Episode-62
小屋に着くまでの間、ピンは小屋を共有している仲間のことをシーナに話した。鍛冶士のリューツィンは四十代の逞しい寡黙な人で、妻と一人娘をプルッケルに残し遠征隊に加わった鍛冶士の一人だという。もう一人は、鳩飼のハトハという名の男で、鷲鼻に縮れた灰色の髪を肩まで伸ばしている初老の男らしい。
シーナはハトハのことを話す時のピンの堅い口調で、伝書鳩料理事件の被害者であるハトハとの仲が未だにこじれていることを悟った。
小屋の蔀窓には突っ張り棒がしてあり、そこから部屋の中の灯りが洩れて地面に四角を描いている。昼間は毛皮のマントがなくても平気なほど暖かくはなったが、未だに夜は冷える。部屋の中は暖かくしているのだろうかと考えながらシーナはピンの後に続いて部屋の中に入って行った。
部屋の中に入ってまず最初にシーナを歓迎したのは酒精の匂いだった。続いて幅があまり広くない丸い食卓に座る二人の男の目線だった。三人の男が席を共にするには小さすぎる食卓の上には、琥珀色のした液体が入った底の四角い大きめの瓶が置いてある。素っ頓狂な目を向けていた二人の男だったが、鷲鼻の細身の老人——
きっとこの人がハトハさんだわ——がシーナに目線を注いだまま、凹みのない白鑞の酒杯を口に運んだ。
「ただいま。シーナ、リューツィンさんにハトハさんだよ」
「こんばんは。わたしはシーナと申します。少し前……というかもう一つ星以上経ちますが、こちらでお世話になっているものです」
二人の男は未だに状況を理解できないようで、目をぱちくりさせてシーナとピンを交互に見やっている。ピンが慌てて説明に入った。
「あ、僕がシーナを夕食に誘ったんですよ。二人も夕食はまだでしょう? 魚で何か作ります」
男たちはようやく動き始めた。と言っても、しどろもどろに返事をして白鑞の酒杯に新たに注いだだけだったのだが。
ピンが造りの良い椅子を一つ食卓の前に持ってくると、シーナに座るように促した。シーナは座ったが、ハトハとリューツィンはシーナと目を合わせようとせず、〝お前が先に口をきけ〟と言わんばかりに互いの顔を見合わせている。
鍛冶士の体格の良いリューツィンが瓶を手に取り、わずかに揺らして見せながら厚い顔にある細い目をシーナに向けた。
「飲めるか?」
シーナは酒の良さを知らなかったし、理解するつもりもなかったために迷いを見せた。だが、シーナが答えるよりも早くピンが鈍い輝きをした白鑞の杯を二つ、良い杯が無くて——と言いながら食卓の上に音を立てて置いた。シーナは答える機会を失い腹をくくった。
注がれた酒の香りは芳醇で、どこか果物を彷彿させたが姿形までは思い浮かばない。一口含むとシーナは吹き出しそうになった。口の中で火の玉を転がしているようだ。味わうものなのかも理解できずに一気に喉に押し込んだ。今度は喉が撫でられながら焼かれる感覚に陥り思わず顔を歪めた。思わず全身に力が入る。足の先まで丸まってしまいそうだ。呼吸をすると酒精の強い香りが一気に喉から鼻に抜けて、洗い流したくなる気持ちになった。その後に一瞬だけ果物のような香りが鼻のところで漂ったが、果物の姿を想起できるほどのものではなかった。次の一口を運ぶハトハ達に続くことなく、シーナは杯を下ろした。なんてまずいんだろう。これは……飲み物なの?
