Episode-61
エヴァーツィは太陽が大地を二度撫でた次の日の朝早くに、西の野営地に一人で戻って行った。
もうすぐ種蒔きの時期だな。狩も増えれば実り多くなる。いい風が感じられる。待ちきれんな——片方の口角を上げるいたずらな笑顔はアダーツィそっくりだったが、そう言うエヴァーツィはどこか張り詰めたものを漂わせていた。
アリーチェはエヴァーツィが近くにいた時とは打って変わり、もの淋しそうな笑顔を見せることが多くなった。アダーツィはエヴァーツィが去ると同じ日に東の森に探索のために行ってしまった。数日は帰ってこない探索だと言う。なんとなく寂しい気持ちに駆られた自分に恥ずかしさを覚え、シーナは見送ることができなかった。
「寂しくなるわね」
「え?」シーナは素っ頓狂に返事をする。
「寂しくないの?」
アリーチェは、つっかえ棒で開かれた蔀から差し込む朝日を受けながら不思議そうに言った。
シーナは恥ずかしいものを隠すように、思わず目を逸らした。
「アダーツィは男前だからね。気持ちに素直になっていいのよ」
「でも、わたしはよそ者です」
「あら、私も同じようなものよ。親の私のことは気にしなくていいのよ。あの子もあなたのことを気にしているようだし」
シーナは自分の顔が熱くなるのを感じて目を瞑った。冷静に、冷静にならなくちゃ。こんなことで浮き立つなんて子供みたいじゃない。
「気があると言えば」
アリーチェはそう言って言葉を切り、入口の扉の方を見る。同時に扉が叩かれ、聞き覚えのある声がした。
「おはようございます! シーナ、起きてる? きっと今日も神秘の修行するんだよね? そう思って美味しいお弁当を作ってきたんだ!」
アダーツィが探索に行った後、シーナはアリーチェと共に連日キムリン川へ出向いて修行を行っていた。呼んでもいないが、ピンも大抵一緒だった。
最近ではアリーチェと過ごすことが増え、魔法使いの小屋に長居することは少なkなり、魔法使いは「捨てられた玩具はこんな気分なのか」と面白がりながらぼやいたりもしていた。そう言いながらも、治療士のパンナッツァとの会話と本を楽しむ安静の日々に満更でもない様子だった。
そんなある日、太陽が梢を昇りきった頃、最早お約束の場所とも言えるキムリン川の岸で修行に汗を流していたシーナは、杖を置いて一つの岩に腰を下ろした。
横にいるアリーチェは後ろを振り返り、自分がここにいて当然のような顔をして立っているピンに目を向けている。深緑色の亜麻のマントに身を包み、浮き彫りの装飾が施された長靴を履き、その手には四つ目編みの簡素な編み籠を持っている。小洒落た格好で、ピクニックでもしに来たような姿だ。
「ところでピン。今日も来たのね」
アリーチェは何も気持ちがこもっていない、乾いた石ころの上を歩くように何気なしに言った。ピンはわずかに胸を上下させ、平地を歩いたにも関わらず乱れた息を宥める。
「修行中にお腹が減ったら集中できないんじゃないでしょうか。それに今日は卵とベーコンのサンドイッチと、鶏肉の燻製です。燻製は僕が作った簡単な燻製器で作ったので、自慢できるものじゃないですけど。本当なら燻製小屋が欲しいところです。西の野営地にはあるのに僕たちの場所にはないなんて不公平ですよ」
「ありがとうピン。鶏肉が伝書鳩じゃないといいのだけどね」
シーナは小さく笑いを洩らしたが、ピンは恥ずかしさを含めた塩っぱい顔をして目を逸らした。
それも当然だった。野営地の伝書鳩は数が少ない上に、育成中のものがほとんどであった。にも関わらず、ピンは鶏肉料理がしたいがために現役の一羽を料理してしまったのだ。野営地の広場で香ばしい匂いを漂わせて丸焼きにされている伝書鳩を見た飼い主は、地面に膝をつき悲しみに顔を歪ませた後、面と向かってピンを大声で罵った。その騒動は野営地にいた全員の見せ物と化した。焼かれたら焼かれたで埋葬するのも勿体無いという意見も出て、飼い主は泣く泣く食する許しを出した。だがその一件で、伝書鳩の飼育の手間と情報伝達の重要性を考えられなかったピンの浅はかさが皆に知らしめられる結果となり、ピンはそのことに触れられると、いつでも穴に顔を突っ込みたげな顔をするのだった。
「でも、あなたが作る料理はどれも美味しいから歓迎よ」
ピンは恥ずかしそうに微笑むと、ぎこちなく手近な岩に腰を下ろした。
アリーチェはいつものように、シーナに風を感じるよう指示した。
