Episode-65
ピンは服が乾くまでの間、横たわるシーナを見つめ続けていた。白くとも血色の良い顔はいつもより白く、青ざめて力無い呼吸に変わっているのを見てピンは不安そうに声をかけた。
「シーナ?」
弱々しい呼吸をするシーナは、黒い髪をわずかに風になびかせ岩の上に横たわっている。ピンは近づき、迷ってからシーナの額に手を置いた。驚きに目を見開かせてピンは手を離したが、もう一度額に手を置くと息を呑んでシーナの肩を揺さぶった。
「シーナ? 大丈夫? シーナ!」
「おーい! ピンか!」
突如現れた第三者の声に、ピンは驚きつつも懇願するかのような表情を浮かべて顔を向けた。
少し川を上ったところの対岸線に、毛皮のマントや毛布を丸め、背中に背負った荷物に括り付けて歩いてくる三人の男達がいた。三人とも弓を片手に、腕の半分の長さほどの短剣を腰に下げている。紅色のよく鞣されたベストに、浮き彫り装飾が施された長靴は膝のところで折り返されている。この精巧な装飾は、間違いなくプルッケルの意匠を感じさせるものだ。
「ア、アダーツィ? 大変なんだ! 今すぐこっちにきて!」
三人の男は何事かと顔を見合わせたが、頷き合うと荷物を頭上高く持ち上げて川を渡ってきた。
その渡る姿をじれったそうにピンは見続けた。三人が川岸に近づくと語気を強めて「早く!」と急き立てては、シーナの顔を心配そうに見て焦ったようにシーナの頭を撫でた。
「シーナか。どうしたんだ?」
アダーツィがピンの肩に手を置き冷静に訊いた。アダーツィ以外の二人は一回り上の年代の男達で見慣れない顔だった。おそらく西の野営地の人だろう。不機嫌そうな色を目に湛えながらもどこか心配そうにシーナを見ている。
「シーナが神秘を使って、その後疲れたって言って寝たんだ。数分もたってないのに顔が青白くなってきて、すごく冷たくなって……すぐ野営地に帰らないと。パンナッツァさんならどうにかできるかもしれない!」
「わかった、落ち着けピン。連れて行くよ」
アダーツィは荷物を下ろし弓を岩に立てかけると、シーナを背負った。
ピンはアダーツィが来たことと、その冷静さに触れて自らも冷静さを取り戻し始めた。細身ながらも軽々とシーナを背負い岩場を颯爽と抜けるアダーツィの男らしさに感心する余裕が生まれた。自らの足を叩き叱咤すると立ち上がり、アダーツィの後を追って歩き始めた。
森の中を歩き始めると、アダーツィが肩越しにピンを振り返った。
「お前、なんでずぶ濡れなんだ?」
アダーツィの後を息をせわしなくさせて小走りに追うピンは、肩を上下させながら答えた。
「シーナが、水の玉を僕にかぶせてきたんだよ。昼寝で気持ち良くなってた僕にいたずらをしようとしてね」
ピンは楽しそうに、嬉しそうにそう言った。
「いたずらね。随分と仲が良さそうなんだな」アダーツィはどこか棘を含めて言った。
アダーツィの横に並んでいる男の一人が面白そうに口を挟んだ。
「そういうことかアダーツィ。その娘なんだな」
「……そうです。でも今はやめてください」
二人の男は面白そうに笑っている。
アダーツィの表情がわからないピンは不思議そうな視線をアダーツィ達に向けたが、疲れが色濃く現れ始め足が思うように動かなくなってきたことに焦りを感じ、雑念を振り払い走ることに専念した。
それから大して時間も経っていないのに、ピンは近くの木にもたれかかった。足を止めたピンに気づき、一人の男がアダーツィを止めた。
振り返ったアダーツィの肩は上下し、血色いい顔をさらに赤く染め、汗が顎の先で滴となって地面に落ちた。無理もない。アダーツィは女性を抱えて走り続けているのだから。ピンは自分が恥ずかしくてたまらなかった。もたれた木の表面を握りしめるように力を込めて触った。だが足が重すぎて動かないし、呼吸は乱れて今にも吐きそうだ。
「ピン。悪いがお前を待ってられないぞ! 太陽を左にして走れ! そうすれば迷わない!」
