Episode-43
東の真っ黒で鋭い峰の向こうの空が青白く染まっていた。シーナはすでに身支度を整え進みゆく白き道を眺めていた。
峻厳な雪山の峰を二人は歩く。白にも近い橙色の鋭い陽光が右の峰から二人を射抜き、地面には落ちない影が二人の体の後ろへ伸びる。毛皮のマントのフードが風に揺られ、その隙間から凍てつく自然に鍛え上げられた冷徹な目が覗く。口元を覆った厚い布は凍って霜が張り、立ち止まれば死に落ちる、そういった厳しさを体現させている。
高原からこの峰に登り始め、もう少しで頂上に着く。そのとき、吹雪が二人を呑み込んだ。体を大きく煽られて、腰まで覆う雪の中で身を丸めた。その足取りは慎重でありながらも、一歩一歩に魂を賭けるようなものだった。弱みを宿らせればたちまち吹雪に支配され、心は転落してしまう。魂は綱渡り状態だ。
極限の世界において命を左右するものは精神力、それをシーナはこの旅で痛いほど学んだ。
そんなシーナの踏み出した足が止まった。ほんの少しの気の緩みで、均衡していた体の流れは乱れて止まる。精神の乱れは理解するよりも早く肉体に影響を及ぼす。
一歩一歩を力強く踏み出して魔法使いの後を追うシーナと背中を見せる魔法使いは、まるで親の姿を見て必死にしがみつき成長していく子と、子を信じて道を切り拓く親子の縮図のようだった。
この旅で、この娘は本当に強くなった。
魔法使いは感慨深い目で近づいて来るシーナを見た。シーナは立ち止まると、何事かと尋ねるように見上げてきた。その目は怯える子鹿ではなく、露ほどもためらうことなく剣を振るう戦士の目にも似た鋭さを持っている。敗北のを味わい、尚も進み続けようとする挑戦者の目だった。
魔法使いは吹雪で掻き消される中笑い声をあげ、シーナの肩を力強く握った。誇らしい子を褒めるように。シーナはその手を力強く握り返した。魔法使いは己が何をすべきかを改めて悟った。何もかもを捨てそうになったが、今この瞬間に果たすべきことを決意した。数日前、自らの魔法で命を断とうとして昏睡状態に陥り、その中で見た悪夢の中で感じたこと。目覚めた後にカイザスモーンと交わした言葉が、風のように頭の中を過ぎ去っていく。
――シーナは神秘が使える。ルヴァの血が流れているんだ。俺様は三百年ここを見守ってきた。〈神無き地〉から真実を求め、世界に〈繋ぐ者〉が現れるのを。お前やシーナのどちらが〈繋ぐ者〉なのか、本当に〈繋ぐ者〉なのかはわからねぇ。だけどお前達は〝運命に導かれてる〟。
二人は山を越え、山腹を下り始めていた。眼下には霧氷で覆われた針葉樹林が広がる高原が北に延びていた。陽の光を浴びて高原全体が小さな銀光を散りばめている。
魔法使いがポケットから何かを取り出し、振り返るとシーナに投げ渡した。
「これはなんですか?」
「灼延石だそうだ。カイザスモーンが贈り物として渡してくれた物だ。向けられた魔力の量に応じて、熱と光を一定時間放ち続けるものだという。私よりもお前が持っていた方がいいだろう。カイザスモーンから聞いたぞ。神秘が使えるようじゃないか。なら、私よりもそれをうまく役立てるだろう? 私は焚き火の方が好きだからな」
シーナはどう答えたらいいかわからなかった。神秘を扱いたくても無理だと、いくら努力しても叶わないと言われた人の気持ちを考えると当然だった。
「嬢ちゃんは、シーナは村の生まれなのか?」
シーナは訝しんだが、顔には出さなかった。なぜいきなりその話なのだろうか?
「なぜです?」
「村で生まれた人間が、どうして神秘を使えるのか、ふと疑問に思ってな」
「奇跡なんじゃないでしょうか? わたしが神秘を扱えるのは。扱えると言っても、自分のオルスを感じられて、石に宿るルスもわずかに感じられるってだけですけど」
「バーインスやシルヴィアンス、カリャクス……。どこも魔法に優れているのは皆、王家だった」
「わたしが王家とでも言いたいのですか?」
「そうは言っていない、ただ、村で生まれたのか? と尋ねただけだろう? なぜ王家の話が出るとむきになるのだ?」
「むきになってはいません。ただ詮索されるのが嫌いなだけです。師だって、名前すら教えてくれないじゃないですか。もう知ってますけど。ゼークスと言うんでしょう?」
魔法使いは一瞬足を止めたが、すぐに歩き始めた。
「本の最後に、ゼークスとカリヌ著って書いてありました。あぁ、ただ盗み見したわけじゃないですよ? 師が熱にうなされていた時にじっとしているのはできなくて、扱える治療の魔法を探していてたまたま見つけたんです」
魔法使いは少し黙っていたが、何かに恐れているのを隠すような低く慎重な声で言った。
「そいつは死んだ。その名を二度と口にするな……。お前はその名の何を知ってる?」
「何を? 何と言われても……。カリヌさんを愛していて、村から飛び出た向こう見ずな娘の面倒を見るようなお人好しの魔法使いさん。くらい」
「そいつは死んだ奴の名前だ。もう二度とその名を口にするな」暗い声で魔法使いは言った。
シーナは、カリヌとの思い出を思い出させて辛い気持ちにさせたのかもしれないと考え、罪悪感を感じながら魔法使いの背を追った。
「師よ。わたしは村の生まれではありません。六歳の時に、婆やに連れられてあの村に引っ越しました」
シーナは魔法使いの方を見ずに、霧氷に覆われた高原を見ながら言った。横に立つ師の視線を感じる。
魔法使いが何も言わないことに気まずさを覚え、シーナは魔法使いを振り向いた。そこにはなんとも言えない表情――憐れみ、後悔、悲しみにも見える――があった。魔法使いの目は雪の斜面の光のせいか、感極まった人間のように輝いていた。
「そうか。よそ者としての生活は楽じゃなかっただろう」
シーナは自らの苦悩を慰められたかのような気がして微笑んだ。
「はい。でも、師がきてくれたおかげで、今、わたしはここに立ち生きています。ありがとうございます」
「なに。いいんだ。最初の頃よりもだいぶ軽い荷物になった」魔法使いは微笑んで言った。




