第18話 僕がずるをしていたから
あの雨の日から、三日が経った。
夏休みと言っても僕たちは毎日集まっているわけではない。そもそも四人の予定が合う日のほうが少ない。だいたい三日か四日おきに、数時間あの店――ポラリスの一番奥に集まる。
今日はその、四人が揃う日のはずだった。
『今日はごめんなさい。生徒会に呼ばれてしまったの』
朝、そのメッセージで目が覚めた。
『夏休みなのに?』
『夏休みだからよ。行事の準備は長期休みに片付けるものでしょう』
言われてみればそうかもしれないけど、そんな当たり前みたいに言われても知らないし。
『そもそも、なんで一年が生徒会に呼ばれるんだ』
しばらく既読がついたまま止まって、それから長文が返ってきた。
『うちの学校、成績上位者は一年のうちから生徒会に入ることになっているの。仮入部とかインターンみたいなものね。会計とか広報の手伝いをしながら、二年で本格的にやる人を選別する制度』
『そんな制度あったんだ』
『不来方くんには縁がないでしょうけど』
ないよ。ないけど。わざわざ言わなくても。
『あと、十月に近隣の高校が集まる大きな弁論大会があるの。うちには弁論部がないから、その出場者もそこから選ばれるの。今日はその説明会』
弁論大会。
そういえば、そんなものがあると聞いたことがある気もする。僕には本当に一生縁がない世界だ。
『じゃあ今日は無しか』
『そうね。日を改めましょう。栞には私から言っておくわ。キヨちんには不来方くんからお願い』
短いやり取りだった。
僕は少しだけ、指を止めた。
こういうとき、彼女の文面は素っ気ない。学校で見せる完璧な微笑みも、あの丁寧な言葉遣いも、文字にすると全部削ぎ落とされる。
たぶん、これが一番、素に近いのかな。
そう気づいて、なんとなく嬉しくなっている自分に気づいて、僕は毛布をかぶり直した。
*
清春に『今日は中止だってさ』とだけ送って、もう一度眠りに落ちようとしたところで、スマホがまた震えた。
『りょ』続けて、
『あのさ、変なこと言うけど』
『はい』
『うちの親父が、お前に会いたいって言っててさ』
僕は起き上がった。
『お前と会ったって言ったら、めちゃくちゃ食いついてきた。今日ヒマなら来いって』
『何の用で』
『分かんね。でも悪い話じゃないと思う』
三分ほど考えて、僕は返信した。
『行く』
*
外に出た瞬間、後悔した。
午後一時のアスファルトは、フライパンのように熱せられ、陽炎がゆらめいている。
太陽の光は真上から降り注ぎ、隠れる場所がない。
蝉の音が層になって襲ってくる。ミンミンとジージーが混ざって、脳をかき混ぜられているようだった。
自転車で五分の距離で、シャツが背中に張りついた。
金成剣道教室は、外から見ると何も変わっていなかった。
三年ぶりに引き戸を開けると、あの匂いがした。床板と、汗と、防具の革が混ざった、あの独特の匂いだ。嗅いだ瞬間に、体のどこかが勝手に反応した。背筋が伸びる。
それから、涼しさに気づいた。
「……エアコン、入ったんですね」
「おう。一昨年にな」
奥から出てきたのは、金成先生だった。
こちらはたった三年で、記憶より小さくなっていた。いや、たぶん僕の背が伸びただけだ。それでも、白いものが増えた頭と、少し丸くなった肩は、記憶の中の人と別人のように見えた。
「昔はよ、夏に扇風機回すのも甘えだって言われたもんだけどな」
先生は、道場の隅に置かれた業務用の扇風機を顎で示した。
オレンジ色の羽根の、大きなやつだ。首を振りながら、道場の空気をかき混ぜている。
「今はそんなこと言ってたら死ぬからな。実際、去年よそで倒れた子がいたって聞いたし」
「そうなんですか」
「まあ座れ。今、麦茶しかないけど」
道場の隅に、パイプ椅子が二つ出してあった。わざわざ用意してくれていたらしい。
床を見て、僕は言葉に詰まってしまった。
がらんとしていた。
僕が通っていた頃、この道場には三十人近い子どもがいた。夕方になると掛け声がうるさくて、先生の声が通らないくらいだった。
壁際に並んでいる防具は、六つだった。
「少なくなっただろ」
僕の視線を追って、先生が笑った。
「今、小学生が五人と、中学生が一人。うちの馬鹿息子は、もう来ねえしな」
*
麦茶を飲みながら、しばらく昔の話をした。
