Episode-30
デウリエ山脈のもっとも厳しい箇所を越えてきただけあって、高原の夜は平和であり、冷たい風を除けば二人の心にとってひさかたぶりの安息地となった。
魔法使いは約束どおり飯の当番をしている。干し肉を香草と塩で煮込んだだけのもので、料理と言えるものかは謎であったが、味気ない野草を湯がいたものよりかは随分と贅沢な夕食だった。
シーナは『魔の書』の羊皮紙の頁を捲ったり、戻ったりと、眉間に皺を寄せて時折唸り声をあげながら読み耽った。焚き火の揺れる火明りがシーナの影を不規則にあやふやと躍らせた。
「ふぅんー。頭が疲れました」シーナは後ろに手をついて夜空を見上げた。なんて綺麗なんだろう。
シーナの足の上に開かれた『魔の書』の羊皮紙の頁が、風のいたずらで勢いよく捲られていく。魔法使いは、鍋の中をかき混ぜていた杓子で鍋を軽く叩くと、「よし、完成だ」と独り言のように呟いた。それを聞いたシーナは身を起こし、膝にのった『魔の書』を閉じようとして、開かれていた最後の頁に何気なく目を落とした。
『ゼークス著』この人も魔法使いなのかしら?
風が時折強く吹いたり弱くなったりと絶えず吹き続け、辺りの低木達がひっきりなしにざわめき、シーナは原因のわからない不安の波を感じて辺りを見回した。目の前の師は茹でられても固い肉を無表情で噛み締めている。長くなった髭は放浪の老人というより、物語に出てくるような魔法使いのような雰囲気を醸し出している。シーナはふと、初めて出会った時の魔法使いを思い出した。髭は剃られてはいなかったが、短く整えられていたし、服装も今のような毛皮ではなくて天鵞絨の黒い長衣だった。外したところを見たことがないとんがり帽子は、今も頭の一部のように鎮座しているが、あの時の姿はどこか高貴さを感じた。この世界には他にどんな魔法使いがいるのだろう?
「あのー」
魔法使いは焚き火を見ていた目をシーナの方に向けた。目が「なんだ?」と言っている。
「師以外の魔法使いってどんな魔法使いなんですか?」
「どんなというのがわからない限り答えにくいのだが……」
シーナは考え込むように匙で自分の唇を叩きながら言った。
「わたしが想像してた魔法使いは、物語に出てくるような賢者みたいに物知りな老人か、宮廷で華やかな暮らしをする魔法使い。宮廷の方は大体が悪者って印象ですが……」
魔法使いはふくみ笑いを浮かべながら、スープを匙でかき回している。
「そうか、本当に村の外のことは知らないのか」
「二つ星に一回、隣村のインスティンス村から来る行商人から、外の世界のことを聞けますが、大抵は円屋当主が聞いた話を人伝に聞くくらいです。どこどこの国が戦争に巻き込まれたとかは大人のうちで話すだけで、具体的な話は聞けないんです」
シーナは本を袋の中にしまうと、魔法使いと同じようにスープを食べ始める。魔法使いは頷きながら話し始めた。
「そうだな、ならまずは魔法使いが国の中でどのように存在しているかから話すか。私が実際に交流があった魔法使いは三国だけだ。バーインス王国、シルヴィアンス王国、カリャクス王国だ。どの国もそうだったが、魔法使いは大体三つの機関に分かれている。より優れた魔法を生み出すために魔具の研究をする研究職と、魔法士を育てるための指南職、あとは怪我や病気を治したりするための治療士だ。それらは魔法の種類や性質は違えど魔法は使えるために、まとめて魔法使いと呼ばれる。ちなみに研究職は、どの国も軍の管轄になっている。デウリエ山脈より南のドノハデウス地方で、魔法を国規模で手につけているのはこの三国しか知らん。さらに南のバルダス帝国は、魔法を魔法と呼ばんしな。だから、私の知っている魔法士達は基本的に国のために、仕事として学んでいたりするわけで、物語の魔法使いのような、ひょっと現れて助言を与えるような存在とは出会ったことがないし、聞いたことがない。地位の高い魔法使いは良い生活をおくれるだけの財力があるから、物語に出てくる宮廷の華やかな魔法使いには見えるかもしれないけどな」
魔法使いは暖かなスープを、椀の中の冷めてしまったスープの上に足した。
「じゃあ、どうして物語の中ではあんな描写をされているのでしょう?」
「さぁな……だが、ドノハデウスと言うのは古語で〈神なき地〉を意味している。はるか昔に、神を信じない者を率いて西からやって来た指導者の名からきているそうだ。神を信じないということは、神の化身が操るといわれている神秘の力も信じないということになる。それらを信じさせるようなものは淘汰されていく。そういった状況が数百年も続けば、場所によっては不思議な力である魔法の存在自体もあやふやになるだろう。その中で、魔法を信じる者達が想像力を膨らまし、娯楽として物語の中に織り込んだ結果、嬢ちゃんが言ったような姿が広く知られるようになったのかもしれん。まぁ、後半は私の憶測だがな」
「南のドノハデウス地方は、ってことは北の方は違うということですか?」
「それは私にもわからん。だからデウリエ山脈を越えたのだ」
「モルゲンレーテですか」
「そうだ」
