Episode-23
魔法使いはとんがり帽子のつばが降ろす影の下に、不安と哀れみにも見て取れる険しい表情をはりつかせて、頬を仄かに赤くさせ、額に汗を浮かべて眠りにつくシーナを見下ろしていた。
この子は怒りに憑かれている――魔法使いはそう思った。それは誰にでも起こることで、そこまで大きな問題ではない。問題は、怒りは簡単に力と結びつき、それに呑み込まれれば必ず破滅することだ。怒りの炎は己だけにとどまらず、繋がるもの全てを焼き尽くし、残るのは灰のような時と火傷よりも意地悪い痛さをもつ後悔だけ。そして、それから逃れるように無色な人生を生き続ける日々が続くのだと、魔法使いは知っていた。
夜の王イレルが荘厳なデウリエ山脈を玉座とし、天から世界に冷たくも柔らかい光を投げかけ森を淡く照らしていた。その世界を慈しむように、幾千幾万の宝石を砕いたかのような儚い輝きを放ちながら、星が天の黒き海に散らばっている。
――でも、わたし、あまり好きじゃないなぁ。死んじゃった人は天に召されるって話を聞いたことがあって、その人達の涙に見えるから。
そういった亡き娘の言葉を思い出し、魔法使いの顔にふと笑みがこぼれた。と、同時に暖かくも凍てつかせる淀んだ痛みによって笑みはかき消された。すぐに思考を切り替え、焚き火の横に横たわらせているシーナを見た。
火のはじける音に続いてシーナは身を起こし、当たりをきょろきょろと見回した。魔法使いを視界に捉えると、とりあえずは落ち着いたのか、安堵の息を漏らしながら再度横になり、羽織っているマントの下で、もぞもぞと身動きした。すると何かに気づいたかのように勢いよく再度身を起こし、今度は僅かな怒りを湛えた目で魔法使いを見た。
「なぜですか?」
魔法使いはおもむろに服の小さなポケットから指環を取り出し、「これか?」と見せると、二人の間に重い沈黙が横たわった。お互いの底意を探るような張り詰めた空気が漂い、やがて魔法使いがその口を切った。
「嬢ちゃんは、何に対して大きな怒りを抱いてるんだ?」
シーナは真顔になり、未だに黙りこむその姿からは、凛然とした堅い壁にも似た確かな拒絶が放たれ、「どうしてそんなことを教えなければならないのです? 名前も教えてくれない方に」と毒づいた。
シーナの挑戦的な態度に、魔法使いは虚を突かれ、またそれを楽しむかのように眉を上げた。
「ほう。今、私はお前の師だ。名前に何の意味がある。名前で呼び合い親睦でも深めようというのか」
シーナは一度では吐き切れない積怒に子供じみた言葉を吐きそうになったが、瞬時に己を取り戻し、凛然と言い放った。
「ええ、名前こそ意味あるものですわ。その人がその人たるために繋ぎとめておく鎖なのですから。それに、村に訪れた行商人とですら名乗り合うのに、旅の同行者の名を知らないなんておかしな話、聞いたことがないわ。もちろん覚えていますよ、『余計な事を聞けば魔法を教えない』とおしゃったことを。だけど、名前も知らない人なんかにどうして心の中まで見せなければならないのです? 信頼できない人に」最後の言葉をあてこすったように言った。
己の素性を易々と晒せない。またはそれを隠すために名前を隠す。または本当に名前に意味などないと思っているのか、魔法使いは反論も反駁もせずに黙ってシーナの目を見つめた。
シーナは譲れない己の信念を貫くように、まっすぐ魔法使いと対峙する。あまりにも冷たいその目は、焚き火の火明かりに揺らめき、今から命を奪うであろう鋼の剣にも似た輝きを漂わせていた。
魔法使いは深く息を吐き、袋の中から木製の少し深めの椀を取り出して、息を吹きかけ埃を飛ばし、火に掛けてある吊り鍋から兎肉を煮込んだスープをよそいながら、己の一部を語ることにした。魔法使い自身、話したくはない憂憤に満ちた忌まわしい出来事であり、できることなら口にしたくはない。それをすれば起きてしまった事を、今一度認めることになるからだ。幸せだった思い出に胸を締めつけられながらも、それでも、魔法使いは語り始めた。
