第20話 私の家族が、死んだ町です
お盆をはさんで、十日ほど空いた。
宮森さんの店は十三日から十六日まで休みだったし、平坂は親戚の集まりで県外へ行っていた。清春に至っては「墓参りで山に」連れていかれたらしい。修行か。
僕はといえば、家族で祖母の家に行き、蒼真がスイカを食べすぎて腹を壊すのを見ていた。
そんなわけで、次に四人が顔を合わせたのは、八月も二十日を過ぎた頃だった。
*
「終わってねえ」
清春が、夏休みの宿題を広げたテーブルに突っ伏していた。
「一ページも終わってねえ」
「あと十日ですよ」
「わかってる」
「私も終わってないですけど」
「お前もかよ」
宮森さんが、えへへと笑いながら、四人分の飲み物を配っていく。
「不来方くんは?」
「八割終わってるかな」
「意外とやってるじゃない」
「平坂さんは?」
「きっちり十日分残しているわ」
「完全に宿題をコントロールしている人の発言だな」
こんなやり取りも三度目だ。
エアコンの音と、氷の音と、外の蝉の声。八月の終わりの、なんということもない午後だった。
正直に言えば、僕はこの時間が好きだった。
前世の話をしても引かれない相手が三人もいて、宿題が終わっていないという、世界で一番くだらない悩みを共有できる。
それだけのことが、思っていたよりずっと得難いものだと、最近になって気づき始めていた。
――だからこそ、胸の奥に隠しているものが、時々ちくりと痛んだ。
石のことは、まだ誰にも言っていなかった。
*
「そういやさ」
清春が、伏せていた顔を上げた。
「お盆に墓参り行っただろ。あれやってたら、なんか思い出したんだよ」
「また?」
「うん。最近こういうの多いんだよな」
彼はストローで氷をつつきながら、記憶を手繰るような目をした。
「向こうにも、あったんだよ。死んだやつのための、なんつーか……祭り? みたいなやつ」
「墓参りみたいなもの?」
「いや、それも違うな。とりあえず決まった日に全員集まる儀式みたいなやつ」
「それ、思い出したのね」
平坂が、少しだけ顔を上げた。
「なんか、俺が仕切ってたっぽい」
「それがあなたの大切な仕事だったのよ」
清春は嬉しそうな顔をした。褒められると分かりやすく喜ぶ男である。やはり犬だ。
「でもあれ、祭りっつっても、みんな違うんだよな」
「違う?」
「やることがバラバラなんだよ。種族ごとに」
彼は指を折り始めた。
「まず、ずーっと同じ音出し続けるやつらがいる。その一日中ずっと、休まずに」
「お祈りみたいなものなのか」
「で、それとは別に、絶対に音を立てちゃいけねえ連中もいる。ちょっとでも物音させると本気で怒る」
「……それ、隣同士にしたらやばいんじゃ」
「そう。だから離すんだよ。それが俺たちの仕事」
清春は、自分でも呆れたような顔をした。
「あとは、地面掘って潜るやつ。一度潜ると三日は出てこねえ」
「お祭り終わっちゃうじゃん」
「あの種族は、死者は土の中で生き続けると考えているの。土の中で死者たちと語らっているのかもしれないわ」
平坂が補足した。
「あー、そういうことか。……あと、死んだ身内を食う一族もいたな」
宮森さんが、小さく声を上げた。
「あ、いや、悪い意味じゃなくて。あれが一番丁寧なんだって。ちゃんと自分の中に入れる、みたいな。 まあ岩みたいな見た目だから言うほどグロくない」
「そういう文化なのよ。こっちの世界にもあったのよ。エンドカニバリズムっていう風習が」
死者を悼む気持ちは、異世界であっても同じということか。なんだか感慨深い。僕たちはどんな弔われ方をしたのだろうか。
「あとさ、そもそも死って概念がねえやつらもいたぞ」
「え?」
「死んだやつと、ただいなくなったやつの区別がついてねえの。同じ扱いなんだよ」
「……じゃあ、なんで来るんだ」
「知らねえ」
清春は、あっさり言った。
「でも来るんだよ。毎年。なんか隅のほうにずっといる。何もしねえで」
「私が来いと言ったから」
平坂が言った。
「意味は分かっていないでしょうね。でも、来なければ私が怒るということは分かる。それで十分よ」
「そんなバラバラで、何のために集まるんだ、それ」
「んー、集まることに意義があるのかな」
清春は、しばらく考えてから言った。
