Episode-60
白い陶器の底が少し深めに造られ、繊細だが簡素な金色の装飾が描かれた皿に、熱いスープがよそわれた。
「これをアダーツィに運んであげて貰える? 寒いだろうから、厚手のマントも持っていくといいわ」
シーナはアリーチェの心配そうな色を湛えた目を見て頷いた。
外に出て辺りを見回してみたが、アダーツィの姿は見えなかった。森の中に入って行ってしまったのだろうか? シーナは不安な気持ちと、両親と食事を共にする貴重な時間に、なぜアダーツィが不満気な様子をしていたのか不思議だった。
広場の真ん中辺りまで歩いたところで、声が聞こえたような気がして立ち止まると、耳を澄ませた。
「こっちだよ」
近くの小屋の屋根の上を見上げると、そこにはアダーツィが座っていた。雲ひとつない夜空に輝くイレルを背にしたその姿はまるで貴公子のようだった。村の男がそんな状態なら一笑で澄ませただろうが、シーナは釘付けになった。アダーツィの冷たい目と、どこか悲しみが含まれた微笑みは、夜に君臨するイレルの光の美しさを顕現させたようだ。
「手を貸すよ」
アダーツィは切妻屋根の斜面を降りてきて、手を伸ばした。その顔は先ほどの姿が幻だったのかと疑うのが当然のごとく、いつものいたずらな笑顔を浮かべていた。
「あったかいスープまで持ってきてくれるなんて嬉しいな」
シーナはアダーツィの手に掴まると、自らも登ろうと壁に足をかけようとしたが、いとも簡単に引き上げられ驚きの声を上げた。
「軽いね君は」
片腕でシーナを持ち上げたアダーツィは微塵の疲れも見せていない。川に落ちた釣竿を拾うかのように飄々としている。シーナは思いもよらない力強さに、なぜか恥ずかしさを覚えていた。
二人は会話もなく、夜空に浮かぶイレルを眺めながらスープを食べた。スープの湯気も中身も少なくなった頃、最後の一口なのであろう芋を匙にのせたまま出し抜けにアダーツィが口を開いた。シーナはそれを待っていたかのようにイレルを見上げているアダーツィに顔を向けた。
「〝月の化身〟って物語は知ってる?」
シーナは匙を持っていた手を止めてアダーツィの方を振り返った。
「ううん、知らないわ」
「架空の星を舞台にした物語の中に、月っていう星が出てくるんだ。まぁ大体はイレルと同じような見方がされてるんだけどさ。その物語は面白いんだよ。人がその星からやってきた侵略者と戦うんだよ」
そう言って、アダーツィはシーナほうを振り向いた。その顔は楽しそうに微笑んでいる。
「実は俺も本を読むんだよ」
「隠してたの?」
シーナは心底不思議だった。アダーツィはそれを汲み取ったのか、自嘲気味に話し始めた。
「俺は生まれてから狩人以外になるなんて考えたこともなかった。だから、毎日森をかけっこしたり、木に登ったり、弓の練習をしてたんだ。だからそういう友達しかいなかった。その輪の中では、本を読むのは外で遊ばない軟弱者の証だったんだ。一度それで虐められてさ。大人なんかは皆本を読んでるのに、なんで虐められるのが理解できなかったけど、大人になれば堂々と読めると思ってた。でもさ、十九歳になって狩人になっても世界は変わらなかった。当たり前だよね、そういう世界で生きて、腕の力比べしか能がない連中が殆どなんだからさ。でも狩人の知識のために読んだりはするけど……。作り話は子供の読むものだってみんなして嘲るんだよ。だから、言えなかったんだ」
「わたしも村では皆に……特に同世代だったけど、よく馬鹿にされてたわ。本は寝台の下に隠していたし、行商人の人から買う時には誰も見ていない時に買っていたもの」
アダーツィは安心したように笑いを洩らした。匙で芋を突っついている。
「実はさ、俺もアルムシア伝記は読んだことがあるんだよ」
「そうなの?」
シーナは顔を輝かせてアダーツィの顔を覗き込むように見た。アダーツィはいたずらな笑顔を見せながら言った。
「あれは誇張された部分があるだろうけど、本当の話なんだってさ」
シーナは自らがその話が作り話だと気づいた時の落胆を懐かしむように微笑むと、嗜むように言った。
「ううん、あれは作り話だわ。そう聞いたし、ああやって書く物語もあるって。伝記風の本ってことかも」