グラスの表面に水滴が浮いて、すぐに手のひらが濡れた。扇風機の音が一定で、話の合間の沈黙が気にならない。
先生は思ったよりよく喋る人だった。というより、僕の記憶の中の先生が、喋らなすぎたのかもしれない。竹刀の先しか見ていなかった子どもの目には、大人はみんな怖く見えていた。
「お前、強かったなあ」
先生が、しみじみと言った。
「ありがとうございます」
「いや、強かったってのはちょっと違うな。あれは、なんつうか」
言葉を探しているようだった。
「上手かった。上手すぎた。小学生のやる剣道じゃなかった」
そうだろう。前世で敵を斬っていた男が竹刀を握っていたのだから。
「だから、やめたときは参ったよ。あれは本当に惜しかった」
「……すみません」
「謝ることじゃねえよ。子どもが習い事やめるなんて、よくある話だ」
先生は麦茶をひと口飲んで、それから、ふと目を落とした。
「うちの清春がな」
「はい」
「あいつ、お前に一度も勝てなかっただろ」
僕は、何も言えなかった。
「俺は、それをずいぶんと責めちまった」
先生の声が、扇風機の音に半分紛れた。
「稽古が足りない、気合が足りない、根性が足りないって。毎日毎日、あいつにばっかり怒鳴ってた。……今考えりゃ、当たり前なんだよな。お前が強すぎだっただけで」
肩がさらに丸くなるのが目に見えた。
「息子だからって、厳しくすりゃいいってもんじゃなかった。あれは俺が下手だったわ」
*
――違います。
そう言えたら、どんなに楽だっただろう。
あなたの息子が勝てなかったのは、努力が足りなかったからでも、才能がなかったからでもない。僕がずるをしていたからだ。
生まれる前の記憶を持ち込んで、小学生を相手に、大人の剣を振るっていたからだ。
そう言えたら。
言えば先生は、恐らく信じてくれるだろう。
だが言えるわけがなかった。
僕は、麦茶のグラスを両手で持ったまま、床の木目を見ていた。
*
「で、本題なんだけどよ」
先生が、パイプ椅子の背にもたれた。
「不来方。お前、もう一回やらねえか」
顔を上げた。
半ば予想していた言葉だった。
「指導に回ってくれるでもいい。生徒として来てくれてもいい。どっちでも助かる」
先生は、がらんとした床を見回した。
「見ての通り、人がいねえんだわ。子どもってのは、上手いやつが一人いると集まってくるんだよ。憧れるからな。まあ、こっちの都合……経営の話だ。格好悪いこと言ってすまん」
格好悪くはなかった。
予想はしていたとはいえ、こんなふうに正直に真正面から言われるとは思っていなかった。
「少し、考えさせてください」
僕がそう答えると、先生は「おう」とだけ言って、それ以上は押してこなかった。
*
道場を出ると、暑さが壁みたいにぶつかってきた。
僕は少しの間、看板の前に立っていた。
三年前、僕がここをやめた理由は、はっきりしている。前世の記憶を使って同い年の子を叩きのめすのは、弱い者いじめだ。そう思ったからだ。
その判断は、今も間違っていないと思う。
だが、さっきの道場を見ていて、ひとつ気づいたことがある。
むしろ道場から離れていたからこそ、気づけたのかもしれない。
僕はあの頃、剣道を「勝ち負けのゲーム」だと思っていた。だから、ずるをして勝ってしまう自分が汚く見えて、逃げた。
でも、あそこで教えられていたのは、そういうことではなかったはずだ。
礼をして入り、礼をして出る。勝っても相手の前で喜ばない。打たれても、姿勢を崩さない。
先生が毎日怒鳴っていたのは、技術のことではなかった。
武道というのは、たぶん、人を作るためのものだ。
強くなるためではなく、その強さをどう使うかを、体に、いや、心に覚えさせるためのもの。
だったら、僕がやるべきだったのは、やめることではなかったのかもしれない。
祭りの夜、僕は枝を握って、不良たちに立ち向かった。あのとき初めて、前世の技術を「誰かを守るため」に使った。あれは正しかったと、今でも思う。
なら、もう一度剣を取ってもいい。
いいはずなのだが。
――今じゃない。
僕は看板から目を離した。
今ここに戻ることは、たぶん、清春への贖罪になる。それは僕の気が済むというだけの話で、道場のためでも、彼のためでもない。
自分の後ろめたさを拭い去るために、この場所を利用したくなかった。




