第24話 その愛が、あの土壇場で暴発した
九月も半ばを過ぎると、夕方の空気には少しだけ乾いたものが混じり始めた。喫茶店の窓は開け放たれていて、エアコンはもう入っていなかった。
いつもの一番奥のボックス席に、四人が座っていた。
「先に、全部話すわ」
平坂は、そう切り出した。
「まず言っておくけれど、これは私のわがままよ」
「え?」
「私の目的のため、確かめたいことがある。そのためにあなたを危険に晒す。それだけの話。誰のためでもないわ。私のためよ」
清春は、テーブルの上で両手を組んだまま、黙って聞いていた。
「今から私は、あなたの中からマンテを呼びだす。前と同じように。ただし今度は、途中で止めない。全部聞き出すまでやる」
「……はい」
「前のときは、二分くらいで戻したの。それでもあなたは一度消えかけた。今回は、たぶんもっと長くなる」
*
「あの」
宮森さんが、遠慮がちに手を挙げた。
「私も清春さんも、記憶が戻ってきてますよね。私、あれで消えかけたりはしなかったんですけど」
「そうね。あなたは大丈夫」
平坂は頷いた。
「私も、不来方くんも、あなたも、蛇口をひねるみたいに思い出しているの。少しずつ、自分で受け止められる量だけ。何かに触れて、ふっと出てくる。そうやって十五年かけて馴染ませてきた」
「はい」
「でも、清春の蛇口は壊れてる」
彼女は、清春のほうを見た。
「開くか、閉まっているか。半分がないのよ。百か、ゼロか」
「……あー」
清春が、自分の額を押さえた。
「めちゃくちゃ心当たりあるっす」
「一度開くと、何百年ぶんが一気に流れ込んでくる。金成清春として生きた十五年なんて、その勢いの前では紙みたいなものよ。だから押し流される」
「押し流されたら、どうなるんすか」
「戻ってこられなくなる」
平坂は、はっきりと言った。
「体はマンテのものになる。金成清春は、消える。……かもしれない」
宮森さんが、小さく息を呑んだ。
*
「それでも」
平坂は、まっすぐに清春を見た。
「やってほしい、とは言わない。断っていいわ。断ったからといって、私が何か思うことはない」
「……」
「これは命令じゃないの。分かる?」
清春は、しばらく黙っていた。
彼の手が震えているのが、離れた場所からでも分かった。
「……あの、正直に言っていいすか」
「どうぞ」
「めちゃくちゃ怖いっす」
彼はそう言って、自分の手を見た。
「前のとき、なんつーか、暗いとこに引きずり込まれる感じだったんすよ。で、あれ、たぶんあと少しで終わってました。俺が。……マジで怖い」
「そうでしょうね」
「今もめちゃくちゃ心臓バクバクしてます」
清春は、両手で顔をこすった。
「無理っす、って言いたいんすけど」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、清春は顔を上げた。
「でも、ダリューゼ様の話っすよね、これ」
「……ええ」
「じゃあ、やるっす」
「清春さん」
宮森さんが口を挟んだ。
「無理しないでください。私、そんな……」
「無理はしてる」
清春は、あっさりと言った。
「めちゃくちゃしてる。でも、ここで俺が『無理』って言ったら、たぶん一生後悔するんすよ」
彼は、少し笑った。
「俺、前世からずっとそうだったっぽいんで。怖がって、周りに担がれて、流されて。……たまには自分で決めたいっす」
平坂が、目を伏せた。
何か言おうとして、やめたのが分かった。
「じゃあ、始めるわ。心の準備ができたら――」
「あ、待って」
清春が、僕のほうを向いた。
「おい不来方」
「なんだ」
彼は、真面目な顔をしていた。
「これで俺が無事戻ってきたら」
「うん」
「俺と一緒に、また剣道やろう」
僕は、返事ができなかった。
道場の、がらんとした床が浮かんだ。壁際の六つの防具と、オレンジ色の扇風機が浮かんだ。僕の「考えさせてください」に嬉しそうに頷いた先生の顔が浮かんだ。
あのとき僕は、戻る理由を自分の中に探して、見つからなかった。
今、清春が、それを差し出してきた。
「……この状況で、ずるいぞ、それ」
「だろ」
清春は、にやりと笑った。
「俺は戻るからな」
*
平坂が、椅子の上で居住まいを正した。
向かいに清春が座っている。
僕と宮森さんはテーブルの横に立ち、不測の事態に備えることにした。
平坂が一度、目を閉じる。
店の中の音が、ふっと遠のいた気がした。
そして、彼女は目を開けた。
「――キンタ=マンテ」
声の高さが、半音下がった。
前のように叫ぶ必要はなかった。鍵はすでに開いている。あとは扉を開くだけだ。
「一の臣下よ。我が僕よ」
背筋が伸び、顎が上がる。ブラックホールだ。平坂を中心に、光が落ちていく感覚。
「誇り高き死と葬の一族の末裔よ」
清春の肩が、かすかに動いた。来たか。
「魔王ダリューゼの名において命ず」
彼の指先が、震え始めた。
「――出でよ、マンテ。主の前へ顕現せよ」
*
彼の方もまた、一度目とはまるで違った。
暴れなかった。呻きもしなかった。
ただ、ゆっくりと背筋が伸びた。
さっきまでテーブルに肘をついていた男が、椅子の上で姿勢を正し、両手を膝に置いた。乱れていた呼吸が、静かになる。
顔つきが変わった。
眉が下がって、目が細くなって、口元から力が抜けた。あの粗雑さが、跡形もなく消えていた。
そして彼は、滑らかに椅子から体を降ろし、片膝を立てた状態で深く頭を下げた。
「――お呼びでしょうか、ダリューゼ様」
宮森さんが、固唾をのんだ音が聞こえた。
*
「聞かねばならぬことがある」
平坂の声は、揺らがなかった。
「お前が大事にしていた石のことじゃ」
マンテの肩が、わずかに動いた。
「……申し開きは、いたしません」
「責めておらぬ。事実だけ言え」
「は」
彼は、頭を下げたまま答えた。
「オルジェナの御廟の岩を。……ヴェイナ鉱石をひと欠片、割って参りました」
「いつじゃ」
「勇者一行が、東の関を越えたと報が入った日でございます」
「なぜ持ち出した」
マンテは、しばらく黙っていた。
そして、顔を上げた。
その目は、ひどく穏やかだった。
「私は死と最も近い一族。ダリューゼ様のことを考え、秘密裏に禁忌と呼ばれた蘇生魔法を研究しておりました。そして遂に、それを我がものにしたのです」
「……」
「あなた様に仕えてから、私は夜も眠れませんでした。ダリューゼ様がおられぬ世を、想像することができませんでした。私は、私という者は、あなた様がおられるから在るのであって、あなた様がおられぬのであれば、私は何一つ意味を持ちません」
彼は、静かに続けた。
「ですから、備えました。禁を犯すことは重々承知しておりました。御先祖様方に対する、これ以上ない不敬であることも」
「……そうじゃな」
「それでも、天秤にかけ、迷いませんでした」
マンテは、自分の胸のあたりに手を当てた。
「それから三年、肌身離さず。あの日まで」
*
僕は、何も言えなかった。
考えてみればおかしかった。
祭祀を司る男が、なぜ最前線にいたのか。
ひとりの臆病な男が、主を失うことに耐えられなくて、禁を犯す覚悟で何年も備えていたのだ。
これはもはや愛だ。
そして、その愛が、あの土壇場で暴発した。