「もう、だいぶ昔の話だ――」
魔法使いの視線は鍋の中身に向いているが、どこも見ていなかった。心は昔に馳せていき、思い出の川に流されるように最も忌む記憶である娘の死を語り始めた。
「昔、三十年程前だったか。私は二十歳の時に、優れた知識と魔法の使い手としての才を買われ、ある魔法学院の指南職に就いていた。その教え子の中に、私の宝となり、何にも変えられぬ存在となる一人の少女がいた。名はカリヌだ。カリヌは西に走るクリマーレ山脈の向こう側にある、ボスオン大砂漠からの移民の子だった。変わった子だが生きるのに熱心な子だったよ。移民ゆえに虐げられることもあったが、折れることなく生きる子だった。あの子の家庭の事情を知り、一日の修業が終わった後も面倒を見るようになった」
魔法使いはスープを一口食べると、シーナに皿を出すよう促した。シーナは黙って魔法使いのものと同じ椀を手渡し、よそわれた暖かなスープを一口食べると、魔法使いの話の続きを待った。
「教え子となってから一星期が経ち、学年が上がる頃だったはずだ。確か、そうだ。本当に昔のことだからな。その頃に、カリヌの母親が病で死んだ。カリヌは母親を深く愛していたんだ。悲しいはずなのに、一度涙を見せた後は、周りが心配になる程しっかり者に変わってな。今思えば無理していたのだろう。父親は移民ゆえにまともな職にはつけていなくてな、生活は困窮し、暮らしや世間に晴らせない鬱憤をカリヌに向けるようになった。シーナが学院にくるごとに増えていく痣が見てられなくてな、一度は父親に面談にいったが、酒のせいで話にならなかった。とうとう、カリヌまで働かなければならなくなり、カリヌは学ぶことを諦めなければならなくなった。カリヌは優秀だった。指南職の経験が浅い私にもわかるほどに……。将来に期待していただけあって、易々と見過ごすことはできずに、カリヌを養女として貰い受けたいと父親に話を持ちかけた。その頃はもう私とカリヌは親子のような絆を持って信頼し合っていたんだ。父親は激怒すると思い、それはそれは腹を決めて挑んだ。狼の口に手を突っ込むような気分だ。なんせ私は、二十と少しの若造なんだからな。脇と背中に冷や汗をかきながら話を進めるうちに、結局はペイス――ドノハデウス地方の金子――の話になった。かなりの額を要求されたが、同じ研究仲間から借金をしてなんとか繕って話に決着をつけたさ。半分やけだったかもな。まぁ、めでたくカリヌは養女となった。肉親と離れさせることに対しては大いに悩んだ。だが、そんな心配も杞憂だったと思うほど、カリヌは明るく、よく話す活発な子となった。それからの十数年は、親子の喧嘩のようなこともしたが、そりゃあ幸せだった。あいつも嬢ちゃんみたいに魔法が好きでな。一緒に研究をしていたほどだ。そう……。幸せだった」
魔法使いの目に映る火明かりは、実物が揺れるよりも大きく揺れている。溢れそうになるものを魔法使いは呑み込んだ。落ち着いたのか、はたまた怒りを秘めているのか、今度は冷たい声で続けた。
「カリヌは二十歳となり、立派な心を持った女性に育った。母親が病で世を去ったと言っただろう? それから十数年の間、自分と同じ辛さに逢う人々を減らしたいという想いから、病にかかった人を救うべく、治療師の勉強と努力を積み重ね、魔法を扱える優秀な治療師になったのだ。それは誇らしかった。私はその時三十半ばで魔法学院の指南職は辞めて、軍の魔法の研究職として生きていた。給料は出るし研究費も出してくれるからな」
魔法使いは革の水筒から水を飲んだ。手のひらで栓を叩き水筒の口を塞ぐと顎髭を手の甲で拭う。
