第5話 日本はなんて平和なんだ
翌朝の教室は、いつもどおり平和だった。
「――でさ、俺は運営に言いたい。ガチャのレア度、おかしいだろ、と」
隣の席の橋本が、スマホを片手に力説している。適当に相槌を打ってはいるが、僕の視線はさっきから、教室の出入口から見える廊下に釘付けだった。
「最初はSレアが最高だって話だったのに、いつのまにかその上にSSレアだろ? で、今度はURだぞUR。ウルトラレア。頭おかしいだろ、インフレしすぎだって」
「……そうだなあ」
「俺がいくら課金したと……お前、話聞いてないだろ」
「……そうだよなあ」
すまん、聞こえてはいるけど、聞いてはいない。なにしろ、こっちは今それどころじゃないんだ。
平坂がやろうとしていることを、手伝うか否か。
結局、昨晩は結論が出なかった。朝、学校までの道中でも悩みに悩んだ。いっそ学校を休んでしまおうかと思ったくらいだ。
だが、この教室に足を踏み入れた瞬間、僕は決めた。
断ろう。
僕は不来方真白だ。もう勇者ユグレトではない。
前世などどうでもいい。この日常こそが大事なのだ。
と、教室の空気が、ふっと変わった。
橋本が、スマホから顔を上げて、ぽつりと呟く。
「……あ、URが来た」
「平坂さんおはよー」「お、おはよう!」
入口をくぐっただけで、あちこちから声が飛ぶ。仲のいい女子は当然のように、男子は少し声を上ずらせて。廊下を通りかかった別のクラスの連中まで、さりげなく歩調をゆるめて教室をのぞき込んでいく。
なるほど、URとはよく言ったものだ。この学校で一枚しか出ない、最高レアリティ。
平坂永遠は、そのひとつひとつに、丁寧な微笑みを返していた。
肩で切りそろえた黒髪が、朝の光を受けて艶やかに揺れる。
昨日、僕に暴言を放ち、舌打ちまで披露してくれた人物と、これが同一人物とは、とても思えない。
知っているのは、たぶん僕だけだ。この完璧なお嬢様の中身が、口の悪い元魔王だということを。
その平坂が、まっすぐ、こちらへ歩いてくる。
橋本のおしゃべりが、途中でぴたりと止まった。
教室中の視線が、じわじわと僕のほうへ集まってくる気配がする。
「不来方くん、おはよう」
「お、おはよう平坂さん」
「今日も夕方、あのお店行かない?」
一瞬、世界が静止した。
やりやがった、この女。
一番効果的に誤解を招く言葉を、正確に選んで並べてきた。
あえて周りに聞かせるために。
素の口調なら「今日も付き合え、阿呆」とでも言うところを、わざわざこんな思わせぶりに変換して。
なるほど。ならば戦争だ。
絶対に平坂には協力しない。
「あのさ、ひら……」
「どゆこと?」
僕の言葉を遮るように、隣で橋本が、目をまん丸くして間の抜けた声を漏らした。
「今日『も』って言った? 今日『も』!? 不来方、お前、平坂さんと、いつの間に……」
違う。落ち着け。見事に引っかかってるんじゃないよ。
「あの……」
「今日は生徒会に呼ばれてるから、十七時半くらいでもいい? いつものところで」
その瞬間、教室のざわめきが、はっきりと一段跳ね上がった。
「い、いつものところ?」
一度しか会ってないだろ、と突っ込む前に、橋本が叫ぶ。
とどめとばかりに、近くの席のミーハーな女子が、目を輝かせて身を乗り出してくる。
「ねえねえ平坂さん、もしかして不来方くんと付き合ってるの!?」
バカお前、普通そんなストレートに聞くか?
