Episode-41
土人に造らせた半球状の室の中で魔法使いは眠れずにいた。風がしのげるといっても雪の上では寒さは凌げない。幸い厚い毛皮のマントや衣服のおかげで凍えるほどではないが、寝れない理由は寒さのせいではなかった。
眠ればまたあの女に遭ってしまうかもしれない。底知れない小さな恐怖に身を震わせる。
「師よ、わたしのマントをかけてください。わたしは大丈夫です」
あぁ、私が寒さで震えたと思っているのだな、優しい子だ。シーナの暖かな気遣いに心を綻ばせる。
「いいや。ありがたいが遠慮しておく。嬢ちゃんに風邪を引かれても困るからな。それに寒くて震えたわけではないぞ。武者震いだ。あの峰を越えたらどんな世界が待っているかを想像したら、ついついな」
シーナの洩らす小さな笑いを聞きながら、魔法使いは目を瞑った。瞼の裏にあの女の淡い輝きを帯びた桃色の目が現れ、思わず目を開く。真っ暗な雪の室の壁が目に映り、眠れないもどかしさに息を吐く。
あの夢はもう見たくない。そう思いながらも、瞼は重くなり、やがて眠りについた。
ここはどこだ? そこは霊廟にも似た静けさと冷たさに満ちていた。下は石畳で、光を反射しないように細かく研磨された手の込んだものだ。まるで雪花石膏で造られたようなその広間は、夜の星イレルの青白い柔らかな光を受けてほのかに青みを帯びていた。その霊廟のような中央に、東屋の天蓋を外して四本の柱だけを残した姿に似たものがある。
広間は厳かな静かさゆえに神々しさを感じさせる。この場所が美しいのはこれだけではない。その中央の四つの柱から地面に這う得体の知れない植物が美しさに拍車をかけていた。縦横無尽に伸びる蔓のようなそれは、所々に花を咲かせている。
その蔓はどう見ても薔薇のそれだ。だが、自然の植物ではないのは明白だ。硝子細工で作られたとしか思えない色付きの透明な姿は、見るものを魅了した。
淡くも深い青色をしたその蔓は、夜の静かな光を閉じ込めたかのように薄い蒼色で、透明の葉を伸ばし、所々に少女の可憐な唇のように純粋な色を湛えた薔薇の花を咲かせている。
微動だにしない葉や花は、やはり硝子なのかも知れない。
魔法使いは手でその花に触れようとして思考が止まった。どういうことだ? 手がないぞ? 伸ばした感覚はある。だが肝心の手が見えない……手に続く体までも、地面に立っているはずの足までもがない。体の感覚はあるのに自分自身の姿がないのだ。
やはり夢とは面白いものだ。そうだ、私は寝ていたんだ。だが、なぜこんな場所にいるのか? それに妙に現実的すぎる。それなのに風や音、匂いは感じない。五感が働いていない。硝子の玉の中に閉じ込められたらきっとこんな感覚に陥るに違いない。やはりこれは夢なのか。
――こちらへ。
夢だと思った矢先、頭の中に響いたその声に辺りを見回した。だが、周りには雪花石膏のように研磨され、隙間なく敷き詰められた石畳の床や壁、四本の柱とそれらに縦横無尽に伸びる透明な青や桃色をした硝子細工の植物だけしか見えない。待て、私に目はあるのか?
――こちらへ来なさい。
声は霊廟の中央、天蓋の無い東屋のような場所からだった。魔法使いは見えない足を動かそうとした。〝無い〟と思ってしまったためか動けない。魔法使いは困惑と恐怖に精神が支配されそうになった。これでは本当に瓶詰めにされたようだ! くそ! 動けん! なぜ私は息をしていられるのだ? くっ! 苦しい!