「ある時、晴れた心地の良い日だった。今でも覚えている。私は執務室の机にだらしなく足を放り出し、まどろんでいたんだ。上職の部屋に入る時は扉を軽く叩き、入室の許可を待つのが軍の、いや、日常の礼儀作法であろうに、そいつはやかましく叩いた後、ことさら激しく扉を開けて転がり込んで入ってきた。その若者は伝令で、顔には恐怖による疲労なのか走ったゆえの疲労なのか、とにかく情けない顔をしていてな、だが次の言葉に私も椅子から飛び起きることとなった。『帝国が、攻めてきます。早くて、火の季には』とな。そしてあっという間に戦争が始まった。私は激戦区である南の国境の山岳地帯で防衛戦に参加していた。数ヶ月もの間、山岳部で転々と野営を繰り返し、国のために、愛する者のために多くの者が武器を握って戦い、前線に立てないような者も同じように意志を持って後方支援にあたった。カリヌもそのうちの一人だった。治療師なって間もなかったが、前線に近い山岳部の麓にある一つの村で後方支援に就いていた。皆を励まし、優れた魔法だけでなく、その屈託のない笑顔と思いやる優しい心で幾人もの兵士の心を支えたそうだ。そう、誰もが慕っていた。だが……ある日、それは起こった……。仲間であり手を取り合い、互いを想い共に戦い、信頼しあうべきである仲間の一人の兵士に……カリヌは、カリヌは穢されたのだ……。私はそれを数日後に手紙によって知った。カリヌが身を投げた谷に残されたその手紙には、仲間とは、善とは何か、谷よりも深き悲憤と崩れる山よりも破壊的な絶望が綴られていた。こんな最後がありえるか? あっていいものか? 純粋な想いと愛を持って命を賭した者の最後がこんななど……! 誰が許せる? 許していいはずがない! あの子は誰にも弱音を吐けずに、命を失う者のいる戦場で生のある自分が弱音を吐くことに負の責任を感じて、一人で苦しみ散っていったのだ! カリヌの手紙には、私に怒りの海に溺れて欲しくないと綴られていた。〝今までありがとう。ごめんなさい〟という言葉と共にな……! カリヌに免じて私はその者を殺してやりたい気持ちをなんとか抑えつけ、最後の最後まで納得できないながらも、法に雷のごとき裁きを望んだ。だが返ってきたのはなんだと思う? 裁かれるはずのその男が、国民に慕われ、なおかつ戦争に大きく貢献している英雄だと知った法の番人と国王は、戦力の衰えと、英雄の裏の姿を知った兵の士気が下がるのを恐れ、私を狂乱者と見なした! まったく素晴らしい王だよ。それだけでは飽き足らず、帝国の諜報員として決めつけ、私を郊外の牢の鎖に繋いだのだ! 狂乱の魔法師としてな! だが、運命は私の味方だった。牢を抜け出した私は、私は……!」
魔法使いは燃え上がる怒りの絶頂まで高まったが、カリヌの残した言葉を思い出し、それに報いることができなかった己の弱さを思い出し、とてつもない後悔が魔法使いの怒る心を殺した。魔法使いは力なくスープの入った椀を持ったまま、呆然と焚き火を見つめた。シーナはそのようすを冷たい鋼の目で見ていた。
シーナは、お椀を持ったまま冷たくなった空間で暫く沈黙していたが、「わかります」と底が見えないほど暗いものを湛えていった。
「わかります、その痛み。全てがわかるとは言えませんが……。人の痛みの大きさは、その人にしか当てはまらないですから」
魔法使いは目を瞑り、黙して焚き火の音を聞いていたが、感謝の意が含まれた苦い笑みを浮かべると、同情の温もりに満ちた眼差しをシーナに向ける。
「わたしは、六歳の時に目の前で両親を失いました」シーナの抑揚のない、まるで興味のない詩を朗読しているかのような声が流れる。「だから、わかるんです」続いた言葉は、痛みを隠す硝子の微笑みに包まれていた。
その夜、シーナと魔法使いはそれ以上語ることも、会話をすることもなかった。それ以上語れば、感情に呑まれてしまう。それでも、二人の間には飴細工のように繊細な、悲劇の傷によって生まれた絆が結ばれ、雨上がりのような心地の良い沈黙を生み出していた。風もやみ、森の枝の擦れる音もしない世界の沈黙の中を、スープの優しく煮え立つ音色だけが流れた。




