Episode-38
シーナは両親が殺されたことに対して、怒るのを諦めていた。その怒りは不運な運命を憎む気持ちに取って代わられて久しい。それどころか、この旅に出てその憎しみが如何に自分自身を苦しめるだけの無駄なものかを理解した。だが、今その不運の元凶である両親を殺した人間へと続く道が現れた。あの優しかった父と母を殺した人間が罰せられることなくのうのうと生きていたら? シーナはどす黒いタールのような怒りが腹の底で息をするのがわかった。怒りなんて消えていなかったんだわ。ただ目を逸らしていただけ。
シーナは漲るオルスを感じて自分を超越するかのような感覚に埋もれてしまいたい思いに駆られた。だがすでに集中力は事切れていた。シーナは仕方なく石を持って部屋に戻るために扉を上げて階段を下りてゆく。
部屋ではカイザスモーンが長椅子に深く腰をかけ本を読んでおり、魔法使いは寝台で上掛けを深くかぶり寝ている。部屋の中は肉が焼ける香ばしい旨い香りが漂っていた。
肉の旨い香りを嗅いだシーナは途端に空腹を覚えた。今にも腹の虫が小躍りしながら叫びそうだ。
カイザスモーンはシーナの帰還に気づいて食事を奨めた。シーナはありがたくその申し出を受けて、兎にも似た動物の丸焼き肉をナイフで切り分け、手に脂を光らせて頬張り始めた。
シーナは昨夜のことを尋ねた。師が使った魔法についてだ。カイザスモーンは炎の狼のことをシーナに聞かせた。三体を生み出し、それが合体し一体の大きな炎の狼となると、自分を襲わせ始めたことを詳細に、太く響く大地さながらの声で、少し物語を語るかのような口調で話した。
シーナは今すぐにでも狼の魔法を使う人間が他にいないか尋ねたかった。だが、取り越し苦労で終わりそうな不安もあった。カイザスモーンがデウリエ山脈よりも南側のことを詳しく知っているとは思えない。
もし、師がその魔法使いなら?
シーナは心の中で一蹴してその思考を振り払った。師は放浪の旅人。娘のカリヌが殺されたことについてそれを裁かなかった国を恨んでいる様子はあったけど、宮廷にいた見ず知らずの人間を丸焼きにして殺すなんてことはしないわ。あんなことをするのは狂人だけに決まってる。けど、師は魔法に精通していた。師なら他に炎の狼を生み出す魔法を扱える人物を知っているかもしれないわ。その中で狂人に近い人間がわたしの両親を殺した人物かもしれない。
シーナは頭を振った。……だから、それを知ってどうするっていうの? 無駄だと思いながらも、シーナは考えることをやめられなかった。
次の日も、その次の日も魔法使いは目を覚ますことがなかった。カイザスモーンは焦ることはないと言い張り、シーナや魔法使いがいないかのように一日を過ごした。大抵は、いつも出入りしている扉に入って数時間は戻ってこない。シーナは扉の向こうに何があるのかと好奇心を刺激されたが、少し広い倉庫だとわかると途端に興味は魔法の練習や本に注がれた。
カイザスモーンはシーナが魔法の練習をしに行こうとすると、決まってあの石を持って魔法の練習をしろと言った。今日もそうだ。
「なぜですの?」
「霊通石っつうのはルスの塊みたいなもんだ。魔法を扱うときみたいに集中して魔力を集めてみろ。ルスは自然の力だ、自然を感じろ」
「答えにもなっていませんし、それは魔法の練習になりませんわ」
「ああ言えばこう言うなシーナは。師匠に怒られなかったか?」
シーナは苛立ちを噛み殺し、「わかりました、やってみます」と言うと霊通石だけを持って外に出た。
外は連日快晴で心地良い。景色は全く変わらないが、風は優しくなりつつあった。深呼吸をしても鼻は痛くならないし、今日も修行日和だ。修行と言っても、意識の集中ばかりだけど……。