だが平坂は、ほんのりと頬を染め、恥じらうように目を伏せてみせた。
「……それは、私の口からはちょっと」
教室が、爆発した。
きゃー、とも、うおー、ともつかない歓声が上がる。
その渦の真ん中で、平坂だけが涼しい顔をしていた。いや、涼しいどころか――ほんの一瞬、僕にだけ見えるように、口の端を吊り上げてみせる。
この混乱を、心の底から愉しんでいる。さすがは元魔王。人の心をかき乱して支配するのは、お手のものというわけだ。
昨日の今日でこの魔王は、僕のささやかな平穏を、こうもあっさりと焼け野原に変えてくれる。
これで僕が断ったらどうなるのだろう。
「平坂さんの誘いを断るなんて、どれだけ自意識過剰なんだカス」とか、「本来お前が頭を地面にこすりつけてお願いする立場だろカス」とか、そうやってみんなから石を投げられるのだろう。
そして僕の高校生活は終わる。まだ始まって三か月も経っていないのに。グッバイ青春。
「不来方くん、いいかな?」
平坂が恥じらう演技をしながら聞いてくる。
くそ、僕を舐めるなよ。
「あ、うん。大丈夫!」
僕は拳を握りしめたまま、笑顔で答えた。
*
当然というべきか、放課後は最悪だった。
「じゃあな」
橋本や友人たちに声をかけ、教室を出た。
皆、いつも通り返事をしてくれるが、何も聞いてこない。朝のことも、平坂のことも。
その代わり、目を血走らせて作り笑いをしている。
間違いない。尾行するつもりだ。
廊下の角から女子が三人、ばればれの体勢でこちらを窺っているのが見えた。素人どもめ。
こうなると話は単純だ。撒く。
校門を出て、いつもの通学路を駅に向かって素直に歩く。角を曲がったところで、さりげなく後方を確認した。
――いる。二十メートルほど後ろに橋本を含めた男子三人、そのさらに後ろに女子三人。尾行の腕は壊滅的だが、数だけは多い。
間抜けどもめ。なぜ固まって行動しているのだ。人数のアドバンテージが活かされていないじゃないか。
半ば呆れながら、駅に接して建っている商業ビルに入った。ここは駅の北口と南口を繋ぐ役割もあり、出入り口の数が多い。
残念ながらここでお別れだ。
長い直線の通路を避け、こまめに角を曲がる。尾行者の姿が見えなくなったところで別の出口からビルを出た。
このビルに入った時点で、バラけて各出入口を抑えておくべきだったな。
こんな簡単に尾行を撒けるなんて、日本はなんて平和なんだ。
魔王討伐の旅では、敵国の街に潜入することも、追っ手を撒くこともよくあることだった。
まさかその経験が、現代の日本で、クラスメイトを撒くために役立つとは思わなかったが。
いつか履歴書に書く特技の項目が増えた。「特技はサバイバル術と、追っ手を撒くことです!」
そうして、十分ほど遠回りをして、僕は結局、指定された喫茶ポラリスの、昨日と同じ一番奥のボックス席に座っていた。
昨日とまるで同じ構図だが、今日は待つ相手がリュミアではなく、魔王だと最初から分かっている。
我ながら、つくづく情けないと思う。
あれだけ教室で好き放題引っかき回されておいて、文句のひとつも言い返せず、呼ばれればこうしてのこのこやってくる。
平坂が来れば、文句の一つでも言ってやろう。
時計を見る。約束の十七時半には、まだ少し早い。平坂は生徒会とやらで遅れてくるらしい。
一年生の六月で生徒会ってどういうことだと一瞬思ったが、まあどうでもいいや。
宿題をしながら待つことにした。
*
「お待たせしました」
ノートを広げ、授業の内容を頭で反芻していると、声をかけられた。
顔を上げるとエプロン姿のウエイトレスが、注文したアイスコーヒーを乗せたお盆を持って、僕の横に立っている。
昨日もいた子だ。全体的に、色素が薄い。茶色がかった長い髪も、こちらを見ている瞳も、どこか淡い。鼻のあたりに散ったそばかすと、大きな丸眼鏡が、いかにも大人しそうな印象を与えている。
「あ。ありがとうございます」
僕はテーブルの上のノートをずらし、スペースを開けた。
歳はたぶん、僕と同じくらいだろうか。高校生でバイトとは、偉いものだ。
彼女はアイスコーヒーを僕の前に置きながら、言った。
「コーヒーお好きなんですね。ユグレト様」
「え?」
思考が、一瞬止まった。
ユグレト。今この子、はっきり、ユグレトって言ったよな?
まさか、昨日の会話を覚えていたのか。
かあっと顔が熱くなる。そうだよな、確か昨日は「演劇部です」と誤魔化したものの、あんな大声で「勇者」だの「魔王」だのやり合っていたら、店員に丸聞こえに決まっている。
最悪だ。穴があったら入りたい。
「な、なんのことですか」
苦しまぎれに白を切ろうとした僕に、彼女は眼鏡の奥の目をきらきらと輝かせ、さらなる爆弾を落とした。
「ユグレト様。私ですよ、アルです」
「はあ?」