アダーツィはいっそう笑みを強くした。
「アルヴェ暦が始まる前の話だけど、〈アルムシア〉は混血だったんだって。あの伝記は何もかも失った少女が、人々のために命をかけて戦い、最終的に讃えられて名誉と幸せを掴んで終わるけど、実は聖戦後に〈守護者〉になってたんだって。しかも、〈守護者〉をやめて外界と共存することを選んだ最初の森人達を率いた張本人。びっくりだろ?」
「それが本当だとしたら、どうしてそんなことを知っているの? 続巻があるの?」
「言ったろ? 俺の母さんは森人だったって。森人の集団である一つのアルハルの長の娘だったんだ。だから森人の歴史にはすごく詳しいんだ。俺が小さい頃、森の中で隠れてアルムシア伝記を読んでる時に母さんが俺を見つけてさ。その時に教えてくれた。誰も知らない秘密を知ったみたいですごく嬉しくて興奮したの覚えてるよ。一人でにやにやしちゃってさ。ほら、誰にも言えなかったし……。今初めて言ったんだ」
アダーツィは唐突に、鼻の下を指でこすりながら咳払いをして恥ずかしそうに笑って見せた。シーナはその話を信じたい気持ちで胸が高鳴ったが、山や谷があるように、作り話に胸を高鳴らせ落胆する辛さは忘れられない。これは谷だ。それでもアダーツィは信じているんだわ。
「本当だといいな」
アダーツィは心外だと言わんばかりの視線をシーナに浴びせたが、最後の一口の芋を口に運ぶとイレルを見上げた。
「混血ってことは、神秘が使えたってことかな? 本の中では一度もそんな不思議な力は使わなかったと思うんだけどな」
「そうだよね。なんでなんだろうって思ったけど、剣と盾を持つ戦乙女の方が、物語的には面白いからかも? あ、もしかしたら、神秘で身体能力を上げてたのかもしれないわ」
「そんなこと、できるのか?」
「アリーチェさんが夜目が効くのも神秘の一つだって言ってたわ」
アダーツィは急に冷めたようにイレルから目を逸らし、葉のついていない枝だけの木々が立つ不気味な森に目を向けた。
「そっか、そういうことも教えてもらってるんだね君は」
「え?」
「教えてもらってるんだろう?」
シーナは困惑した。村にいた時に円屋長のフィムスに頼まれた物を確かに持って行ったのに、違うと機嫌を損ねられた時のような気分だ。あの時は怒りが湧いたが、今はアダーツィに対して謝りたい衝動に駆られた。
アダーツィか自らを押し殺すように息を吐いた。口は一文字に固く閉じられ、顎
の横の筋肉が隆起している。と、途端に緩んだ。
「俺は母さんに神秘を教えてもらえない。俺だって、教えてもらえば神秘が使えるはずなのに」
シーナは慎重に、時間を置いてから気遣うように口を開いた。
「お願いしても……無理なのかな」
「男は力の扱いが下手だとか、危険だとか言ってはぐらかす。ただ、狩人として、国を守る一人の男として求めてるだけなのに、母さんは理解しない。父さんも何も言わない。神秘には詳しくないと言ってね。森人だった母さんの話に従うのが賢い道だって言ってね。君は防衛手段として魔法を覚えてるんだろ? 神秘だってそうだろ? なのになんで君には教えるんだ?」
アダーツィの言葉には棘と熱が一切隠されていなかった。どう触れても割れた瓶の鋭い部分を触ってしまう。そう思わせる感情を纏っていた。シーナ自身にも理由がわからない。だから、どうしたらいいかわからなかった。下手に何かを言ったらアダーツィが簡単に離れて行ってしまいそうな気がして。アダーツィに嫌われたくない――シーナは自分の中の気持ちの正体に気づいたような気がした。
「母さんが決めたことなんだ。わかるわけないよな。ごめん。ただ、俺は……なんか悔しくってさ。息子に教えないのにシーナには教えたっていうのがさ。寂しそうな顔をする母さんを見ると時々思うんだよ――」アダーツィは苦しそうに、険しく目を細めた。「なんでもない。今夜は少し寒いな」
アダーツィは自らの毛皮のマントをシーナに被せた。
その毛皮のマントから伝わる温もりが嬉しくも、シーナの胸の中はアダーツィの哀しみの波に触れて、かすかな哀憫に軋んだ。