シーナは岩の小屋の上に登ろうと、壁として積まれた岩を押してみた。びくともしない。これなら登っても崩れることはなさそうだった。シーナは片手と両足を使って小屋を登り始めた。頂点にたどり着くと、小屋の上からは快晴の下に広がる高原を見渡せる。一陣の風が頬を撫で首を撫で、囁くように耳元を流れてゆく。自然の、風の挨拶だ。
広い高原だわ。
腰の高さにも満たないひび割れた皺の多い肌のような枝と、細く分厚い剣のような密集した葉を持つ低木が茂り、地面は灰色の礫が一面を覆い、北と南に縦に走る左右の黒い峰は、鋭い槍のように屹立している。まるで高原を監視する番人のようだ――シーナはそんなことを考えながら、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、胡坐をかいてその上に両手で霊通石を持つと瞑想に入った。
いつもの小さな火を想像することから始め、次第に大きく濃いものにしていき全身に流れる力を感じとる。それをさらに一点に集中させて……いつもならここで魔具に吸われるようにして送るのだが、今回はそのまま維持し続けた。そしてそれをさらに大きな炎へと変えてゆく。全身にみなぎる力を集めようとするが、一定のところで限界がくる。全力疾走をしているのにさらなる速さを求めているかのような感覚だ。呼吸が荒れてくるが、精神を穏やかな川のようにすることで呼吸を一定に保つ。一度にこれ以上の力は集められそうにない。自分の中からはこれが精一杯だ。
——自然を感じろ。
カイザスモーンの言葉を無意識に思い返し、存在を忘れていた霊通石に意識を向ける。霊通石に自らが集めた炎の塊のようなオルスを近づけてみる。
突然、霊通石が扉を開け放ったかのように感じた。手の内にある霊通石の重みは今も感じる。だが霊通石そのものが、小さな埃にも満たない光の粒の集合体になったかのように感じる。思わずシーナは目を開けて、手元の霊通石に目を向けた。だが、相変わらず割れた鉱石の断面のような滑らかな表面と、黒にも近い緑色をしているだけで、さっき感じた光の粒の集合体の姿のかけらも残していなかった。
シーナは今の不思議な感覚をもう一度と思い、意識を集中させる。火は次第に炎へと変わり一点に集められ、それを霊通石に……。またもやそれを感じることができた。どことなくリデ・バガンの心臓の光にも似ている。だがそれよりも、もっと軽く、光の粒は動いてはいない。自ら集めたオルスを霊通石にぶつけるように想像すると、なんと霊通石と繋がった。師の杖と感じた繋がりと同じだ。まるで違う色の水を触れ合わせたみたいに。自らの炎を象ったオルスは光の粒の集合体と交わり脈打っている。
突如、繋がった霊通石の存在が遠くなるような感覚を味わった。というより、霊通石の中に道が延びたといった方が正しいかもしれない。ここに本体はあるが、光の集合体だけが伸びてどこか遠くに行ってしまったかのようだ。先の見えない、開いた扉の先に永遠と続く道さながらの怪しさを感じさせる。
行ってみよう。
シーナは光の粒と繋げるように、その光を呑み込むようにして、オルスをその道の奥へ奥へと進ませて行った。霊通石から延びる光の粒子の道を、自分の炎の塊のようなオルスで辿ってゆく。遠くなれば遠くなるほどオルスは薄くなっていく。たどり着くには集めたオルスが足りないかもしれない――シーナはそう思った。
そして忽然と宙に放り出されたような感覚に陥った。細い管の中を通り宙に撒かれる水はこんな気持ちになるに違いない。行き止まりの空間は何もなかった。だが、遥か彼方に自分の存在を感じる。
きっとここはどこか遠くなんだわ。
シーナはそう自分に言い聞かせて、抑え切れない興奮をなだめた。すると、
――あら、初めまして。カイザスモーンかと思ったら違う方のようですね。あなたの名前は?