野営地に着いたピンは吐き気を催しながらも、ふらふらと歩いてパンナッツァの小屋を目指して足を進めた。
野営地の雰囲気はいつもと変わらない。日が落ちそうな色の濃くなった太陽が梢と重なり長い影を広場に投げかけている。小屋の多くは夕飯の支度のために竃へ火をいれているのか、煙を小屋の外に添わせた鉄製の細長い煙突から昇らせている。アダーツィの小屋は静かに佇んでいる。人のいる気配は感じられなかった。
パンナッツァの小屋にたどり着くと、扉を叩き返事も待たずに扉を開けて中に入った。小屋の中は香の匂いで満たされていた。その狭い小屋の中に、アリーチェ、アダーツィ、パンナッツァ、魔法使いの四人が互いに肩が当たりそうな距離を空けて立っている。魔法使いはシーナの寝そべる寝台の横に膝をつき、木の棒を添えた包帯の巻いてある右手を膝に置き、無事な左手でシーナの手を握っていた。
皆がピンの方を一瞬振り向いたが、シーナの方に目を戻した。アリーチェがため息にも似た息をつき、パンナッツァが竃の火にかけてある鍋を火から外すと態とらしく手をすり合わせた。
「さぁ、もう大丈夫ですよ。あとは香で緊張状態を和らげて、煎じた薬を少しずつ与えて、食べる元気が出てきたらもう大丈夫です。ですが、今回は早い段階で対応できたので大事には至っていませんが、もし体温がもう少し下がっていたら助けるのは難しかったでしょう」パンナッツァはちらりとアリーチェに視線を向けたが、すぐにシーナに戻して続けた。
「神秘の修行を行うのはいいのですが、今回のような事態は避けたいものです。私が神秘を扱える治療士だったので、彼女の意識が自我を保てないほど霧散する前に保つことができました。シーナが修行を続けるというのなら、無茶はやめるようにと十二分に伝えてください。お目付役が必要だと思いますね」
「神秘を操る場合は私がするわ」アリーチェが小さな声で言った。「今回のように目を離したりはしないわよ。私が責任を持ってこの子に神秘を教えます」
「俺には仕事があるし護衛にはなれないけど、なるべく、できる時はするよ。最近盗賊の動きが怪しいって話だから、あまり遠くには行かない方がいいと思うけど」と、アダーツィ。
アダーツィは立ち上がると、皆の顔に目を配っていき、同意の色を読み取ると扉の方へ歩いていく。扉の近くで肩を上下させているピンに鋭い目を向けると、腕を掴みそのまま外に連れ出した。扉を閉めると荒々しく小屋から離れていく。
「痛いよアダーツィ。なんだよっ」
アダーツィの腕を振り払い地面に倒れたピンは、憤然とした様子で立ち上がりアダーツィを睨めつけた。
「なんだよだって? お前〝毎日〟のようにシーナに付き纏ってたらしいじゃないか。お前でも神秘の危なさは理解してるんだろう? なんで母さんがいないのに修行に行かせたんだ」
「〝付き纏ってた〟はないじゃないか」
「尻を追っかけての方がいいか?」
ピンは歯をむき出して拳を握った。
「それに毎日一緒にいて何が悪いんだよ。〝毎日〟お昼を一緒に食べて〝毎日〟夕飯を食べて何が悪いんだよ。それに今日はたまたまアリーチェさんがいなかっただけだ!」
アダーツィは噛み付くピンの反応を楽しむように口に笑みを作ったが、目は怒りに煌めかせていた。
「たまたまか。最近は盗賊の件もあったよな。俺が伝言を伝えに行って、とんぼ返りで父さんと帰ってきたのは知っているよな? 何か重要なことがあって来たとは思わなかったのか? 危険だから外へ出る時は狩人を一人は連れて行けって通達をしたはずだぞ? わざわざ西の野営地を離れて〝隊長〟が来たんだぞ。お前はあまりにも無防備すぎる」
「アダーツィの両親は仲がいいから逢いにきたと思ったんだよ……それに盗賊との問題も片付いてないのは知ってる。シーナと外を歩く時は常に短剣も持ち歩いてるよ」
