこんだ。もぞもぞと毛布の中に潜り込むと、何かを思う間も無く深い眠りについた。