「どんなところなんでしょう」シーナは期待と不安が入り混じった目で、空に浮かぶまん丸に輝くイレルの青白い光を受けて茫洋と佇む北の山を見て言った。
魔法使いは己の至らない部分を悔やむように深いため息をついてから、シーナと同じ方向に顔を向けた。
「モルゲンレーテの情報はほとんど見つからなかった。十年かけて三国を渡り歩いた中で知り得た情報は、少ない上に集めるのが大変だった。バルダス帝国との戦争最中の国もあったからな。集められた情報の中で使えそうなのは、山の向こうの連中は〈星教〉を信じていることぐらいだろうな」
「星ですか?」
「そうだ。太陽のことをフレルと呼ぶのも、夜を照らすあの大きな星をイレルと呼ぶのも、山の向こうで太古から、それこそアルヴェ暦が始まる前から信仰されている〈星教〉からきているようだ。〈星教〉は命の循環という大きな流れの理を、七つの働きに置き換えてそれぞれを星に当てはめている。火、天、風、水、地、過去、未来の全部で七つだ。我々が一星間を七つの日としているのもこれからきているようだ」
「知らなかった……」シーナは驚きに満ちた表情をしたが、すぐに太陽が雲で覆われるかのように疑問の色で隠した。
「けど、そんなにも古いのにどうして皆知らないのでしょう? おかしいわ。村ではそんなこと、一回も聞いたことはなかった……」村の外では常識なのではないかと思い、言葉の最後は煙のようにかすれて、風にさらわれていった。
「三国の中でも公には知られていない。モルゲンレーテの名を、町や村の人間は知らなかった。知っていたのは、本屋の主人や宮廷書蔵館の人間だ。そいつらだって本当に信じているわけでもなかった。モルゲンレーテは、アルヴェ歴の初期から存在するとされているのにだぞ。これはもう意図的に隠されてきたとしか言いようがない」
「三国って千年は歴史がありますよ? そんなことがあるのでしょうか」
魔法使いは嘲るように鼻で笑い、自分の研究に費やした時間をぼろ雑巾のごとく語った。
「本当におかしな話だ。魔法の根源に生涯をかけながらも、バーインスではモルゲンレーテの存在すら手に入れられなかった! 秘石を調べることができたカリャクスの書蔵館でようやく〈星教〉の情報を得ることができたくらいだ。俗にありふれた書物では、神の化身が眠る場所だとか、やけに秘密めいた言い回しで、神聖なものとしてしか描かれていない。どこまでが本当かわからん。書蔵館ですら山の向こう側の世界について述べられている事柄はとても少ない。王の祖先たちが山の向こうから来たと言うのにだ。これは、神の化身の血を継ぐ王家を、神聖なものとして崇める〈神導教〉を礎として王を神聖なものとして君臨させ、よこしまな考えを根元から排除するために、王家の過去にまつわることを消し去り、庶民達とは一線を引くようにするための細工なのかもしれん」魔法使いは自分の言っていることがいかに危険かを隠すように、スープを口に運んだ。
「それは……王が神の化身の血を継ぐというのを信じないってことですか?」
「いや、何かしらの関係はあるだろうな。それが神なのかはどうかは別としてな。だが言っておくがな嬢ちゃん。私のような考えをする奴は意外と多いものだぞ? そもそもバルダス帝国が三国に強い否定の姿勢を見せるのは神の存在を否定しているからだ。ドノハデウスと呼ばれる地の土台となる信念は〈神無き地〉だ。もし帝国が、ただの無神論者ならば別だが、もしそうでなければ、なぜ神の血を継ぐ者として君臨する王を嫌う? 三国の歴史に隠された世界があるのではないか? もしかしたら真実は外の世界にあるのかもしれん」
「だから師はモルゲンレーテを目指すのですか? 南に行けば、帝国が三国を嫌う本当の理由がわかるかもしれないじゃないですか」
「言ったろう? 南では魔法は珍しいものだ。そんなところに魔法の秘密があるとは思えんだろう。それに他国を呑み込むのに躍起になっている帝国領に入るのは、自ら鎖に繋がれにいくようなものだ。放浪の者には厳しい当たりをするだろう、例え帝国側についたとしても、前線に送られ肉壁になるのが落ちだ。それならいっそ何も知らない未知の地にいった方がいい」
魔法使いは目に暗いものをたたえて言ったが、シーナはそれには気づかずに納得した。
「未知の地ですか」シーナは遠い眼で宙をみやり笑顔を浮かべて、「なんだか楽しみだわ!」と言った。
「あぁ、私も楽しみ……ん? なんだ?」
魔法使いはシーナの後ろの小さな木立に目を凝らした。シーナは洞穴で神秘的な美しさをもった獣と出会った時と似た状況に、一瞬の冷たい恐怖を感じて立ち上がると同時に、後ろを振り向いた。
「ど、どうしたんですか!」
「今、何かが動いたぞ」
二人とも地面に穴を開けるように目を凝らした。火明りが風に煽られ心もとない。その時、二人が見ているところとは別のところから岩が引きずられるような音がして、首が千切れんばかりの速さで二人の頭が同時に振られる。向けられたと同時に音は止んだ。次の瞬間、さらに別の方から同じように岩が転がるような引き摺られるのにも似た音がなる。次々といたる場所でその音は聞こえ始め、やがて暗闇の中で篝火を囲む二人の周りが不気味な岩の音に包まれた。




