第21話 ふがいない僕でごめん
九月一日は、拍子抜けするほど普通だった。
始業式があって、宿題を提出して、教室の掃除をして、それで終わりだった。
ホームルームが終わり、みんなが帰り支度をしているとき、僕は、自分の席から二列離れた場所を見ていた。
平坂永遠は、いつもどおりだった。
女子たちに囲まれて、旅行の土産話をして、丁寧に微笑んでいる。
あの日、閉まったドアの前で、彼女は「なあに」と言った。何ひとつ乱れていない声で。
あれから十日あまり、僕たちは一度も、あの店での話をしていない。
*
「不来方」
平坂より先に帰る気がせず、ずっと椅子に座っていると、突然後ろから肩を掴まれた。
橋本だった。
「ちょっと来い」
「なんだよ」
「いいから来い」
引きずられるように廊下へ出され、階段の踊り場まで連れていかれた。
そして彼は、僕の正面に立って、腕を組んだ。
「俺、ずっと我慢してたんだよ」
「何を」
「夏休み中、ずっとだぞ。メッセで聞くのは違うと思って、我慢してたんだ」
橋本の目が、据わっていた。
「祭り、来てただろ」
「……ああ」
「見たんだよ、俺」
彼は、指を二本立てた。
「浴衣の女子、二人。しかも片方は平坂さん」
目が怖い。
「なあ不来方。正直に言ってくれ」
「なんだ」
「どっちが彼女なんだよ」
「どっちも違う」
「嘘つけ!」
踊り場に声が響いた。下の階から誰かが見上げてきたのが分かった。
「俺な、お前と平坂さんが付き合ってるだなんて、本当は思ってなかったんだよ」
知ってるよ。
「いじって面白がってただけなのに……なのに……」
橋本は両手で顔を覆い、ムンクの叫びみたいな顔になっていた。
「平坂さんだけじゃなくて、さらにもう一人だとォ!?」
「声がでかい」
「だってお前、両手に花だったんだぞ! そんなことある!?」
「あったんだから仕方ないだろ」
「認めろよ」
「認めるも何も、違うんだよ」
「じゃあ何なんだよ」
僕は少し考えて、正直に答えた。
「……お友達?」
橋本は、しばらく僕の顔を見ていた。
それから、ため息とともにゆっくりと首を振った。
「……お前さあ」
「なんだ」
「それ、たぶん一番タチが悪いぞ」
*
橋本は、それ以上は追及してこなかった。
「まあ、言いたくなったら言えよ」とだけ言って、教室と逆方向に走っていった。あいつどこに行くんだ。
僕は一人、踊り場の窓の前に残った。
どっちが彼女なんだよ。
くだらない質問だ。実際、答えは「どっちも違う」で合っている。
合っているのに、なぜか、その言葉が耳の奥に引っかかっていた。
*
その週、誰も動かなかった。
清春からは二日に一度くらいメッセージが来た。
『店、行っていいのかな』
『分からん』
『宮森さんに謝りたいんだけど』
『たぶん、まだ早い。ステイで』
『りょ』
そういうやり取りを、何度か繰り返した。
平坂からは、何もなかった。
学校では毎日顔を合わせる。必要な話はする。それだけだ。彼女のほうから、あの日のことに触れることは一度もなかった。
僕は、その完璧さが怖かった。
平坂は、心の動きを誰にも見せずに何もかも済ませることができてしまう。十五年やってきたのだから、一週間くらい、どうということはないのだろう。
でも、心の中はどうなのかは、分からない。
*
九月八日の放課後、僕は一人で駅を通り過ぎた。
行くと決めたわけではなかった。ただ、勝手に足が動いた。
十分ほど歩いて、ポラリスの前に立った。
札は『準備中』になっていた。
何も考えずドアノブに触れた。鍵は開いていた。
*
「いらっしゃ……ああ」