「一つだけ、決まりがあってさ。その日だけは、誰も殺しちゃいけねえの」
殺すのが当たり前の者たちの発想だ。
思えば、このあたりから宮森さんの様子がおかしかった。
「……殺すなって、それだけ?」
「それだけ。それしか共有できることがねえんだよ。言葉も通じねえし、食うもんも違うし、弔い方もバラバラだし」
彼は、少し笑った。
「でも、それだけは全員守るんだ。不思議だよな」
「なんかこう、誰もが一体になれるもの、例えば……花火的なのはなかったのか?」
「かがり火は焚いたな。高いとこで。でもあれ、見えるやつしか見えねえから。目がねえのもいるし」
「意味あるのか、それ」
「あるやつにはある、って感じ」
話しながら、清春は懐かしそうな顔をしていた。
「あとさ、ガキがな」
「子ども?」
「どこの種族もガキは同じなんだよ。じっとしてらんねえの。音立てちゃいけねえほうのガキが、うっかり鳴いちまってさ。大人が全員真っ青になってた」
彼は思い出し笑いをした。
「あれは可哀想だったな」
清春って実は子供好きっぽい。
そんな噛み合わない者たちが、年に一度だけ同じ場所に集まって、その一日だけは誰も殺さないと決めている。
そんな景色を、僕は一度も想像したことがなかった。
*
――氷が、鳴った。
宮森さんのグラスの中で。
彼女が、手を止めていた。
ストローを持ったまま、目だけがどこも見ていない。
「宮森さん?」
呼びかけても、返事がなかった。
やがて、彼女はゆっくりと瞬きをして、それから、遠慮がちに口を開いた。
「あの……ひとつ聞いてもいいですか」
「おお」
「その、誰も殺しちゃいけないっていう決まり。誰が決めたんですか」
「私よ」
平坂は、なんでもないことのように答えた。
「集めるだけ集めて放っておいたら、たった一日でもかなりの数が死ぬもの。だから決めたの」
宮森さんは、頷かなかった。
しばらく黙って、それから、とても静かに言った。
「その決まりに」
「ええ」
「人間は、入っていましたか」
*
空気が、凍った。
平坂は、目を逸らさなかった。
「いいえ。その祭り……儀式内でのルールだから」
宮森さんの指先が、細かく震え始めた。
「宮森さん」
僕が呼びかけると、彼女は自分の額を押さえた。
「……変なんです」
「変?」
「さっきから、知らない景色が見えてて」
「無理に思い出さなくていい」
「隣町に、行ってました」
彼女は、僕の言葉を聞いていなかった。
「隣町に、叔母が、母の妹がいて。母に言われて、パンをたくさん持って。……あの日、私、隣町に行ってたんです」
僕の背中を、冷たいものが撫でたような気がした。この話、僕は知っている。
「戻ったら」
宮森さんの声が、揺れた。
「戻ったら、なくなっていました」
「――何が」
「家が。……町が」
*
誰も、何も言わなかった。
宮森さんは、自分の手のひらを見ていた。何かを確かめるみたいに、目の前の空間を指さしていた。
「兵隊さんが、たくさん倒れてました。人間の兵隊さんと、それから、人間じゃないのも。……でも明らかに倒れている人間の方が多くて」
「宮森さん」
「うちは、パン屋だったんです。母と、父と、それから弟が」
彼女は、そこで一度、息を吸った。
「弟、まだ四つで」
「宮森さん!」
僕が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
丸眼鏡の奥の目が、赤くなっていた。
「私、アルストロメリアじゃないですね」
瞳から、涙がひとすじ零れた。
「違うんです。今、はっきり分かりました」
彼女は、自分の胸のあたりを握った。
「母が、呼んでたんです。……アルヴィヤーナって」
*
沈黙が落ちた。
エアコンの音だけが続いていた。
「ネイダ、って町なんですけど」
宮森さんが、平坂のほうを見た。
いつもの、おっとりした調子ではなかった。かといって、怒っている声でもない。ただ、確かめようとしている声だった。
「ご存じないですか」
平坂は、宮森さんを見返していた。表情は動かない。
長い、長い間があった。
そして。
「覚えていないわ」
「え?」
「ネイダという町を、私は知らない」
宮森さんの唇が、わずかに開いた。
「私の家族が、死んだ町です」
「ええ」
「覚えて、ないんですか」
「ええ」
平坂の声には、揺らぎがなかった。