指示された通りに、川岸の岩の上に胡坐をかき、見えないお椀をつかむような形で両手を足の上に置いて瞑想に入る。心の中で川のせせらぎを思い浮かべ、一定の流れをただ見つめるように心を平たく、かつ空間的に広げるように意識を軽くする。自らの呼吸が重なるごとに地面の感覚が薄くなり、座っていることも忘れた。隣を流れる川の音はあってないようなものに変わり、無と解放の境地に至る。わずかに流れる風が肌を撫でるよりも早くその存在を感じ取り、直後、感じた通りの風が首元を撫でて去っていく。風はわずかに人の世界の残滓を含んでいた。自然そのものの中に人の織りなす複雑な心――オルスの気配――を感じた。きっと野営地のものだろう。これを感じられたのは初めてだ――生き物の気配を感じたのは。
風が消えると、シーナの意識も揺らいだ。隣の川の音が体の中に響き、岩の固く冷たい感触を尻に感じる。自らの呼吸を感じ、シーナは目を開けた。
目の前には、シーナと向き合うようにして坐禅を組み、目を瞑っているアリーチェがいた。その目がゆっくりと開かれ、青い眼差しがシーナの眼を見据える。
「こんなにも長い時間瞑想できたのは初めてね」
アリーチェは微笑んでいる。そこにはいつもの暖かい風を待つ木のような淋しさはなく、純粋に楽しんでいる様子だった。
「そんなに長い時間ですか?」
アリーチェの不思議なほど鮮やかな青い眼に魅入りながら、上の空でシーナは尋ねた。アダーツィとは違う、眼そのものがわずかな輝きを帯びているかのように神秘的な眼は、以前デウリエ山脈に入る前に洞穴で遭遇した獣を彷彿させた。
シーナはアリーチェの視線が別の方向を向いたのと同時に我を取り戻し、その視線の先に目をやった。そこには寝心地悪そうな格好をしながらも、サンドイッチが入った編み籠を大切そうに抱えて寝ているピンの姿があった。
太陽は既に反対側に傾いていた。相当な時間、軽く四時間は立っているに違いない。ほんのわずかな時間にしか感じなかったのに。アリーチェがシーナの肩に手を置いた。
「少し遅いけど、お昼にしましょう」
三人は日の当たる灰色の滑らかな表面をした岩の上で昼食をとった。
ピンから手渡されたサンドイッチは冷たかった。杖があれば、魔法で温めることもできたのにな。あ、でも待って、いいものがある。
シーナは自らの鞄を漁り始めた。
鞄から出てきたのは灼延石で、カイザスモーンから魔法使いに贈られたものだったが、神秘が使えればより役立つ物だとして、魔法使いがシーナに譲ってくれたものだ。
二人の目線はシーナの持つ赤褐色のそれに注がれている。
「これは〝シャクエンセキ〟って言うの。デウリエ山脈を越えた先にあった高原で出会った友達から貰ったもの」
ピンは不思議そうな顔で、へー、と感心したように声を洩らし、アリーチェは興味深そうにそれを眺めている。
「見てもいいかしら?」
アリーチェは手渡された赤褐色の延べ棒のような形をした灼延石の表面を、感触を確認するように撫でた。そして感心したように息をつくとシーナに返した。
受け取ったシーナは灼延石が熱を持っていることに気がついた。アリーチェがオルスを灼延石に注いだのだろう。
アリーチェは南に見えるデウリエ山脈の方へ目を向けた。そして北に振り向くと、天を貫く比類なき大きさを誇る〈魂の山〉を見た。
「ヴェルグは死んでいないのね。今も実在し、太古の技術は受け継がれている。灼延石はヴェルグにしか作れない金属の一つなのよ」
「す、すごいね。売ったらどれくらいになるんだろう?」ピンはシーナとアリーチェの北風のような眼差しを受けて、「いや、ただ気になっただけだよ」と取り乱した様子で弁解する。
「でも、どうしてヴェルグは地上にいないのでしょう?」
「彼らは私達が暮らせないほど地下深くに住んでいるの。地下なら、私たちはいないから、生存競争する人間種が少なくなる。それに、ヴェルグは鉱物が大好きだからよ。山の中をくり抜いて住処を作るくらいにね。それに、地下は地上よりも広いから、彼らからしたらうってつけの場所なのよ。遥か昔、聖戦の時ですら地上の争いと言って加勢しなかったと言い伝えられているくらいなの。私が知っているのはこれくらい。大体の人がこれくらいしか知らないのよ。見たことがあるって言っても信じてもらえることは少ないわ」
地下の世界? シーナは知らない大きな世界がもう一つ現れたことに興奮し、想像をした。岩に囲まれた世界で鶴嘴を振るうカイザスモーンのように屈強な男達。地底種と言われるリデ・バガンのような想像すらできない生き物がすむ世界。家はどうなっているのだろうか? 岩をくり抜いて家にしているのか、天然の穴を使い家にしているの? どうやってあんなに硬い岩を掘るのかしら。
「シーナ? 上の空ね」
「へ? あ、どんなところなんだろうって想像していたんです。どんなところなんでしょう」
「僕は嫌だなぁ。暗そうだし、食材が石なんて言われたら気を失っちゃいそうだよ」指についた脂を舐めながらピンは言った。
「彼らは石を食べているわけではないわよピン。彼らも人間種、同じように肉も食べれば水も飲む。地上に出てこないのは、地下にも動物がいるからよ。地下には緑色の物は無いって言われているの。あるのは銀色の森、銀の葉と黒曜石の枝をしている〈銀葉樹〉と言われる木があるって聞いているわ」
