Episode-21
火は魔法の中でも最も原初的であり、魔法の適性を見るのに最も適していた。そして魔法に欠かせない要素が二つある。一つは魔紋――ほとんどのものが線や記号のような絵で描かれる――と謂われる紋様。二つ目は、大地が生み出す力の結晶――鉱石、結晶――などが不可欠であった。
大地が生み出す結晶の代わりになる物として、魔法にも似た力を操る動物などが生息するような伝説の森である〈霊樹の森〉のような、肥沃かつ幻想的な森に育つ、力溢れる大樹の枝を結晶代わりに用いたり、不思議な力を操る動物の一部を利用した魔具が存在するといわれているが、どれも伝説に等しく、炉端の語り草のようなものだった。
グズリなどが生息する森はそういった伝説の名残の地であり、力の及ばぬ畏敬の地、物語に存在する場所として云い伝えられているために、危険な地として誰も足を踏み入れない。結果的に採取がしやすいうえに大地の力が凝縮された結晶が古代から用いられていた。
鉱石や結晶は、魔紋を彫るために磨き上げられるが、その美しさから宝石としても扱われ、王族や貴族、名のある武将を飾る格式高い武具の一つとなっていった。そして魔法使いがシーナに渡した指環は、火熾しの指環と呼ばれ、名の通り日々の営みの火種となる魔法を扱うことができる魔具の一つであった。
しばらく経ったある日、魔法使いは指環を使って火を熾そうとするシーナを見ていた。 火を熾そうとするシーナは無口で不機嫌そうに見えた。暗雲たる雰囲気を纏いながら指環を眺めている姿を、魔法使いは注意深く、それでいて夜の天から世界を静観するイレルのごとく見守っていた。
やがて宝石に光が宿り、魔法使いは期待の目を向けた。シーナは指環に何かを感じたのか、驚いた様子で目を見開き額に汗を浮き上がらせた。すると、蝋燭の灯に似た小さな火が宝石から揺らめき立った。それを見た魔法使いは喜びにはじかれて立ち上がり、「よくやった!」といつになく上機嫌に褒めた。
魔法使いはシーナが喜ぶと思ったが、シーナは初めての体験に喜びの声をあげることも驚きの息を洩らすこともなく、その目には大きすぎる野心にも似た黒い光を閃かせ、まるで魅入られたかのように揺らめく小さな火を眺めていた。
最初こそ喜びによって心を高ぶらせていた魔法使いは、シーナの目に不穏なものを見出すと、喜びでいっぱいになった杯は空になり、危惧と疑念で満たされた。魔法は魂の力でもある。間違った感情で扱えば、簡単に魂を滅ぼす。それだけは避けなければならない。あの子を見極め、導かなければ――と、魔法使いは風に煽られ波立つ水面のような不安とともに心に決めた。
「よくやった」と魔法使いはもう一度、神妙な面持ちで声をかけた。
「はいっ」と嬉しそうに答えるシーナの目には純粋な喜びだけが満ちている。魔法使いはさっき見せた黒い光は見間違いだったのだろうと安心した。
それから幾度となく朝日と夜を迎え、山々を渡り歩いた。北へ向かうほどに自然は容赦ない姿で二人を歓迎した。風は軽く冷たい匂いだけを伴って針葉樹の間を抜けてきた。それは時折肌を裂くような冷たさをもって髪を撫で、朝は霜柱でささえられた冷たい大地へと変わっていた。命にめぐり合うことも少なくなり、何度か危険なグズリを迂回することもあった。魔法は精神力にも大きく関係するため、魔法使いは滅多に魔法を使わず、二人は自然と向き合う厳しい旅を続けざるを得なかった。
食料となる獲物を捕らえるために罠を張り、数日の間洞穴に滞在することとなったある日、仕掛けた罠に兎が二頭かかり、貴重な肉を手に入れた。二人の心は緑が息吹き潤う水の季の陽水星に舞う綿毛のように軽くなり、他愛ないことで笑いあった。
その夜、洞窟で念願の肉料理を食事に迎えた。料理と言っても今後のことを考えてほとんどを干し肉にすることになった。
皮を剥ぎ内臓を取り出し、串刺しにして火に掛けようとしたとき、入り口から洞穴内に吹く風とともに洞穴内へ入り込む黒い影があった。
入り口を望める位置に座っていた魔法使いは、強い風が入り口に吹くことによって鳴る音が、影を見たような錯覚を起こしたのだと思った。魔法使いの目の前に座っていて、入り口に背を向けているシーナも何かの気配を感じた様子は見せなかったので、魔法使いは考える必要もなくそう思った。だが、シーナの後ろに焚き火の明かりを映した翡翠色の二つのものが目だとわかった途端、息を呑んだ。
