Episode-26
薄く雪が地面を覆うようになったデウリエ山脈南側の麓に広がる寒々しいハイティオ山地を、シーナと魔法使いの二人は数星間かけて進んだ。
洞穴で神秘的な獣と遭遇してから、二人はこの数星間で森の中で罠をはり、獲物を獲り――野兎だけ――山越えの準備を進めた。シーナは根菜の発掘に大きく貢献し、自然の恵みに初めて心から感謝を抱いた。これまでにも村での収穫は嬉しかったが、今のようにその日の食べるものに困るような状況では、感謝の深さがまるで違った。
魔法使いは、苦しい中に喜びを見出すようになってきたシーナの変化に喜びを感じ、魔法の様々な種類や歴史、自分がしてきた研究――主に魔具や、魔法に優れた者の家系――のことを話して聞かせた。
二人はデウリエ山脈を越えるための準備を終わらせると、ハイティオ山地を一気に進んだ。小さな山が連なっていたハイティオ山地は穏やかな丘陵が続く高台に変わった。
シーナは旅好きな吟遊詩人も好んでは訪れないであろう地を見回した。人が住み着くには土地が痩せすぎていて、放牧するにも充分な草に恵まれていない丘陵地帯を見回した。大きな花崗岩が地中から突き出るようにして至る所に顔を見せている。風に匂いはなかった。山脈に近づけば近づくほど灰色の岩の比率の方が大きくなり、うっかりすると道に迷うほど似たような景色が広がっていた。あまりにも恵みに乏しいために獣の姿を見ることもなく、ある意味平和であったが、流れる風は魂をさらうかのように冷たく、悪にも見捨てられたのではないかという虚を感じた。または風は流れるが時が止まってしまったかのようだった。
だが、自然そのものが意思を持っているかのようにも感じた。デウリエ山脈から降りてくる冷たい風は、岩場の隙間を鋭く吹き流れ、人の介入を拒むように唸りをあげながら、旅人のマントを引っ張り邪魔をする。暖をとりたいと思いマントを首元でよせれば、雲がいたずらに太陽を隠した。そして追い討ちをかけるように雨を降らし、霧で視界を封じてくる。
それでもシーナは、自然との触れ合いにかつての喜びを思い出していた。
シーナは一つの岩の上に登ると、吹く風に手を伸ばし、絹の服を愛でるように風を撫でた。よく幼い頃に、こうして自然を感じていた。自然といっても自分に与えられた小さな庭だ。それでも、あの時の自分にはとても大きな場所だった。シーナは足元の岩に目を下ろした。この岩、村の鍛冶屋のおじさんみたいな顔してるわ。――荒くて無骨で頑固そうな岩を見て笑った。その岩の周りに固まって生える草が風でそよげば、村の酒場〈どんづまり亭〉の中庭に隣接された陽のあたる気持ちの良い席で歓談する老婆たちの姿を想像した。
シーナがこうして自然と心を戯れさせたのは、実に十年ぶりであった。宮廷から逃げのび村を転々とし、人という混沌の森で育ったシーナの心は澱んでいたが、魔法使いとの旅の中で出会う自然の厳しさがその澱みを浄化し、無垢のまま生きることを強要した。その賜物として、こうして再び自然と心を通わせることができたのだった。
シーナのその変化は、表情や身振り以上に魔法に顕れた。魔法使いは風と戯れるシーナの様子を、杖に体重をあずけて一枚の絵画を見るようにして見守った。風がやむと、シーナはその手に持った指環から難なく火を顕現させてみせた。それをみて魔法使いは感傷に浸るような憂いの影を湛えた眼差しをシーナに向けると、誰にも聞こえないため息を洩らした。
「嬢ちゃんには素質があるな。まるで――」
シーナは魔法を止めて振り向いた。魔法使いの昔を懐かしむと同時に悲しみという痛みを湛えた目を見て、その目に何を写しているのか、雲が何かを象るように朧げに悟った。
「まぁいい。没頭するのはいいが『魔の書』は読むんだぞ。その火で満足ならいいがな」
シーナは指環が灯す火を見て目をぱちくりさせた。〝その火で満足なら〟ですって?
「まさか! それに、見えてないのか知りませんが、歩いている時だって読んでいます。風で頁が飛んで行ってしまいそうで、押さえるのに必死ですけど。あ、その顔、暗唱しろと言いたたげですね」
ふんっ、と魔法使いは鼻で面白がると、「では、嬢ちゃんのお望みどおり尋ねようとしようか。して、魔法の原理を答えよ」
シーナは岩の上で毅然と胸を張った。
「ふふっ。〝魔法は魔具あらずしてならず。秘石に道を与えられし力は、大地の大いなる器を通して昇華する〟」
「して、その意味は?」
シーナは眉を寄せて宙を見た。魔法使いは面白そうにその様子を見ながら長くなった顎髭をさすった。
「えーっと、秘石に道だから魔紋のこと……。大地の大いなる器は結晶だから、結晶に描かれた魔紋を通して、力が魔法として形づくということですよね?」
「尋ねている方は私なのだが、そうだ。だが肝心なところが抜けているな。その力とはなんだ?」
シーナの顔は険しくなったが、すぐに思い当たったのか「感情」と静かに言った。
「少し違うがまぁいい。本当は〝心〟だが、嬢ちゃんの中では一番理解できていることだろう。感情……これは、その時一つ一つの事象に対面した心の中から生まれる力だ。その心が宿す意志が強ければ湧き出る感情の力も強くなる。反発する意志が強ければ怒りを燃やし、受け入れる意志が強ければ大きな喜びを咲かす。だが、自分を破滅に追い込む悲しみの力や、憎しみの力にもなる。ならばその感情という力を生み出す意志の力はどこから来るか? それは信念だ、己がどう生きるか、どうしたいのか、何を望むのか。信念が堅い大地のように、豊かな森を築くように肥沃な信念があれば、魔法は強くなる」
「信念ですか……」シーナは己の深淵を見るかのように暗い色を湛えて宙を見やった。長い黒い髪が強い風にたなびいた。
「そう簡単には見つからんさ。前にも言ったが、この信念を見つけて行動し考えることで、生き残るための知恵が身につく。その知恵は己を裏切ることはない。全ての元は信念だ」
考え込むシーナに魔法使いは優しい微笑みを向けると、荷物を担ぎ直し歩き始めた。
「今は、もっと本を読み知識を吸い込め」




