Episode-64
なめらかな灰色の岩の上に空を見上げて寝そべっていた。頭の向こう側から川のせせらぎの音が聞こえてくる。数日の雨によって湿り気を帯びた森や木々を縫って大地を進む風は暖かく、大自然の手となって優しく髪や頬を撫でていく。精神に鞭を打つような冷たさを湛えた空気はその面影を隠し、代わりに胸を小さな興奮で満たす陽気な空気が肺を満たした。シーナは陽気な鳥のさえずりに耳を傾け、その歌うような声に微笑んだ。
枝を風で揺らしている灰色の樹皮をした木には未だ葉は見られないが、地面のそこかしこに下生えが見え始め、湿り気のある重い雪も数日は降っていない。代わりに深深と静かな雨が降り注ぎ、それは数日にも及んだ。新たな季節を迎える儀式のような静けさに、野営地の人も森も動物も粛粛と過ごした。多くの雪が溶けると川は増水し幅が広くなっていた。
空をじっと見つめるシーナはここ二週間の間に大きく成長した。体や精神的にと言うより神秘の扱いに限ってだ。それはシーナ自身も自覚できるほどだった。
突風ではないが、オルスを風に見立てて操り、自然の力であるルスを感じ、自らの中に取り込み、オルスと繋げることができた。そのために、今までは扇で起こす程度だった風も、今では水面にさざ波を立てるほどに強力なものになった。杖や火熾しの指環で行ってきた魔法のほとんどは、杖を必要とせず神秘で顕現させることもできるようになり、アリーチェも驚く成長の早さだった。
何よりも大きく成長できたと実感できるのが風を読むことだった。吹く風のルスを感じ取り、その中に含まれる情報――土から漂うルスや、花の漂わせるルス――を感じ取り、早咲きの野花を感じた。そしてその花を実際に見つけた時は驚いた。アリーチェでさえ驚いた様子だった。
修行以外で変わったことといえば、ピンやリューツィン、ハトハと冗談を言えるほど仲が良くなったこと。だがアリーチェは何度誘っても夕飯を共にしなかった。
ハトハ曰く、森人は不必要な狩を嫌う。遠征隊の目的である狩りや自然の開拓は人間のみの欲の行為だとして不必要で憎むべきものだと認識している。そのため、森人の集団である〝アルハル〟から抜け出して駆け落ちした相手である夫のエヴァーツィと、子供のアダーツィ以外の人間とは壁を作っているのだと言っていた。リューツィンもそれを否定することもなく、非難めいた目をハトハに向けなかったことを考えると、元森人ということでの壁が存在するのは確かなんだとシーナは理解した。
他にも一つ、今では当たり前のようになってしまったが、夕飯を一緒にしてからと言うもの、ピンが毎日と言っていいほど遊びに来るなり、お菓子を届けに来るなりするようになった。もちろん修行には必ずサンドイッチを持ってついて来た。だが今では、修行から帰り野営地に着き夕飯の終わりには、明日の天気を考えては、野営地を出る時間と帰る時間を決めて別れるほど当たり前な流れとなっていた。
そして今、修行後の昼食――鶏肉と下拵えで臭みを取った薬草の香辛料の効いたサンドイッチ――を食べて、せせらぎの音を聞きながら数日ぶりの快い天気を味わい微睡んでいる。
今日は修行の日にも関わらずアリーチェの姿は見られない。シーナの修行について来たのは、隣の岩で今にも鼾を立てて眠り出しそうなピンしかいない。
そんなピンを見て少女のようないたずらな笑みを浮かべたシーナは、呼吸をするかのように自然と感じられるようになったオルスを集めて水面に向けた。
川の流れにオルスが流されて行きそうになりながらも意識を集中させ水を包み、空中に持ち上げた。樽一つぶんほどの水の玉が空中で留まっている。ただのいたずらのはずだが、水のように形が一定でないものを一つの形として留めるには、とてつもない集中力を必要とする。水の全体を取り巻くオルスの量を調整しなければならないからだ。水の重みを支えるために球体の下の半球部分はオルスを強めに集めて、上の部分は下部の半球よりも力は弱めでいいが、球体を維持するのに力の差を滑らかに調整していなければならない。しかも常に力を維持しなければならない。
皿を想像し、その中に水を留めるのであれば簡単に――それでも集中はする――できただろうが、それではつまらないと思い、シーナは球体に水を閉じ込めた。ピンの上に運ぶのは歩くよりもゆっくりと慎重なものだった。動かすだけで水は形を変えようとする。それに応じて包むオルスの力加減を感じ取りながら調整する。かける力のどこか一つでも崩れたら、もはや球体の維持は困難であり、それどころか手で水を団子にしようとするかのように取り零してしまう。
何とか球体のまま、仰向けで横になっているピンの上、一メネンほどの高さまで持ってくると、なんとか留める。水球は表面をわずかに波打たせながら球体を保っている。
「ピン。起きて」
ピンは口をわずかに動かして何かを言ったが、聞き取れない。「何かあったの?」と言ったようにも聞こえるが、わからない。そこでシーナは語気をを強めてもう一度呼んでみた。
驚いた様子で目を開けたピンは上半身を起こし真っ先にシーナの方を向いて、最悪の状態に陥ったかのような深刻な表情を浮かべたが、シーナが自分の頭上に力をこめられた両手を突き出しているのを見て、不思議そうに自分の頭上を見上げた。
「な、何するき――」
ピンが全てを言い切る前に、シーナは全ての集中を解いてオルスを解放させた。途端に水の塊が力を失ったかのように、見事にピンの頭に落下した。
桶一杯の打ち水を勢いよく撒いた音と同じものを響かせて、ピンは頭からずぶ濡れになった。
「び、びっくりしたなぁもう!」
ピンは本当に驚いた様子で叫ぶように言ったが、違う驚きの色に顔を染めてシーナの方に向き直った。
「さっきの、本当にすごいんじゃないの? アリーチェさんも水の扱いは簡単にはできないって言ってたし、見本で見せたアリーチェさんのやつよりも大きかったよね?」
シーナはピンが水球をかぶった瞬間が目に焼きついて未だに笑いが止まらなかったが、頷いた。
「うん。ただのいたずらなのに、わたし本気だったわ。あんなに集中したのは初めてかもしれない」
笑いが収まり気が落ち着くと、体から力がごっそりと抜ける感覚が足元から這い上がり、がっくりと岩の上に倒れこむ。駄目だわ、体に力が入らない。
ピンが慌てて近寄ろうと岩から転がり落ちながらシーナに近づき、覗き込むように顔色を窺った。
「近いわピン」
「ご、ごめん」
慌てて身を引くピンに笑いをこぼしながらシーナは身を起こそうとしたが、体に力が入らなくて再び身を横にした。
「今日はオルスを使いすぎちゃったみたい。すごく疲れたわ。少し寝たい気分……」シーナは思い出したように目を開けると、笑みを浮かべて続けた。「ピンも眠そうだったよね。寝ていいよ」
ピンは笑いながら「よく言うよ」と言うと、濡れた革のベストと長袖を脱いで服を乾かし始めた。




