Episode-20
暑さが支配する火の季の残滓はとうに消え、寒さが一段と強くなる土の季の霜土星がおとずれると、もはや風は優しさを感じさせなくなっていた。
葉は茶色一色、そのほとんどが地面に絨毯を作り出していた。僅かながら残っている葉は、寂しさだけを湛えてほんの小さな風にもその身を揺らしている。重なり合った枝は弱い太陽の光を透かし、影の線を描いて空気に溶け込んでいた。鹿や兎などの獣は落ち葉の下を鼻で小突きながら、わずかに残った草を探っている。シーナと魔法使いに気づくと、落ち葉を巻き上げながら飛ぶようにして逃げていった。
大木の下では、栗鼠が頬袋一杯に種を詰めて土の季を乗り越える準備をしている。枝から枝に移りながら短い旋律を奏でる鳥の声はどこか寂しさを漂わせていた。落ち葉を攫う風の音が胸をざわめかせ、鳴り止むと、何に対してなのかもわからない恋しさをシーナの胸に抱かせた。カラカラと乾いた音を響かせる木々の枝は、互いを暖め合っているようにも見える。
二人は白い吐息を短く吐きながら、ウッソンス村から北に二星間ほど歩いたところに広がる閑散としたハイティオ山地を歩いていた。シーナは前を歩く魔法使いの背中を見ながら、うんざりという気持ちを、地中深くに蓄積される溶岩のようにふつふつと心にためていたが、やがて荒れた息とともにそれは噴火した。
「あの時は! まだ、葉の色が変わり始める頃でしたけど、今は……もう葉が落ちています……。魔法使いさん、いつになったら、魔法を、教えて、くれるんですか?」
落ち葉が踏まれる規則的な音と、乱れた呼吸を整えるシーナの吐息だけが流れた。それでも、シーナは呼吸が落ち着き始めると、さらに続けた。
「そのうち教えてやるって言いましたけど、もう、我慢の、限界……です」
シーナがグズリに襲われた後、身を守る術がないことに気づきシーナは小刀を使って魔法使いに剣術を教えてくれとせがんだ。当然魔法使いは――ひどく呆れた様子で――そんなことは無理だと言った。「鳥が豚に飛び方を教えられるか?」と言われたシーナは、どうしてわたしが豚なの? と反論したくなったが、努めて冷静に、身を守る術がなければ迷惑をかける。と説得し、魔法使いに魔法を教えてくれと筋の通った要求をした。だがそれ以降、本と豪華な赤い宝石を嵌めた指輪を渡されただけで〝教えて〟もらっていない。
遂にシーナは、噴火の反動により足を止めた。
それでも魔法使いは気にも留めずに六歩程先をゆく。シーナは両手を腰に押し当て、呆れた眼差しで魔法使いを見ていた。
もう、うんざりよ。
シーナの背負い袋は、村を出た時の三分の一程にまで小さくなっていた。
旅が始まってから起きた多くの嫌なことが、まるで悪い妖精が頭の中の黒い箱から――嫌な記憶だけを取り出しているのではないかと思わせるほど――頭の中いっぱいに渦巻いた。
あれはいつの事だったっけ、とシーナはこの旅が始まって四日と少し経ったくらいの出来事を思い返す。
土砂降りの雨に見舞われ、死を予期させるほどの寒さに凍え、二人して震えていた時のこと。必死に火を熾そうしていた二人だったが、強すぎる湿気と適切な場所に恵まれず、木が湿ってしまいなかなかうまくいかなかった。
残酷かつ平等に力を行使する寒さに追いやられていったとき、魔法使いが真剣な面持ちで言ったのだ。
「嬢ちゃん、いらない服はあるか?」と。
そんなのあるわけがない! とシーナは心の中で憤慨し、同時に目で抗議した。足りないくらいの衣服を燃やせというのだから当たり前だ。