突如空間に響いた声にシーナは驚き霊通石から手を離した。あれは頭の中で聞こえたのかもしれない。それともオルスに語りかけてきたの? オルスは自分の中の力だ。オルスに意識が乗るとは思えない。シーナはハッとした。オルスで霊通石から延びる光をたどる時、自分から離れていく感覚があった。だとしたらさっきの声はオルスに意識を乗せて話しかけてきたってことだわ。
シーナは訳のわからない恐怖を感じ逃げようと慌ただしく立ち上がった。後ろに引いた足が岩に引っかかり、あっ! と思った時には岩の小屋の上から転がり地面に落ちた。体に響く鈍痛にしばらく悶えたあと、逃げ出すようにカイザスモーンがいる部屋に戻った。
部屋にカイザスモーンの姿はなかった。シーナは打撲した腰に手を当てながら状況を整理した。
間違いなくあれは女の人の声だわ。妄想なんかじゃない……一体誰? 感覚からしてあれはどこかと繋がった。絶対にそうだわ。それも遥か遠くよ。
シーナはカイザスモーンの名前を呼んだ。だが返事はない。またあの扉の向こう側にいるのかしら?
シーナはカイザスモーンが出入りしている倉庫の扉を開けてもう一度呼んだ。相変わらず返事はない。
入り口にかけてある簡素な縞模様のタペストリーを手で避けながら中を覗いてみた。色々な物が入っている倉庫だ。一人暮らしには少し広すぎるくらいの部屋の中に、天井まで丈のある棚が闇の中に縦に四列並んでいる。その棚は五段あり、段に置かれたものは乱雑に置かれて整理されていない。ほとんどが埃をかぶっていて何年も放置されているようだ。骨が置いてあるかと思えば、野菜のようなものを漬けてある瓶があったり、金属でできた罠のような物が置かれている横には鉱石のような物が置かれている。鉱石は霊通石とは違うもののようだ。銀色から金色、青色のものもある。地面には埃が積もった革の胴当てのようなもの、朽ち果てた剣が転がり、どうみても長居するような場所ではないとシーナは訝しんだ。部屋の端っこ――入り口から一番遠い角の壁だけに角灯が備えられていて、中は暗い。
シーナは恐る恐る足を踏み入れた。埃の臭いを想像して顔をしかめたが、予想していたよりも臭いは酷くなかった。扉を閉めてしまったら足元が見えない。シーナは扉を開けたまま、まるで怪物の足を踏まないように注意しながら数歩進んだ。右側の角に備えられた角灯付近で風が動く気配を感じた。同時に開けておいた扉が勢いよく音を立てて閉まり、シーナは飛び上がった。
シーナは振り返って風が動いた方を見てみるが、何もいない。棚の向こう側にあるのだろう角灯の灯りが怪しく揺らめいて、倉庫の端の方の天井を影が笑うように身を揺する。
シーナは息を殺してその角を瞠った。何かが動く音がし、天井に大きな影が揺らめいた。ついにそれが姿を現し……。
「シーナか、どうしたんだ? 俺様に用か?」
シーナは息を震わせて肩を落とした。
「は、はい。探してました。ちょっとお聞きしたいことがあって……」シーナはそう言いつつ当たり前の疑問を抱いた。どこから出てきたの? あそこの壁は他の部屋と繋がってるのかしら?