「地下に木が生えてるんですか?」
「姿形はわからないけどね。神話に出てくる八本の秘霊剣は〈銀葉樹〉の葉でできているなんて云い伝えられているのよ。〝三つ輪の業の子、秘霊剣、神羅万象絶ち繋ぐ〟。秘霊剣由来の諺がたくさんあるわ」
「銀って、普通の銀なんでしょうか?」
「わからないわね。見たこともないし。森人の伝説に出てくる〈叡智の大賢人ヴァングレール〉がその剣を作れたと言われているのよ。透けるように輝く一対の銀色のその剣は、一振りで山を断ち天を跪かせる……。男の子が喜びそうな話ね」
「ヴァングレールは神様なんですか?」
「守人の間では……そうね。神は誰でもなく、あくまで命の流れという最も尊ぶべき存在だけど、知識や何か理解不能な不安に襲われた時は、〝大賢人ヴァングレールよ、力をお貸しください〟なんて祈るわね」
「〈叡智の大賢人ヴァングレール〉。実在したんでしょうか……。でも、やっぱり山を断つっていうのは、明らかに語り草としての誇張に聞こえますね。でも実際、想像すると女のわたしでもわくわくします」
「わくわく? シーナは戦いに、力にわくわくするの?」
シーナは困惑した。アリーチェは微笑んでいるが、一瞬だけ目に敵意のような冷たさが揺らめいたからだ。何か重要な道を選ばなければいけないような気がして、言葉が出てこなかった。
だがその空気はピンの興奮気味な声にかき消された。
「それはそうですよ! そんな剣あったらどんなやつだって一捻りですよ! シーナもアルムシアが好きなんです。わくわくするに決まってる! するよね、シーナ?」
シーナはピンの興奮の波に呑まれて、つられるように頷き笑った。アリーチェは子供を嗜めるように小さく微笑んだようだったが、シーナはその目を見るのが怖くて目を向けられなかった。
三人はその後も談笑しながら食事を続けた。食事も終わり、ピンが陽の光で暖められた岩の上に横たわる。シーナも眠気を感じて微睡みの中を漂った。アリーチェは風を感じ目を瞑った。
「さぁ、今日はもう帰りましょう」
傾き始めた太陽を見ながらアリーチェは立ち上がり、ズボンをはたきながら二人を見下ろした。
シーナとピンが荷物を纏めている間、アリーチェは川の反対側の森――東の方を見つめていた。葉もないブナの木が立ち並ぶその森の先は、アダーツィが数人と数日掛りの探索に出て行った方だ。〈霊樹の森〉が広がる、神秘的な森。美しくも獰猛な霊獣が支配する未開の地に行ったアダーツィを案じているのだろうか。
シーナはピンよりも早く用意を終わらせると、荷物を背負いアリーチェの横に歩み寄った。
「アダーツィが心配ですか?」
アリーチェはゆっくりとシーナに振り向いた。いつもの淋しげな微笑みだ。
「もちろん」
そう言うとシーナから目を外し後ろを見た。それと同時にピンの「お待たせしました」と焦り気味の声が聞こえ、一行は野営地に戻るために森に入って行った。
野営地に着くとアリーチェは、用事があるとのことで早々に別れてしまった。ピンとシーナは広場に残され束の間の沈黙を挟んだが、ピンがシーナの前に歩み出て正面からシーナを見据えると、何かを言いたげに口を開きかけた。
「今日はお弁当ありがとう。さすが、料理士だわ」
ピンは調子を狂わされたかのように吃りながら、弱々しい笑顔を作りながら答えた。
「そんなことないよ、あんなのシーナにでも作れるよ」
シーナの頭をわずかに傾けて湛える微笑を見て、ピンは慌てて付け加えた。
「いや、シーナが料理ができないってわけじゃなくて、その、料理士じゃなくても作れるって言いたかっただけで……」
人生最大の失敗を起こしたかのように苦渋に顔を歪めるピンを見てシーナは笑いをこぼした。
「大丈夫。ピンが作ってくれたものより美味しいのを作る自信はないけど、これでも料理はできる方だと思う」村にいた頃は料理をするのは当たり前だった。
「あぁ、良かった。シーナの料理も食べてみたいな。どんなのが得意料理なの? お菓子とか作るの?」
「えーっと……」
またしてもピンはシーナの困惑した表情を見て後悔の念に顔を歪めると、取り繕うように乾いた笑いをころがした。
「ごめんね。つい、話すのが楽しくって。今日はもうお師匠さんのところに行くの?」
「うーん。けど、最近は寄っても〝また来たか〟って顔でわたしを見るのよ。本の虫みたいだし、今日はこのまま戻ろうかな」
「そ、それなら、シーナがよければなんだけど、夕飯を一緒にどうかな。僕の小屋にいる人達と一緒になるけど」
少し不安そうに目を泳がせてから、シーナは頷いた。ピンは嬉しそうに顔をほころばせ頬を紅潮させると、シーナについてきてと言って歩き始める。