――落ちつくのです。今、あなたはオルスだけの存在。命や魂、意識や精神だけの存在です。何も考える必要はありません。常識は時に人を殺します。
最後の言葉には楽しむような含み笑いが籠められていた。
――さぁ、こちらへ来るのです。何も考えずに。
魔法使いは息を震わせて――息をしているのならだが――ただ意識を四本の柱の方へと向ける。そうすると、まるで滑っているかのように進んでいゆく。
中央には円形の土台石があり、噴水のように中央が窪んでいた。その円形の大きな土台石の窪みは、座れば腰まで水が浸かるほどの深さだ。そこには水のようだが妙に波打つ得体の知れないものが溜まっている。まるで色がついた風が溜まっているかのようだ。カイザスモーンの地下室の暖炉にあったリデ・バガンという地底種の心臓の中にあった光の塊と酷似している。だが、こちらは密度が水にも近いように見て取れた。金色の光を発していて、四つの柱に水面が反射したかのような揺れる光を投げかけている。
魔法使いはその噴水の水溜めのような中に漂う光を眺めていて目を止めると同時に息も――息をしているのならばだが――止まった。
どうして気づかなかったのか。その光の溜まり場に腰まで浸からせて、一人の女が座っている。その姿はこの世の人間とは思えない美しさと人離れした威厳を纏っていた。
背中に落ちる先が見えないほど長い髪は、淡い光を発しているのかと錯覚を覚えさせるほど艶やかな銀白色。肌は人以上に白く、それでいて不健康さは感じさせない。滑らかでこの上なく上品なその肌は赤子のように柔らかそうだ。白い眉の下にある黒く長い睫毛に守られた眼の色は、硝子細工のような植物に咲く花と同じ透明な桃色だ。その変わった虹彩の色は髪同様発光しているようにも見える。きっと光を反射しているだけだ。線の細い顔に大きすぎず太すぎもしない上品な桃色の唇が、端を少し上向きにして微笑みを浮かべている。
その姿は咲いたばかりの神の花。だが決して若くは見えない。というよりも年齢を読むことができない。一風変わったように見える白い眉のせいか? 絹よりも美しすぎる銀白色の髪か? 透明な澄んだ桃色の宝石を石ころ同様に思わせるあの眼か? 理由は全てだ。目の前の女の存在が不可思議すぎるのだ。夢の中で見るのは大抵は過去に経験したことや目にしたものだ。では、私は以前このような存在に出会ったことがあるといことか? いやいやそんなはずはない。忘れるはずがない。若ければ無謀だと思いながらも花の千本でも、いや、髪の毛の全てを魔法で花に変えてでも贈ったはずだ。だがそんなことをした記憶はない。ならこの目の前の女性は誰なのか?
――アスロス達は面白いことを考えるものですね。子供から大人まで。あなたはわたくしと会ったことはありません。
魔法使いは唾を飲み込み――唾があるならだが――苦笑した。まさか心が読めるのか? そんなことはありえないだろう。
――ええ、完全に読むことは難しいでしょう。ですが、肉体を離れたオルスの意識を読むことはわたくしにできますよ。さぁ、そろそろ本題に入りましょう〝ゼークス〟。
魔法使いは自分の全てが凍りついたかのように、呼吸も思考も止まった。この女はなぜ私の名前を知っているのだ? あぁ、当然か、私の夢の中なのだから。
銀白色の髪色をした女の澄んだ桃色の目が魔法使いにまっすぐと向けられる。その口は動かない。だが、またしても魔法使いの頭の中に話しかけてくる。
――夢。それでもいいでしょう。ですが、あなたには知っておかなければならないことがあります。〝この世界に大いなる〈繋ぐ剣〉が生まれし時、〈繋ぐ者〉たちが剣を導く〟再び混沌が迫っています。私は世界にこのことを解き放ちました。古き血たちが今一度結束する時がおとずれようとしています。小さな輝きがそれを心におさめ、手を取り合うことから始まるのです。わたくし達に残されている時間はそう長くはありません。すでに駒は進み始めています。北の風、南の波、東の大地、西の山がそう告げています。ヴィアドラは鬨の声をあげました。赤の国では古き血が目覚めようとしています。魂の山さえも震えだし、世界はうねりの時期を迎えます。
魔法使いは面食らった。一体なんの話をしているのか? 魔法使いはそう思い尋ねようとした。だが言葉が出ない。話そうにも体がないのだ。
――あなた方は理解できないでしょう。理解できないまま地に戻ることもあるでしょう。ですが忘れてはなりません。一人一人が〈繋ぐ者〉として生きる力があることを。あなた方にはその義務があります。揺り籠から立ち上がる時です。
その直後、魔法使いの意識は噴水のような土台石に溜まる光のような水の中に吸い込まれていった。高速でどこかを進んでいるかのような感覚を覚えるが風はなく、光の粒子がめまぐるしい速さをもって前方から後方へ駆け抜けていく。やはり私は信じられない速さで進んでいるに違いない。
突如、高速で後方に抜けていく光の粒子が、部屋に差し込む光に照らされ宙に浮かぶ埃のように動きを止めた。その埃のように漂う光の粒が縦横無尽に動き始めると、黒や白、緑や青といったあらゆる色を発しながらまとまってゆく。最初はぼんやりと描かれた水彩画のように辺り一面に風景が顕れ始めた。色とりどりの光の粒が密集し、風景を創っている。その風景は厚みを増して実態と見間違うほどだ。
やがて光の粒の動きは見えなくなり、目の前に広がるのは、どこかわからない港の岬だった。




