Episode-44
雲ひとつない空は太陽を抱きながらも色が濃い。シーナはカイザスモーンから贈られた銀色の杖を雪の地面に突き刺すと、感情や意思を感じさせない無の冷たい空気を吸い込む。
体を通り越し心にまで染み込んでくる空気を、限りなく吸い続けたいという欲求をそのままに、鼻腔を広げ肺に空気を送り込む。限界まで送り込むと、体の血管の先まで染み渡っていくような感覚を感じる。その自然の甘美に微笑んだ。大自然を取り込んでいく感覚を堪能し、それが薄れていくと同時に、鼓動が強く脈打ち、体が次の空気を欲してシーナを急かす。
わたし、生きてる――思い切り息を吐いた。白い吐息が大きく広がりあっという間に消えていった。
細かい光を反射させる雪面に時折覗かせる岩は真っ黒に染まっていて、辺りの雪とは正反対な色や性質を持っているのに、その場所にあっても違和感を感じさせない。そんな自然の調和に感心した。
日陰になった斜面は青白い色を帯び、雪の斜面の更に下には霧氷を纏った針葉樹の木々が立ち並ぶ高原が広がっていた。今日はあそこまで降りて、更に北へと向かうのだ。
白い吐息を弾ませながら、全てを新しく築いていく北の大地へ視線を飛ばした。
向かうべき北の大地には未だ命の息吹は感じられない。だが、後いくつかの星を越えれば風の季の来風星が訪れて、森の中が命の息吹に包まれる。朝露を纏った葉に蕾を膨らませひっそりと佇む花々、雪解け水でできた小さなせせらぎと、太陽の光が差し込む森森とした森の空気。鼓動が耳を楽しそうにうつ。
その更に北、茫洋と見える山々がある。その山々は家族のように寄り添い、その真ん中に山という一言で片づけられない大きさの雄峰が一つだ聳え立っている。〈紅の王〉だ。師が言うには〈偉大なる厳父〉、カイザスモーンが言うには〈魂の山〉。あれほどの大きさなら、離れた地でいくつもの偉大な名前がつくのも頷けた。
シーナが心を馳せているちょうどその時、眼下にいる魔法使いが態勢を崩した。そのまま斜面を落ちていく。勢いを殺せずに転がったと思いきや、無理して立とうとしたがために魔法使いの体が一回転した。それでも勢いは殺せず、それどころか手足が広がってしまうほどに回転力がついてしまい、石のように転がっていった。木の棒がめちゃくちゃな動きをしながら転がるかのようだ。とんがり帽子も飛んでいき、杖も手から飛んでいった。
「し、師よー!」
最後まで滑落して、投げられた雑巾のように力なく手足を放り出して動かない魔法使いを見て、シーナは本気で心配の声をあげた。
嘘でしょ、こんなことで死ぬわけがないわ。あぁ、大丈夫かな。
シーナは慎重かつ迅速に斜面を滑り降り、魔法使いの元に走りよった。
「大丈夫ですか! 生きてます? 生きてますよね?」
恐る恐る魔法使いの背負い袋を掴んで体を横向きに起こす。魔法使いは目を半分開いてシーナを捉えると、糸のように細い苦痛の呻き声を絞り出した。
シーナは安堵の息を最後まで出し尽くして、乾いた笑いを洩らした。魔法使いは痛みを恐れるようにゆっくりと腕を動かし唐突に苦痛の呻き声を上げる。
「少しこのままにしてくれ」と言って辺りを見回した。「杖はどこだ。転がり始めた時に手放してしまった」
シーナも辺りを見回し、魔法使いが転がってきた方向を振り返る。
「斜面の途中に落ちています。取ってきますね」
シーナは降ろした自分の荷物から、斜面を登るために杖を引き抜くと杖の元へ向かった。転がり落ちた魔法使いの杖を手に取ったその時、はるか高くの頭上か、足元か、空気の衝撃のようなものを感じ、続いて轟く音が聞こえて上を見上げた。
そこには、今まさに山肌が切り取られたかのごとく、雪崩が落ちてきていた。
咄嗟に、眼下に横たわる魔法使いの姿を見た。魔法使いも体をこちらに向けて、驚愕と畏怖の目で上の雪崩を見つめていたが、その目がシーナに向けられ、二人の視線が重なった。
シーナは魔法使いの目に諦めを見出したが、シーナの心には強き意志と怒りが迸った。
次の瞬間、シーナは雪崩に向き合い、魔法使いの黒い木の杖と、自分の銀色をした杖を雪崩に向けて天高く掲げた。
魔法使いは、ここまでかと諦めていた。カリヌに誇れる人生をおくれなかった悔しさと、シーナのそばに立ち、彼女の背中を押すことができない悔しさが心を締め上げた。杖を掲げる弟子の後ろ姿を見て、魔法使いは涙を滲ませて言った。
「すまない……」
だが次の光景に魔法使いは目を瞠り、美しい光景に息を呑んだ。
シーナは怒りに燃えていた。今まで味わったこともない怒りだ。父親と母親が焼き殺された悲しみの怒りよりも、不運で仲間のいない村で生きることになった運命に覚えた怒りよりも強い。今まで自分の心を鍛えてくれた自然に対してのこの怒りは、命を奪われることへの怒りだ。無慈悲で不条理な自然の力に対しての怒り。シーナは歯をむき出し、本能のままに唸った。だがその怒りは鉄を溶かすほどの熱を持ちながらも、デウリエ山脈の氷よりも冷たい。
死んで、たまる、もんですか!