「魔族が踏みつぶした村や町は、何十、何百とあったの。地名を全部覚えているわけがない」
*
――やめろ
僕が口を挟むより早く、宮森さんが言った。
「何百」
「ええ」
「何百、ですか」
「そうよ」
「その、一つ一つに」
宮森さんの声が、初めて震えた。
「その一つ一つに、パン屋があったんですよ」
平坂は、答えなかった。
「弟がいて、四つで、朝になったら店の前を掃くのが仕事で、いつも半分もやらないで遊びに行っちゃって、母に怒られて」
彼女は、そこで言葉に詰まった。
「それが、何百」
*
「……悪かったとは思っている」
平坂が、口を開いた。
「謝罪はしないわ。しても意味がないから」
「意味がない、って」
「あなたの家族は戻らない。私が頭を下げたところで、何ひとつ変わらない。だから、代わりに事実だけ言う」
彼女は、まっすぐに宮森さんを見た。
「私の配下の軍が、あなたの町を通った。私は地名を知らないし、その行軍の指示を出したのが私かどうかも分からない。でも、私がいなければ起きなかったかもしれない」
宮森さんの目から、涙がつぎつぎと溢れてくる。
彼女は拭わなかった。
「……ずるいです」
「そうね」
「そんなふうに言われたら、私、どうしたらいいんですか」
*
「宮森さん」
清春が、おろおろと立ち上がった。
「あの、俺は、その、戦ってはなくて」
言ってから、しまった、という顔をした。
宮森さんが、彼を見た。
「……はい」
「いや、違う、そういう意味じゃなくて」
「知ってます。清春さんは、お祭りを仕切ってた人ですよね」
「あ、うん」
「みんなを集めて、場所をきめて、火を焚いて」
宮森さんは、笑おうとして、失敗していた。
「同じ日に、私の町、なくなってたのかもしれないですね」
清春の顔から、血の気が引いた。
*
そこから先は、あっという間だった。
宮森さんは、エプロンの紐を握ったまま、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「すみません」
丁寧な声だった。それが、かえって恐ろしかった。
「今日は、もう帰っていただけますか」
「宮森さん」
「お願いします」
僕は立ち上がって、何か言おうとした。
言葉が、一つも出てこなかった。
この状況で何か言えるとしたら、それは僕しかいなかった。僕しかいないのに。
かつて一緒に旅をして、多くを語り合ったユグレトとアルの記憶。そのどれ一つとして、今ここで役立つものがなかった。
「行きましょう」
平坂が、静かに言った。
彼女は代金を払おうとして、宮森さんに「いいです」と止められた。
*
外に出ると、まだ日が残っていた。
八月の終わりの、いちばん間の抜けた時間だった。空はまだ明るくて、風が生ぬるくて、どこかで子どもが自転車のベルを鳴らしていた。
三人で、しばらく突っ立っていた。
「……俺のせいっすよね」
清春が、掠れた声で言った。
「俺が、あんな話しなきゃ」
「違う」
僕は言った。
「清春のせいじゃない」
本当に、そうだった。
彼は思い出したことを話しただけだ。故郷の慰霊のための祭の話を。それのどこが悪い。
その話に、罪はない。
罪のないものが、あんなに人を傷つけることがあるのだと、僕は今日初めて知った。
背後で、かたん、と音がした。
振り返ると、店のドアの内側で、宮森さんが札を裏返していた。
『準備中』
まだ営業時間のはずだった。
彼女は僕たちのほうを見ずに、そのまま奥へ引っ込んでいった。
やがて、窓際の照明が消えた。
*
平坂は、何も言わなかった。
ただ、閉じたドアを見ていた。
僕は、その横顔を見ていて、遅れて気づいた。
――あそこが、この人の、唯一の場所だったのに。
学校でも、家でも、彼女は平坂永遠を演じ続けている。素に戻れるのは、あの一番奥のボックス席だけだった。
それが今、彼女を拒絶した。
「平坂さん」
「なあに」
いつもの声だった。何ひとつ乱れていない、完璧な、平坂永遠の声だった。
だからこそ、僕は何も言えなくなった。
「……いや」
「そう」
彼女は少しだけ笑って、駅のほうへ歩き出した。
僕たちは、その後ろをついていった。
平坂に言わなければいけないことがある。その存在が胸の中でどんどん重くなっていった。