アダーツィは呆れた様子でうな垂れると、怒りも嘲りもない声で真剣に言った。
「ピン。お前なりに考えて行動したのはわかったけど、短剣で盗賊を刺せるか? 扱い方を間違えて自らを切ったりしないか?」
アダーツィはピンの目をまっすぐと見つめ尋ねた。ピンの目は迷いに曇り力を失った。
「だろ? お前はどんな盗賊よりも料理の腕は立つが、戦いにおいては奴らから見れば捌かれるのを待っている魚のようなものなんだ」
ピンはわずかに怒りの色を浮かべた。その感情に気づいたのか、アダーツィは嗜めるように言った。
「自惚れるなピン。お前は体は大きいけど弱いぞ」アダーツィはズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「そんなことない。刃物は毎日触ってる」
「毎日まな板に刃を下ろしてるもんな。ご立派な鍛錬だ」
「それに森を歩くのだって慣れてきた」
「人を抱えて歩くやつよりも遅れるくらいに速く歩けるようになってたな」
「いい加減にしろよ……僕だって怒るんだぞ」
「怒って短剣を操れればいいけどな。人を相手に刺せれば、なおいい。でも、お前はパンをその丸っこい拳で殴ることしかできないだろ。まったく、一体どっちがパンだか――」
怒りのままに振り上げられたピンの拳は、呼吸と共に風を切りアダーツィの顔をめがけて突き出された。アダーツィはそれを素早く最小限の動きで避けると、その拳が振り切る前に腕を掴み、ピンの軸足を軽く払った。ピンの体は態勢を留めることができなくなり、うつ伏せに地面に倒れた。そのまま腕を背中に捻りあげられ、アダーツィの体重で固定された。ピンの首元には抜き身の冷たい短剣が当てられている。
その一瞬の出来事に、何が起こったか理解できないピンは、いつの間に抜かれたのかわからない短剣の存在に気づくと恐怖で震え上がった。
「わかったかピン。今の状態でむやみに動けば、自ら首を切ることになる。ここで尋問することもできるんだぞ。こうやって――」アダーツィは捻りあげた腕に体重をかけた。ピンのすすり泣くような呻き声にアダーツィは力を弱めた。「肩を外すこともできるんだ。盗賊はこれを楽しむやつもいる。お前にできたことは、野営地で起きている問題をしっかりと捉え、自分の力が及ぶ範囲で貢献することだろう? 今回のことなら、シーナを外に出すべきじゃなかった。それか通達通り狩人の一人でも連れていくべきだった」
アダーツィは慎重にピンの首元から短剣を離し、革の鞘に納めた。ピンは首元を手で触り安堵の息を洩らすと、捻りあげられていた腕をいたわるようにゆっくりと地面に手をついて立ち上がった。
「そうだ……。アダーツィの言う通りだよ……。僕じゃシーナを守ることはできなかったのに」
「次は間違えないだろう?」
ピンは小さく頷いた。
「他の狩人はすでに矢を増やして戦いの準備を始めている。西の野営地では壁の補強や見回りの強化などを行なっている。ピン、お前には保存食の蓄えを増やしてくれ。それと――」アダーツィは頭を指で叩いた。「――ここを使ってくれ。シーナのことが気になっているのはわかるよ」
ピンは恥ずかしそうに目を伏せたが、アダーツィの苦々しく同情に歪ませた顔を見て不思議そうな顔をした。
「俺もここ数日間シーナのことを考えてて色々なことに集中できなかった。今回の探索では二回も獲物を仕留め損ねたんだ。本当は俺もお前に偉いことを言える立場じゃないんだ」
ピンはいつもの気弱そうな微笑みを浮かべた。
「ううん。アダーツィのおかげで何を考えなきゃいけないのかわかったから……ありがとう。〝自分の力が及ぶ範囲で貢献〟か」
「まぁ、そんなに気負うなよ」
アダーツィはピンの肩を叩くと、心配そうにピンの首を確かめた。ピンはくすぐったそうにアダーツィの手を払いのけると笑った。二人は夜の帳が下りた中、冗談を言い合いながらそれぞれの小屋に戻って行った。