シーナが敵を睨むかのような目つきで杯を見ているのを見たリューツィンとハトハは、いたずらが成功した時のように面白そうに笑った。ピンはそんなシーナを気遣い、爽やかな果物の香りをつけた飲み物を手渡した。
ピンが料理を作っている間、特に珍しくもない会話が続いた。最初はシーナへの質問だった。どこから来たのか、何をしに来たのか、それらを答えると心から驚いた様子だった。中でもモルゲンレーテを目指していると言った時の二人の顔は、驚きというよりも困惑に歪んでいた。
「そりゃなんでまたあんなところを目指すのかね。別に質素な暮らしに美を求めるのも良いが、まだ若いだろうあんた」鷲鼻に皺を寄せてハトハは言った。
ハトハはどうしても答えが知りたいのか、リューツィンの〝踏み込みすぎだぞ〟と言わんばかりの嗜める目線を受けても、シーナの答えを待った。止めようとしないリューツィンも、実は気になるのだろう。
「師は腕の立つ魔法使いなんです。デウリエ山脈の向こうでは、みたいですけど。魔法使いはみんな知識に貪欲なんです。師は他の人よりもそれが強いみたいで、魔法の元となった神秘を解明したいということで、その手がかりがあるらしいモルゲンレーテを目指してるんです。ただ、あそこは簡単には入れないみたいで、ひとまず師の怪我が良くなるまでここでお世話になっています」
「あんたも魔法使いになりたいのかね?」
ハトハの質問に、シーナは自分でもどうなのかと自問した。すぐに答えが出ると思っていたが出てこない。
わたしは何になりたいんだろう? 魔法を学べば世界が広がる。そう思い旅立ち厳しい自然の中で死を覚悟し、生きることを諦めた自分を恥じて、自らが選んだ運命を生き抜いてみせると信念を見つけた。そして神秘に触れて、神秘が扱えることを知って……わたしはどうしたいんだろう?
沈黙が続く中、リューツィンはハトハに非難の目を一瞬向けた。ハトハは黙ってしまったシーナにばつが悪そうに言葉を添えた。
「立ち入ったことを聞いてすまんな……ただ――」そこまで言って、リューツィンが黙らせるような鋭い目をハトハに向けた。ハトハはその目線を横目で流すと、上半身をひねりシーナと向き合うと丁寧に思いやりと気遣いがこめられた口調で慎重に言った。
「――ただ、何か一つでも生きがいを見つけなきゃ人生はなんでもなくなっちまう。あんたはまだ何にでもなれる」
「はぁ……。お嬢ちゃん。人生の下り坂の終わりまできた老人の説教ほど、まずい肴はないな。俺にも同じ年頃の娘がいるが、これと言った夢はないし、困ったことに今はもっぱら恋愛に熱を上げていてな」ピンが調理する炊事場の方で何かが落ちる音がした。「まぁ、今は何も考えずに好きなことをやれば良いんだ」
ハトハは心外そうにリューツィンを見て、あけすけに文句を並べ始めたところでピンが魚料理を持って来た。
香草とバターで合わせて焼かれたムニエルで、油が滴るその艶と香りに場の空気はムニエル一色になった。誰の腹が鳴ったのかはわからないが、誰一人として自覚していない。
食事の始めはピンを除いて皆が黙って食べた。ハトハやリューツィンは口を揃えて〝うまい〟や〝さすがだ〟などと言いながら食べ続けた。ピンはその皆が食べる様子を嬉しそうに眺めながら、自らの料理を評価するように一口一口を味わっていた。シーナはリューツィンのように顎を油で滴らせながら貪りたい気分だったが、ピンが頻繁に向けてくる視線を感じ、上品に努めた。
「どうかなシーナ。魚は苦手だったかな」
「ううん! すっごく美味しいわ。こんな美味しいものを食べたのは……いつだったか思い出せないわ」そう言うと弾かれたように言葉を付け加えた。「あ、アリーチェさんの料理もすごく美味しいけどね!」
ピンは言いたいことはわかる、というように笑って頷いた。
「家庭料理とお店の料理とは違うよ。僕はこれでも一応料理士だからね」
「プルッケルに行くことがあったら〝大地の雫〟によるといい。値は張るがな」リューツィンは最後の一言をわざとらしく強調して言った。