胸の内側、体全体に漲る熱くも冷たい力をかき集めた。心の内側に集め、圧縮し、集めてさらに圧縮する。それは考えるよりも早く、命が火花を散らしているかのように感じた。右手に持った魔法使いの杖の宝珠が白く目に刺さるほどの光を放ち、
左手の銀色の杖の八面体の美しい宝珠も、同様の光を放っている。シーナは心の中、意識の中に脈動する濃密であたたかい光の塊を感じた。
想像し、感じて、解き放つ!
何もかもを切り裂きく強靭な風の刃を想像した。自分がそれそのものになり、雪崩を掻き分けて山すら穿つのを想像した。シーナは溢れ出る怒りの声を上げ、宝珠と宝珠を近づけ、その間に己の内側で猛る光を集めた。
「わたしは生きる!」
そして、ほとばしる光の塊を飛ばすように天高く掲げた杖を渾身の力を籠めて振り下ろした。
シーナの魔法は、杖から離れた途端に縦長に変形し、地面を穿ちながら目にも止まらぬ速さで山を駆け上がり、大自然の圧倒的で暴力的な雪崩をもろともせずに斬り裂いた。
自然の暴力は地面を揺るがすほどの悲鳴をあげて左右に吹き飛ばされ、衝撃と熱によって霧散した雪は宙高く舞い、辺りに立ってはいられない風を撒き散らす。やがて、霧散した暴力は細かい銀色の光を放つ雪となって辺り一面に降り注がれた。
シーナと魔法使いの左右に雪崩は流れ、折れた木々が呑み込まれていた。
魔法使いはあまりにも現実離れした光景を目にして、雪崩がおさまった後も息をするのを忘れていた。降り注ぐ細かい雪の中、太陽の光が淡い光を投げかけ、やがて快晴の空が現れた。
シーナの起こした魔法を超えた神秘は、山の頂に至るまで爪痕を残していた。雪がなくなり、穿たれた岩が露出している。その現実離れした異様な光景を眺めていた魔法使いは、大事なことを思い出して目を下に走らせた。
シーナはその体に雪を積もらせて横たわっていた。
「シーナ!」
魔法使いは指の間からこぼれ落ちる水が、シーナの魂だと言わんばかりに、痛む体に鞭を打って雪の上を這った。
まさか、まさかオルスを使い果たしたのか? 死んでしまったのか? なんということだ、シーナ! オルスを極限まで使ってしまうとどうなるかは、身を持って知っている。
魔法使いはシーナの近くまで這って進み、シーナ顔に積もった雪を撫でるように優しく払う。囁くように震える声で名前を呼んだ。その肌は氷のように冷たいが、額には髪の毛がへばりつくほどの汗をかいている。虫の息だが、確かに生きている! 生きているぞ!
魔法使いは己の杖を握ると、風を生み出し、火の魔法と組み合わせその風を暖かくすると、シーナを包み込む。ここにいても助からない。どこか風を凌げる場所を探さなくては。
魔法使いはシーナを運ぶために、足を引きずりながら木を集め自分のマントを使って即席の担架を作った。担架といっても、太い枝と枝の間にマントを張り、その上にシーナと荷物を載せて、細く切り裂いた毛皮をつなぎ合わせて牽引する簡単なものだ。
魔法使いは空を見上げて、とんがり帽子を被った。まだ日は高い。痛む体に鞭を打ち、白い息を短い間隔で吐きながら北を目指して、後ろの担架で眠るシーナを気遣いながら必死に歩いた。
何時間歩いただろうか? 魔法使いはシーナを想う気持ちだけで、休憩らしい休憩を取ることなく歩き続けていた。高原はなだらかな下り坂になっていて、そのおかげでこれまで歩いてこれた。だが、地面の雪は薄くなり引っ張るのが難しい。右手が破裂しそうな痛みを発し始めてかなりの時間が経った。もう意識もまともに続かない。
魔法使いは未だに進んでいるつもりであったが、その一歩は蟻よりも遅かった。体は左右に振れて、目は半分しか開いておらず、涎が髭をつたう。
魔法使いは一歩、一歩、確実に踏み出していたが、ついに力尽きて倒れた。もはや腕も足も動かず、息をするのもやっとだった。
雪を踏む足音が意識のどこか遠くで聞こえた。足音は近づいてきているようだが、意識は色々な思考が混在する靄の海に力なく溶けていった。