魔法使いの素早い視線の動きと異様な雰囲気に、シーナは顔を上げて焚き火越しに魔法使いの顔を見た。魔法使いは瞠目し、全身に力が入り大きな恐怖と対面しているように見えた。その目線が自分の後ろにあることに気づくと、シーナは咄嗟に串刺しの兎を持ったまま焚き火を飛び越え、魔法使いの方へ飛び移ると尻餅をつきながら振り返った。
魔法使いはシーナが焚き火を飛び越える姿にも驚いたが、そのおかげで気を取り戻し硬直から逃れることができた。右手に持っていた串刺しの兎を手放し、右側に置いてあった杖を握ると、同時に魔法を放った。風の魔法であり、何の形も無いが当たれば相手に衝撃を与える類の魔法であった。
だが、その黒い影は魔法が見えているかのように身を翻し壁を蹴ると、音もなく地面に着地した。外れた魔法が壁に当たり、破裂音が洞穴の中に響いた。焚き火の揺らめく明かりに照らされた黒い影は、危険なグズリや熊、狼には持ちえない美しい威容をもった獣であった。
猫にも似た姿であったが、それよりも遥かに大きく、肩は人の胸ほどの高さがあり、威嚇もしていないのに上顎からは銀色の二本の牙を覗かせ、揺らめく炎の明かりを神秘的に映している。全身を覆う夜空を彷彿させる漆黒の短い毛は、天鵞絨のように艶やかで、その下にある筋肉の動きに合わせて水のようにうねり光を反射した。ゆっくりと妖しく左右に動く二本の尻尾は、先の方にいくにつれて毛が長くなり、揺れるたびに毛がなびいた。焚き火の炎にも負けず劣らず煌めく二つの目は、どんな宝石もがらくたに思わせるほど澄んだ翡翠色をしていた。
魔法使いとシーナの恐怖はその獣の姿を見てどこかへ消え失せてしまった。目の前の美の化身かと思わせるその姿に、驚きの声も息も洩らすことができないほどに魅了され、しばし獣を見つめていた。
獣の前足が一歩前に踏み出されると、魔法使いはシーナよりも早く自分たちがどういう状況に遭っているのかを思い出し、幻想から解き放たれたかのように荒々しくシーナを背後に押しやると、杖から炎の魔法を繰り出した。
杖の先から吹き出た炎は消えることなく収縮し、炎の鞭となって蛇の舌のごとくしなやかに素早く振るわれたが、ただの一度も獣をかすめることなく、宙を打ち空気だけを灼いた。
獣は驚異的な身のこなしで躱し続け、やがて一頭と二人は立ち位置が入れ替わり、魔法使いが慌てて手放した兎の肉の方へ獣が、入り口側に二人が立ち、にらみ合いの膠着状態となった。それまで一度も攻撃的な様子を見せなかった獣が、地面に転がった兎の肉に前足をかけると、鋭い音を立てて息を吐き、銀色の牙を剝いて威嚇した。
交戦の末に――獣からすれば戦いとも感じなかったかもしれない――魔法使いとシーナは本能的に縄張り争いに敗れたことを悟ると、恐る恐る荷物をたぐり寄せ、獣に杖を向けながら慎重に入り口へと後ずさった。入り口近くまで来ると、獣は追い打ちをかけるようにもう一度威嚇をした。
シーナと魔法使いは腹を空かせたまま暗闇が支配する森へと放り出された。どこかで気の抜けるような梟の声が響いた。魔法使いは星の位置を確認して北を見出すと、乗り気のしない暗いため息をついたが、唐突に笑い始めた。シーナは訝しんで眉間に皺をよせて魔法使いを見た。
「よくもまぁ、それを手放さなかったもんだ」
シーナは何を言っているのか理解できない様子で、魔法使いの視線が注がれている自分の右手を見た。夜の帳の下りた中でも、シーナの顔が赤くなっているのに気づき、魔法使いはさらに声をあげて笑った。
「なっ! く、食い意地を張ったわけじゃないわ!」シーナは串に刺さった兎の肉で顔を隠しながら、笑う魔法使いを無視して先を歩き始めた。
「なに、バカにしたわけじゃない、感心したんだ。おい、嬢ちゃん待て、慎重に歩かないとあっという間にはぐれるぞ」
その言葉にシーナはグズリとの逃走劇を思い出したのか足を止めると、魔法使いを待った。
暫く言葉を交わさずに二人は森を歩き、荘厳なデウリエ山脈が漆黒の壁のように見える辺りで野営をすることにした。