「それは仕方がないんですよ」ピンはうんざりと言った口調でそれに答えた。シーナの問うような視線に気づき、ピンは続けた。
「プルッケルの料理店の中でも特に有名で格式ある料理店なんだよ。僕のお母さんが料理長でお父さんがオーナーなんだ」
「それで、お前さんは継ぐのか?」ハトハはいたずらに歯を見せて笑いながら、皿の旨味が凝縮された脂を匙で口に運びながら言った。
「だからそれはまだわからないって言ってるじゃないですか……」ピンはハトハの言葉を驚いたように受け止めた後、わざとらしくため息まじりにそう言った。
ピンの様子からしてこのやり取りは何回も行われて来たのだろうとシーナは感じた。同時にどうして継ぐことを迷うのかと思った。料理が好きならばやれば良いのにと。だが、ピンの様子からしてあまり触れられたくない事情があるのだろう。そういえば両親の反対を押し切って遠征隊に参加したとアダーツィが言っていた。素材を実際に見てみたいとかそんな理由だったと思う。ピンは料理に関しては何か信念があるんだわ。ただの予想にも関わらず、シーナの目にはいつも弱気な男子として映っていたピンの姿が少しばかり大人に見えた。
「よかったらこれからも夕飯は一緒にどうかな? あ、アリーチェさんも誘って。どうかな……」
「うん。アダーツィが帰ってこなくてアリーチェさんはいつも淋しそうだから。良いかもしれないわ」
ピンは嬉しそうに何度も頷いたが、リューツィンとハトハは特に賛成するわけでもなく、皿の残りを平らげていた。
四人はその後数時間の間、会話を楽しんだ。リューツィンの娘が熱を上げている自称吟遊詩人の男の悪口や、妻との喧嘩の話。リューツィンに非があると言い、夫婦として夫はこうあるべきなのだと人生で一度も恋を叶えたことのないハトハが説教を始め、その度にピンとリューツィンの〝また始まった〟と言わんばかりのあけすけな表情がシーナの笑いを誘った。それを見てハトハは怒ったが、どれも本気の怒りではなくそれら一連の流れを楽しんでいるようだった。
シーナは悪口を言い合いながらも楽しそうにしている三人の姿に憧憬の念を抱き、その輪のあたたかみに触れて何度も笑った。
リューツィンとハトハの呂律が危うくなってきたところで解散となり、ピンは断るシーナを制し小屋まで送ると言い張った。シーナは少しばかし呆れながらも、酒に煽られ頬を赤く染めているピンと小屋を出た。
予想以上に寒さを湛えた夜の空には満ちたイレルが高く昇り、そのまん丸の姿を輝かせていた。風が一つ流れ、二人は揃って身を震わせた。ピンが毛皮のマントを自分から外し、亜麻のマントを羽織っているシーナの肩に優しくかけた。恥ずかしそうに鼻をすすりながらピンは前を向いて歩き始め、シーナも後に続いた。
「ありがとうピン。けど、わたしは大丈夫よ。あなたの方が羽織った方が良いわ」
震えているピンに返そうとシーナはピンの背中に近づいた。意識していなかったからなのか、夜の暗闇の中で曖昧に見えるからなのか、ピンの背中は大きく、とても頼れるものに見えた。
振り返ったピンは顎を鳴らしながら「大丈夫。寒い思いをして欲しくないんだ」と強がって笑って見せた。
「今日は……ありがとうシーナ。すごく楽しかった。その……」
黙ってしまったピンの言葉の続きがわからなかったが、シーナは言葉を返した。
「わたしの方がありがとうだわ。あんなに美味しい食事に、楽しい会話。あなたたちはすごく仲がいいのね。羨ましかった」
「明日も来てくれる?」
「うん。そうね、多分。アリーチェさんも誘ってみるわ」
小屋の前まで来るとシーナはピンにマントを返した。
「送ってくれてありがとう。それじゃあ……おやすみ」
「うん。送れてよかった。今日はありがとう。その――」ピンはもどかしそうにしながら息を吐くと、目を伏せて続けた。「シーナと話せて楽しかった」
「わたしも話せて楽しかったわピン。もう帰らないと風邪を引いちゃうわ」




