Episode-59
野営地に着く間にアリーチェとシーナは森の中でピンと出会い、一緒に帰ることとなった。ピンは森の中で迷ってしまったようで、シーナの灯りを見て急いで走ってきたのだという。ピンが走ってくる時の音はとても重厚感があり、一瞬大きな獣かと思い、身構えるほどだった。
野営地に着いたのは、梢よりも高い位置にイレルが登り、その神秘的な夜の銀光に大地が包まれた頃だった。
ピンは野営地に戻ったのと同時に自らの小屋に戻って行った。真ん中の広場には人の姿は見られない。夜の帳が下りた野営地は、小屋から漏れる部屋の明かりだけが微かに人の営みを感じさせる。
浴場小屋からは白い湯気が道に迷ってしまったのか、今にも消えてしまいそうな姿を、冷たい大気の中を弱々しく揺れながら昇っていた。
紅茶色の革の上着を着込み、その上から厚手の亜麻のマントを羽織っている見張りが一人、松明を手に持ち、腰の剣の柄に空いた手を置いて歩いている。風が感じられない、不気味なようでのどかな夜だった。
アリーチェの小屋からも部屋の明かりが洩れていた。それを見て、表情は変わらずともアリーチェの歩は大股になった。
シーナとアリーチェの二人が小屋の扉を開けると、中には快談しているアダーツィとエヴァーツィが酒の杯を手に座っていた。エヴァーツィはアリーチェを見て渋みの走る男の顔をほころばせて立ち上がると、何も言わずに大股で近づきアリーチェを力強く抱擁した。アリーチェは体を預けるように身を委ね、エヴァーツィの首に腕を回して強くそれに応え、可憐な面持ちで顔を上げた。
シーナは見ているだけで恥ずかしくなり、一人で無意味に杖を握り直しては、また握り直した。アダーツィは嬉しそうに二人のその姿を見ている。だが、シーナに気がつくと手招きをして入ってくるように促した。それでもシーナは溶け合うように抱擁し合う二人の横を通る勇気を奮い立たせることはできずに、時の流れをただやり過ごすように地面へと目を落とした。
「エヴァーツィ……」
「アリーチェ……どれだけ逢いたかったか」
二人は体を僅かに離して見つめ合った。その腕は二度と離れたくはないという想いを体現するかのように相手の腕を握り合っている。ふとエヴァーツィの目線がシーナに注がれた。シーナはそれに気付かずに、まるで石が隠れたがっているかのように黙って下を向いている。
「君がシーナだね。私はアダーツィの父エヴァーツィというものだ。よろしく頼むよ。君の師匠さんとも話して来たよ。まさかデウリエを越えて来たのがこんなに華奢な女性だとは思わなかった。だが、見かけによらず強いようだ。さぁ、中に入ってくれ」
シーナは中に入ると、扉を閉めた。アリーチェとエヴァーツィは見つめ合い、溢れ出る愛の陽気に微笑みながら額を重ねると、いたずらな笑みと視線を交えてからようやく離れた。
「随分と早かったのね」
アリーチェの声は幸せと楽しみそのものを奏でたように生き生きとしていた。アダーツィは両手を広げ、こぼれそうになった酒の杯のことを気にもとめずに、僅かに赤く染まった顔でわざとらしく大義そうに言った。
「昨日の夜に向こうの野営地に着いたばかりでへとへとなのに、父さんは朝には発つぞって言ってさ、普通二日かけて行くのに俺は一日で行ったんだよ? それなのにまた一日で帰ってくるなんて、父さんは本当に優しいよ」
「ついてこれたのはすごいぞ、立派になったもんだ」エヴァーツィは太く耳触りの良い声で笑って言った。
「でも、それだけ何か急ぎのことがあるんでしょう?」
アリーチェは少し心配そうな顔をしてそう言った。シーナはこの短時間でアリーチェの色々な表情を初めて見た。今まではどこか寂しそうな、老成な色を湛えたところしか見たことがなかったのに、こんなにも生き生きとした姿をするなんて。驚きつつも先の二人を見て納得した。駆け落ちするくらい好きな人が帰ってきたんだもん。当たり前だわ。
「そうだ、急ぎの用があってな。最近は西の野営地で問題は起きていないが、ここはどうだ?」
「なにも変わりはないわね。獣の気配も感じない。とても静かよ、土の季に佇む木になったような日々よ」
アリーチェはうら淋しそうに口吻を洩らした。エヴァーツィはその言葉に、慈愛と感謝が混ざったような熱い眼差しで応えた。エヴァーツィの猟団長であり隊長である矜持を理解しているのであろうアリーチェは微笑んで見つめ返す。エヴァーツィはその微笑みに優しい口づけで応える。
見ているこっちまで恥ずかしくなるわ——シーナは二人のやりとりから、心の繋がりの強さと美しさに感動すると同時に羨ましかった。恋をしてみたい――そう思った。
アリーチェは寝台に腰掛けると、酒の杯を手に持ち言葉を続けた。
「今日はキムリン川で、シーナに神秘を教えていたの」
全員の視線がシーナに注がれて、シーナは恥ずかしがりながら頷いた。エヴァーツィは少しの驚きと興味の色を湛えた。アリーチェは何かを思い返すような眼差しだ。アダーツィは赤らめた真顔でシーナを見てから、咎めるような不服を交えた目をアリーチェに向けると、酒を呷った
「そうなのか、シーナは……シーナと呼んでも良いかね? ありがとう。シーナは神秘を使えるのか。デウリエの向こう側にも森人がいるのかね?」
「わかりません。わたしは辺境の村で育ったので……師なら何か知っているかもしれません」
「そうか。神秘は珍しいものだからね。シーナは神秘をどこまで――」
「エヴァーツィ、私達はお昼から何も食べてないの。シーナは華奢だけどよく食べる子なのよ。きっともうお腹が限界のはずよ」
シーナは小さい声で否定して見せたが、実際はもう限界だった。今にもお腹がなってしまいそうだわ。
アリーチェが食事の支度を始めると、シーナはそれを手伝った。アダーツィはつまらなさそうに手の内で揺らしている杯に目を落としている。
「俺、外の空気吸ってくる。なんか暑いからさ」
アダーツィは作り笑いのように味気なく微笑むと、壁に造られた木製の鉤にかけられたマントを引っ掴み外に出て行った。