「わかった、ここじゃなんだ、部屋に行くとしよう」
そうして部屋に戻ったシーナは、霊通石を使った意識の修行中に起こったことを説明した。カイザスモーンは驚いた顔をするどころか、満足そうな顔に自慢したがっている表情をしてシーナの話を聞いていた。シーナが話し終えるとカイザスモーンは説明した。
「シーナ、その光の粒ってのがルスだ。神秘の力の源だ。神秘というのは二つのものに別れる。〝ルス〟と〝オルス〟だ。ルスは自然の力と前に言ったよな。そのルスはこの世に目に見えるほとんどの物質――オスに宿っている。オスは物質と同じ意味だが、神秘の理の前では〝オス〟と呼ぶんだ。そんで、〝オルス〟は自然の力の〝ルス〟が〝オス〟に宿り変化した〝ルス〟だと思えばいい。肉体を持って生きる生き物の生きる力……それが〝オルス〟だ。そしてその霊通石は、地中よりはるか深くで掘られる結晶の一つで、大地に眠る膨大なルスが地中の圧力によって封じ込められている。見かけは鉱石だが、ほとんどがルスの塊だといってもいい。シーナはそのルスに、自らのオルスを繋ぎ合わせたんだ。はっはー! 俺様の読みは当たってた。神秘を扱えるのはお前さんだ。ヴィアドラの血が混じっているに違いない!」
両手を広げて喜ぶカイザスモーンを遮ってシーナは声を張り上げた。
「待ってください! わたしが神秘を使ったってことですか? それにさっきの女の人の声は一体なんですか? 教えて! わたしはおかしくなってしまったの?」
「おかしく? なぁーに言ってんだ。魔法よりも優れた神秘を開花させたのにおかしくだと? 冗談はやめてくれ。それと、その女はモルゲンレーテの神官だ。霊通石自体は多くあるが、外見こそ同じように見えるものでも、それぞれが違うオスとルスの塊だ。まぁ、同じ地域で掘られたものは、ものすごく似ているが、微妙に違う。つまり、二つとして同じ物は無いってことだ。ルスの器であるオス、要するに物質は、半分に割れたりすると自らを完全な姿に戻そうと、自らの内に残るルスを使って割れた片割れと繋がろうとする。体の切り傷が治癒するのと同じだ。動物の場合はオルスだけどな。肉と石では全く別のものに思えるかもしれないが、万物は同じ法則で存在しているんだ。体の傷を治そうと思って治せるか? 違うだろ? 体が勝手に治していく。物質であるオスも欠けたら自らを完全な状態に戻ろうとする。その治そうとする方法が、オスによって見える形が変わるということだ。そしてあの霊通石は鉱石ながらも、その膨大なルスを用いて自らの欠けた片割れと繋がろうとするんだ。石は熱したりしないと元のようには戻れないが、せめてルスだけでも繋がろうと、そのルスを漂わせて片割れと繋がっているんだ。離れた女と気持ちは繋がっているというやつと似ているな。ロマンチックだろう? だから、まぁ、つまり、そのルスに自らのオルスを乗せて行けば、川を船で進むように片割れの場所にたどり着くってこった」
シーナは口を開けてなんとか理解しようとした。完全に理解できたわけではなかったが、少なくともルスは自然の力で、この世の物質はオスだということ。そしてそのオスは別たれるとルスを用いて完全な姿に戻ろうとする……切り傷が塞がるように。霊通石は同じものは二つとして存在しないと言った。そして片割れ同士がルスで繋がっている。そのルスの川を漂ってたどり着いた先に人がいたら? 頭の中に響いた女の人の声を思い出し、シーナは息を呑んだ。
「離れている人と……話せる」
「そうだ! 霊通石は遠くのやつと話せる。アスロスは神秘が使えないから霊通石をただの鉱物としかみんし、神秘の中の話が本物って言ったって何も理解できないだろう? だから敢えて言わないでおいた」
「わたしの頭の中に話しかけて来た人は誰なんです?」
「だから、モルゲンレーテの神官だ。誰かは俺様が声を聞いたわけじゃないしわからんが、恐らくタルワーニャだろうな。奴もびっくりだっただろう。シーナ、お前は何かの運命を背負ってるようだ。まさかルヴァの戯論が本当だとは」
「運命?」
「そうだ、それが望もうが望むまいが、善か悪かはわからんが……ところで霊通石はどこだ?」
「あ……」