だが、魔法使いの命の危機を予感している重圧な眼差しを受け、反論することはできなかった。その上、魔法使いは
「下着は三着で十分だ。姫様だって一着七日は耐えられるだろう。汚れたやつはその間に洗えばいい」と平然と言い放つものだから、一体どこの姫の話をしているのか? 男はどうしてこう……とシーナは理解不能な驚愕という雷に撃たれ二の句もつげずにいた。
そして、虫の息の獲物に追い打ちをかけるように「ここで凍え死ねば魔法どころじゃないだろう。それに正直そんなに服があっても邪魔なだけだ。燃やさなければ魔法は教えん。それに今ここで暖をとらなければ風邪を引く」と大人気なさをふんだんに使った料理さながらの言葉を突きつけられ、シーナの心は絶句したが、寒さによる苦しみに耐えかね腹を決めて泣く泣く――本当に涙を滲ませながら――服を焼いたのだった。
静かにつもる怒りを抑えるように、シーナは左手に広がる殺風景な山林に目を向けた。その風景に流れる淋しさにいなされたか、なだめられたのか、怒りは自然と鎮まっていった。
ついてこないシーナの気配を案じ、ようやく魔法使いは立ち止まり、振り向いた。
「『魔の書』はどこまで読んだ?」
「全部」シーナは腰に手を当て、胸を張って言った。
「暗唱してみろ」
たまらずシーナは怯んだ。それも無理はない、『魔の書』は四百頁はあるほどの分厚い書物なのだ。それを十日ばかりで読み切ったのであれば――たとえ微睡みとともに読んで意図せずに頁がとんでいたとしても――その事実に自信を覚え、自分自信を讃えるだろう。だが、それを暗唱するとなれば比べ物にならない時間が必要である。それに意味も理解していなければ暗唱など無理だ。
「どこをですか?」シーナは挑むように、または何かから逃げたいがために時間をかせぐかのように言葉を返した。
「全部だ」
シーナは皮だけで繋がる折れた小枝のようにうろたえ、絶句した。それは猛々しい川の急流のように容赦なく自信を打ち砕かれたからでも、魔法使いの非情な要求に対する怒りに対してでもなかった。『魔の書』の最初の頁に綴られていた言葉、その大意〝一語一句覚えてこそ、魔法の礎は完成される〟それを思い出し、魔法を会得するためには莫大かつ膨大な時間と、それを成し遂げる魂の成長が必要だと理解したからだった。
「火熾しの指輪はどれくらい使えるようになった?」
「それは……」とシーナは降りはじめたばかりの雨にも似た弱々しい声音で口を濁した。
「それも扱えないようでは、何もできん。優れた魔具と感覚で名の知れた魔法使いになる者も稀にいる。だが、魔法は一種の知恵なんだよ嬢ちゃん。莫大な知識を必要とする上に、知識として知っただけじゃ駄目だ。考え、行動し、経験と結びつけなければ。それを何度も繰り返すことで培ったものは知恵となり、知恵によって魂は豊かになり、その魂が魔法の力の基礎となる。道具や師に恵まれたから偉大な魔法使いになれるわけでも、尋常なる魔法が扱えるわけでもない。全ては自分自身の魂の強さ、信念の強さが重要だ。そしてそれと同時に、知識も必要なのだ。その『魔の書』には魔法の基本――すなわち知識が記されている。目が潰れるほどに、脳の全ての皺にその文字を刻む気持ちで読むことだな。知識を吸い込め」
そう言うと魔法使いはその場に座り込み、革袋の口を開けながら、山の斜面よりに間遠に広がる、茶色や黄色を散りばめた閑散とした森をみやった。
知恵……か。
シーナは『魔の書』とともに借り受けた、赤い宝石を戴いた指環を手のひらにのせると、指でそっと撫でた。
「さぁ、今日はこの山を登り切るぞ」
シーナは頬をわずかに上げて頷いた。