カウンター席に客がいると思ったら、店長だった。ノートPCを開いていてディスプレイにはチャートのようなものが見える。本業に勤しんでいるのだろうか。
「不来方くんか」
「こんにちは」
「悪いな。栞、今日は上にいるんだわ」
僕は、そこで初めて店長の顔をちゃんと見た。
いつもの飄々とした感じが、少し疲れているように見えた。
「あのさ」
彼は、カウンターのノートPCを閉じた。
「あいつ、何かあったのか」
「……」
「夏休みの終わりくらいから、ずっと変なんだよ。朝起きるし、飯は食う。でも、店に出てくんないし。心ここにあらずって感じなんだわ」
店長は、深い溜息をついた。
「聞いても『なんでもない』としか言わねえ。俺も、こういうときどうしたらいいのか分かんなくてな」
僕の方も、なんと言えばいいのか分からなかった。
嘘をつくのは違う気がした。かといって、本当のことは説明できない。
「あいつさ、母親がいねーんだ。まだ小さいころに、事故で」
初めて聞いた。
「小さい頃っていうのは」
「まだ二歳にもなってないときだな。それから男手一つでてんやわんやよ。なるべく一緒に居れるように、仕事も辞めた。ずっと一緒だったんだが、こんなことは初めてなんだわ」
二歳だと、母親のことは覚えていないのかもしれない。そんな中、前世で両親を失った記憶を突然取り戻したのだ。
アルの母親と、宮森栞の母親を重ね合わせて、混同してしまっているのかもしれない。最悪、現世の母親を平坂に殺されたと感じた可能性がある。
あの時の宮森さんの様子は明らかにおかしかった。
「……たぶん、僕たちのせいです」
考えた結果、そう言うのが精一杯だった。
店長は、しばらく僕を見ていた。
「頼めるか?」
「……はい」
階段のほうを顎で示した。
「上がってやってくれ」
*
「……真白様」
二階の居間に通されると、宮森さんはソファに座っていた。
制服でも、エプロン姿でもなかった。部屋着のTシャツで、眼鏡だけがいつもと同じだった。
「座ってください。何か飲みますか」
「いや、いいよ。すぐ帰る」
「そうですか」
テレビが小さな音でついていて、誰も見ていないバラエティ番組が笑い声を上げていた。
「あのさ」
僕は、立ったまま切り出した。
「説得しに来たわけじゃないんだ」
「はい」
「平坂さんを許してくれとか、そういうことを言いに来たんじゃない。言えるわけがないと思ってる」
「……はい」
「だから、僕の話をしに来た」
宮森さんが、少し顔を上げた。
僕は、そこでようやく座った。
*
「僕はアルの身の上を知っていたんだ」
「え?」
「焚き火の当番が、君と僕だった夜に、君は故郷がどんな町だったか、その町がどうなってしまったかを僕に語った。家族の話もだ」
宮森さんは黙って聞いていた。
「そのとき、僕はこう言ったんだ。『必ず終わらせる。魔王を倒せば、こんなことは二度と起きない。だから、最後まで一緒に来てくれ』って」
「……」
「ずっと覚えてたんだ。なのに、気づかなかった。君は魔族を恨んでいた。アルの記憶を取り戻したときに、君が平坂さんや清春のことをどう思うか、想像すべきだった」
そうだ。想像力が足りなかった。元の敵同士が出会って、何のしがらみもなくお友達になれるだなんて、甘すぎる。
「君にとってアルの記憶は、いつ爆発するかわからない爆弾だった。君がそれを毎日抱えて生きてきたなんて、考えてもなかった。つらい思いをさせて、本当にごめん」
宮森さんは、何も言わなかった。
「『必ず終わらせる』っていう、前世での約束は果たせたんだけどね。僕も死んじゃったけど、魔王は倒した。ユグレトは立派だったよ。だけど」
僕は続けた。
「ふがいない僕でごめん」




